14 忘れてしまうのはヒト―――戦車に立ちふさがるもの
はっとして彼は、頭をすくめた。
頭上を石がかすめていく。
あれからずっと、何処へ行くともなくソングスペイはこの都市の中をさまよっていた。その間にも、事態は分刻みで展開していく。
図書館を飛び出した時から、その気配はあった。芝生広場のテントは、妙にごつごつとしたものが押し込められているような印象が前からあったが、その中身がはみ出していた。
大道具と思っていたのは、立て看板らしい。
いや、彼らにしてみれば、それが「大道具」なのだろう。彼らは舞台をその場から動かそうとしていた。
大通りの、理学群付近では、拡声器を持った学生が、何ごとか叫んでいた。それは秩序を持ったものではないらしい。あちこちでそんな声が、不揃いに飛び交っている。
坂を下る。
とにかく学校から出よう、とソングスペイは思った。
そうしないと、この全身の震えは治まらないような気がした。走っている間はまだいい。だが止まると、震えが出そうだった。止まってはいけない。止まって、奴に、所在を知られてはいけない。
だが外に出ても、事態は学校内と変わらない。既にそれは始まりつつあったのだ。
き… ん、というヴォリュームの調整を間違えた時の音が耳に飛び込み、彼は反射的に振り向いた。街頭のTVの画像が乱れながらも、点いている。
放送は限定されていたから、その時間も定まった時でしかない。彼はそばに立つ時計を見る。まだ早い。まだそんな時間じゃない。
だが大きな受像器は、砂嵐を立てながらも、点いている。放送が、送られようとしているのだ。その異変に気付いた人々が、次第に、足を止めつつあった。
彼はその場から妙に動けない自分に気付いていた。逃げなくてはならない。少しでも遠くに。だがその気持ちとは裏腹に、今から何がここで起こるのか、見たいような気もしていた。
そして。
ぱん、と音を立てて、画像が、開いた。おお、と周囲に群がりつつある人々の口から声が漏れた。
カメラワークがひどくぎこちない。何やらふらふらとしている。映し出されている場所の照明もそうだ。確かにいつものニュースを行う場所のように見えたが、そのわりには、変にすさんでいる。
ああそうか、と彼は急に一つのことに気付いた。デスクの上の花瓶が倒れているのだ。
そしてそのデスクに乗せたマイクに向かう女性が、映し出された。
『市民のみなさんこんにちは。こちらは中央大共同行動隊です』
耳を隠すくらいの長さの髪の女性が、ぱっと目の覚めるようなはっきりとした、通る声を響かせた。
『市民の皆さんに報告致します。たった今、我々共同行動隊は、州中央放送局を占拠しました』
おお、と今度はどよめきが、集まった市民の口から漏れた。それを見ながらソングスペイは、画面の女性に目を奪われていた。
…見覚えがある。
それもそのはずだった。画面の中でマイクに向かう女性は、ヴェラだった。
途端に、あの同僚の顔をしていた連絡員の笑いが脳裏に浮かぶ。そして自分に向かって訊ねた言葉。
ウーモヴァ姉妹を知っているか?
彼女は時々草稿らしきものを読みながら、画像を流していた。それは、今までこの地では流されたことのない、他州からの映像だった。
『…我々はこのように圧迫された生活を送らなくてはならない義務は何処にも無いはずです。少なくとも、盗聴されることを怖れて、子供達が電話を遊びに使うこともできないような環境は、間違っています!』
彼ははっ、と顔を上げた。何かが彼の記憶を押した。電話と盗聴。もしや。
その当時、自分達は、そんな遊びをしてはいなかったか?
