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13 学内の動きが活発になる中、キムはソングスペイを糾弾する

 何故だ、とラーベル・ソングスペイは思った。

 いや、思っていた。今現在の彼には、ゆっくりと物事を考えるだけの時間はもはや無かったのだ。

 何故そうなったのだ、と彼は無意識に頭の中で叫ぶ。

 ばん、と走り去る人の、肩にぶつかる衝撃に、彼はよろけ、背中をしたたか、壁にぶつけた。

 そしてその壁の鮮やかさに、それが「絢爛の壁」であることにようやく気付いた。

 消えた街灯。いや消えたのではない。その周囲には、石と、ガラスの破片が飛び散っている。片づける者など何処にもいない。そんな暇が何処にある?

 彼は唇を噛みしめる。背中が寒い。だけど仕方がない。

 知っていた。その時が来たのだ。

 キンモクセイはもう、その花の時期を終えていた。


   *

 

 発端は、ある朝の大学構内の掲示板に大きく貼られた新聞の号外だった。

 それはいつものそれとは違い、大きな見出しは赤の文字で書かれ、その口調はいつもの穏やかな編集長特有のものとは異なっていた。問いかけと命令の混じった口調は、学生達にとっては見慣れないものだった。

 だがその新聞の発行元は、彼らがなじみ深い新聞部のものだった。ちゃんと編集長イリヤの名もある。

 学生達は掲示板に群がり、ある者は背伸びをし、ある者は人をかき分け、ある者は飛び跳ねて、その内容を目にしようとした。

 そしてそれは校内の中央掲示板