そしてその時の遊び相手は…
顔を上げる。アナウンスをする女性に、草稿の続きを手渡すもう一人の女性が居た。
*
「ご苦労様ジーナ。いい出来だ」
「ありがとう編集長。だけどヴェラだから、ああいう言葉が似合うんだわ。あたしはヴェラの様には喋れない。ただ書くだけよ」
いいや、とイリヤは手を振った。
「そのかわりヴェラは書けないさ。向き不向きなんてのは、人それそれだからな」
「そうでしょうか」
「そうだ」
ゾーヤもうなづく。つい数時間前に占拠した際に出た「ゴミ」の処理に、彼らは追われていた。
筋書きはカシーリン教授が用意した。彼は自分の提唱した「言葉の力」を実践すべく、文系サークルの学生達に指示をしたことになっている。
無論その指示の実体は、「MM」の筋書きに他ならない。既にそのお膳立ては出来ていたのだ。シミョーン医師の弾劾から始まり、それは司政官自体の政治、現状のこの州の体制批判へとつながった。
ヴェラはあれからずっと市民に向けて語り続けている。時々流す、他州からのフィルム、VTR、そういったものの合間にしか休憩を取らない。
これが、彼らの今回の演劇のコース変更の結果だった。当初は批判を中に込めた、あくまで「劇」。ただの演劇だったはずなのだが、それはやがて、現実とリンクするものへと変わっていった。
「とりあえず、俺はずいぶんと君に対しての見方が変わったよ」
ありがとう、とジナイーダはうなづいた。実際、彼女はこの一連の活動に、言い様のない充実した気持ちを感じていたのは事実だったのだ。そして、どうして自分がずっと鬱屈していたのか、それがひどく不思議に思える。
何故だろう。
彼女は時々考える。そのたびに、何かが頭の隅をよぎるのだが、そのたびに、ライトや日射しのきらきらする光が目に入って、うるさい。そしてそのうちに、そんなことを考えていたことを忘れてしまうのだ。
だがそれはそれでいい、と彼女は思う。
そんなことをいちいち考えている暇は無いのだ。今の自分には、やるべきことがあまりにもたくさんある。
「…そう言えば、お腹すきませんか?」
ジナイーダは二人に問いかけた。
そう言えばそうだな、とイリヤはゾーヤと顔を見合わせる。彼は立ち上がり、束の間の休憩を取っている仲間に向かい、問いかけた。皆そういえば、という顔を見合わせた。時計は既に、夕刻を指していた。
ふう、とジナイーダは姉の姿をうかがう。元気な声を張り上げてはいるが、その顔にはやや疲れが見える。
「じゃああたし、食料調達に行ってきます」
「いやそれは危険だ」
イリヤは慌てて切り返す。だが彼女は首を横に振った。
「大丈夫です。それにどっちかといえば、女のほうが、気付かれないんじゃないかしら」
「…それも一理あるぞ、イリヤ」
ゾーヤも腕を組んでうなづく。
「食料は調達しておいたほうがいい。我々の行動は確かに計画は計画としてあるが、それはあくまで机上のことだ。この先何があるか判らない。せめてきちんと腹ごしらえくらいはしておいた方が得策だ。彼女一人で危険というなら、私も行こう」
彼女はあくまで冷静に言う。
女なら、という仮定は実は彼女は考えていない。そこまで当局は甘くはない。だがどうやら言い出したら、この最近元気になった友人の妹は、今は何でもやりたい矢先のようである。使っても悪くはない。
そこまで自分の恋人が考えているかを推測しているかは判らなかったが、そうだな、とイリヤもうなづいた。
「それじゃ、とりあえず外へ行きます。何か食料以外に必要なものはありますか?」
「化粧水シートを買ってきて!」
姉の声が飛んだ。慌ててマイクの方を見ると、フィルムが流れてる様子だった。
「何かお肌がかさかさしてるわ。これじゃあアップに耐えられない!」
無論、「お肌」だけではないのだ。疲れが目の端や髪の毛の乱れにもやや出かかっている。そういうのを彼女は嫌うのだ、とジナイーダは知っていた。
放送のちょっとの隙をついて何度もヴェラは化粧を直していた。できれば一度完全に落として、さっばりとした顔にもう一度念入りに「舞台メイク」をしたいところだろう。
だがそういう場所ではない。そしてそんな弱音を吐くのも彼女の嫌うところである。
判った、とジナイーダは声を張り上げた。
*
二人がそっと放送局の職員食堂の裏から出た時、既に周囲は暗くなっていた。だが、その暗さは、いつもと違っていた。
「…何か、妙だ」
ゾーヤは一歩通りに出ると、つぶやいた。
「何が、妙なの?」
「…街灯の数が少ないと思わないか?」
そういえば、とジナイーダは思う。確かに少ない。今居るここ、ではなく、遠くに見える市街地、繁華街の方向である。放送局自体は、市民にはその位置を正確には把握されていなかった。だからこの騒ぎが起きたところで、その場所そのものへ向かう者の姿は殆どなかった。
「むしろ、反響があるとしたら、街頭のテレヴィジョンだ」
ゾーヤは再びつぶやく。そうね、とジナイーダも表情を引き締めた。二人はその方角に足を速めた。
街灯は割れている。街頭テレヴィジョンは、ひっきりなしにニュースを流す。やや高い女性の声は、立て続けに喋り続ける。扇動する声だ、とソングスペイは思った。
これまでこの電波では流れたことのない画像が、その女性の声の合間合間に流される。このエラ州の、シェンフンの市民は、全くこの類の画像を知らない訳ではない。シェンフンの中だけでも、工夫をこらせば、ラジオは耳にできる。学生の割合の大きい都市では、その傾向は大きい。
一般市民にせよ、州境に住む親戚や知り合いから、漏れだし受信できる画像をコピーし、受け取る者もいる。全く知らない訳ではない。それこそ「放送の力」を読まなくとも、実践している者はあちこちに既に居たのだ。
だがそれは、あくまで個人がひっそりとするものだった。少なくとも、この街頭テレヴィジョン、いつも司政官とその周囲を賛美するばかりの報道をくりかえすこの大きな受像器が流すものではなかったのだ。
この受像器から。そのインパクトは大きかった。いつもその存在すら忘れているようなそのモニュメントにも似たそれは、その日、いつの間にか、アパートの中に閉じこもっていた市民をも引っぱり出したのだ。
そしてその画像の合間の女性の姿と声。はっきりとした発音の、だがやや急いた口調で語りかける。その中には軽い怒りすら感じられるが、言葉の持つ力そのものは損なわれない。むしろ、その軽い怒りを感じさせる、ほんの少しうわずったような部分が、見る人聞く人の中に、何かを引き起こすようなものを持っていた。
最初の石が、投げられたのは、いつだったろうか。
それがどの言葉によって引き起こされたものか、説明できる者はおそらく誰もいなかっただろう。だがその瞬間は、あったのだ。
市民の視界の端に、公安の制服が映った。いきり立ち、街頭テレビジョンの電源を切ろうとする彼に飛びついたのは、子供だった。
その公安局員は、おそらく職務に忠実であろうとしていただけに過ぎないだろう。だが彼は、やり方を間違えた。スイッチを切ろうと伸ばした手にしがみついた、ほんの七つ八つの少女を、彼は煩げにふるい落とした。
少女はあ、と声を上げてその場に倒れた。
ふ、と一瞬の間を置いて、驚きはやがて溢れ上がる訳の判らない感情に支配される。
少女はわあ、と泣き声を上げる。
それは無意識だったろう。
自分を突き飛ばすこの大の大人が怖かったのかもしれない。
ただ自分の行動を邪魔されたのが悲しかったのかもしれない。
当の本人すら、爆発したように泣く時には、そんなことは判らないのだ。
だが少女の感情の内容が何であれ、それは人々の何かに火を付けた。
それはひどく偶然から始まるのだ。
たとえその直前に、優しそうな目をしたお兄さんが、彼女に向かって、ひどいことをするね、注意してきてごらんよ、子供には何もしないよ、と言ったとしても、だ。
最初の石が投げられた。
*
夕刻になる頃には、石はあちこちを破壊していた。何故石だったのか。石しかなかったのだ。ここの市民には。そして石があった。
一つの破壊を起こすことによって、人々は破壊すること自体をその記憶の奥から思い出したのか、一度家に戻り、何かしらの自分の武器となるようなものを持ち出していた。何がそうさせるのか、彼らは判らなかった。ただそうしなくてはならない、と思ったのだ。
夜がすっかりと街を覆う頃には、街灯のガラスというガラスが、ことごとく割られていた。人々は闇に紛れて、手にめいめいの武器を持って、司政官の官邸方面へと進んでいた。
誰も、その意味を正確に把握してはいなかった。ただ、それまでの、何かしら鬱屈した気持ちが、それで晴れるような気がしていた。
これだけの人数がいるんだから。
根拠の無い確信が彼らの心に芽生える。たとえどれだけ人数がいようが、法に外れれば犯罪だ、という理性は、彼らの頭から消えかけていた。
*
だがそれでも経済活動というものはタフだった。ジナイーダとゾーヤは、その喧噪の中、ようやく灯りのついている店を見つけ、少なくなっていた食料を大急ぎでかごに放り込むと、もう閉めたいんだ、とぶつくさ言う女主人をなだめすかすかのようにして精算をした。
そして大きなクラフト紙の紙袋に、買った食料を順番もへったくれも無く放り込む。手提げがついているのが救いだ、とジナイーダは思う。無かったら悲惨なことになっている。缶の飲み物もりんごもパンも、多少の傷やつぶれはがまんしてもらおう。
からんと音のする店の扉を開けたら、暗い街の中に、低い地鳴りの様な音が響いていた。何なの、とジナイーダは反射的にゾーヤの顔を見る。この冷静な姉の友人の表情もまた、変わっていた。
「…何… 何が起こるの?」
ゾーヤはち、と唇を噛み、下げていた紙袋を胸に抱きしめた。
予想はされていることだった。少なくとも、彼女の冷静な頭の中には、これが出てくることは、予想されていたのだ。だが彼女はそれを口にはしなかった。
「…ねえ、何なのよ! あれ…」
地響きは、やがて近づいてくる。ゾーヤは無言で首を横に振った。ジナイーダの中に、黒い不安が広がる。
だが、その不安の中に、不意に浮かび上がってきたことがあった。彼女ははっとして、袋を下げていない方の手で口を押さえた。
「…あ… 化粧水シートを忘れた」
「…君そんなことを言っている場合じゃ…」
「ヴェラには必要でしょ。あたし行かなくちゃ」
おいジーナ! と背後で珍しいほど焦った声が聞こえたが、ジナイーダは聞いてはいなかった。
手に持った袋は重い。だがその重さが、彼女にとって、自分の役割のような気持ちがして仕方なかった。
危険なのだ。だが危険なほど、それは心地よい。自分は必要とされている、役に立っている、という気持ちにさせてくれる。
地響きが大きくなる。一体何処から何がやってくるというのだろう?
そしてその反面、化粧水シートを売っている店を、目は探している。
何処もかしこも今日は店じまいだ。当然だったろう。だけどヴェラには必要よ。彼女は思う。ヴェラはその言葉の力を、その声で出さなくてはいけない。そしてその言葉を書いたのはあたしだわ。
あれはあたしの言葉の力でも、あるのよ。
…ふと顔を上げると、通りの向こう側に、灯りのついている店があった。
どうやら薬や化粧品を扱う店らしい。普段夜間に外出などしないから、昼間と違う印象の街に、彼女は眩暈のような感覚を味わう。道も何も、暗い、街灯の壊された市街では、さっぱり判らない。
地響きが次第に大きくなってくる。だが目標は正面にあった。
あまりに暗いと、距離感というものは、失せるのだ、とゾーヤなら言っただろう。
だが彼女はゾーヤではない。
右の耳に、地響きだけでなく、何かがきしむような音がするのに、気付いた時には遅かった。彼女は自分が道路の真ん中に居たことに、その時初めて気付いた。
街路樹が、視界の端と端にある。そして、夜の微かな灯りに、その姿が、次第に輪郭を見せてきた。
…戦車?
気付くまでは、いいのだ。目の前にある目標物に対して、ひたすら突き進んでいけばいい。だがその途中にあるものに気付いてしまった時には。
彼女は自分の手が、力を無くしていたのに気付かない。
手提げ袋が、その場にずさ、と音を立てて落ちる。きしむ音が、近づいてくる。なのに、足が動かない。
どうしよう。
彼女は目を大きく見開く。どうしよう。足が動かない。全身が一気に総毛立つ。だけど身体が動かない。
ぱあ、とその時、ライトがこちらを向いた。目がくらむ。彼女はくらり、とその場にへたりこんだ。顔を押さえ、思わず目を閉じていた。
轢かれる!
―――きしむ音が、奇妙な悲鳴を上げていた。
ジナイーダは、その音の変化に、ゆっくりと手を顔から離した。
彼女は、信じられないものを、見た。
誰かが、戦車を、止めている。
軍の制服を着た、誰かが、自分の目の前で、戦車を背に、それを止めているのだ。逆光で、顔は判らない。だけど、長い髪。長い髪だ。腰のあたりまである髪が、ライトに透けて、薄い茶色から金髪にまで見える。
だけど。
彼女の理性はそこまでだった。
悲鳴が、その場の音に絡まった。
こんなことできるなんて、人間じゃない、化け物だわ!
やめて来ないで、と彼女は声にならない声を上げ、頭を振る。そんな、戦車を止めているのに近づく訳がない、という理性など彼女のどこにも残っていなかった。ただ今は目の前に居る非現実に、頭が拒否反応を示している。
だが、耳には。
「元気でねジーナ」
「ジーナ!!」
その声を聞きつけたのか、ゾーヤがようやく追いつく。
事態を素早く把握すると、彼女の手と、落ちた手提げ袋を一気に引き上げると、ほとんど転がらんばかりの勢いで、通りの向こう側へと走り抜けた。
大丈夫か、とゾーヤはその場にうずくまったジナイーダに、やはり彼女自身も全身から吹き出す冷や汗に気色悪さを覚えながら、訊ねた。
ジナイーダはがくがくと、両手で自分自身を抱きしめて震えていた。
何なのあれは、というその瞬間の、人間以外のものを見た恐怖。
そして、もう一つ。
何か引っかかっている。逆光の中で、見た、あの。
ひどく怖い。だけど、奇妙に別の思いが、彼女の中で、行き場所を無くして広がっている。
それは、何か、暖かくて。
「ジーナ!」
揺さぶられて、ようやく彼女は正気を取り戻す。だが、その次の瞬間、顔をいきなりごしごしとこすられるのに、びっくりして彼女はゾーヤからぱっと離れた。
「な、何するの…」
「何するもこうするもないだろう… 君」
そして顔に手を当ててみる。ぐっしょりと、濡れていた。
そしてそれを見ながら、手のひらに、また水が滴り落ちるのを彼女は感じた。
*
「…お前」
そしてこの行動に驚いたのはジナイーダだけではなかった。
コルネル中佐は戦車の前から大きく飛び上がって退いたキムを素早く掴まえ、そのまま街路樹に押しつけた。キムはひどく疲れた用な顔をしていた。だがだからと言って、何処かをケガしているような様子は見られない。
「…何だよ一体。ちょっと休ませてよ。俺だって疲れるんだってば…」
「お前今何をやった!」
「何って… ちょっと女の子が轢かれそうだったからね…」
まるでこの口調は、あの時のようだ、とコルネル中佐は思う。あの時。自分と寝た時に、ひどく疲れ果てて、寝るからねと断言する時のような。
「だからって」
戦車は、マトモに動いていたはずだ。だが中佐は言葉を飲み込む。いくら短時間だったにせよ…
「…いいじゃない、そんなこと」
キムは煩そうに頭を振る。無造作にくくった髪が、ざらりと揺れる。
「…それよっか、この都市から逃げたソングスペイを追ったほうがいいんじゃないの?」
中佐は黙った。そして唇を噛む。
「ねえ中佐、俺あんたのことはかなり好きだよ」
キムはまだ疲れの残る声で言う。
「それがどうした」
「だから、とっとと仕事を終わらせたいんだよ俺は。とっとと行こう。今から行こう。奴は最初に上陸した島へ向かったはずだよ。この惑星から脱出するために。俺から逃げるために」
だけどね、と彼は笑う。だが妙にそこには力が無い。
「あんたからは逃げられないよ。あんたがMの銃なんだからね」
ふん、と中佐は眉を寄せ、街路樹に相手を押しつけると、ひどく強引に唇を重ねた。
出立の、時間なのだ。




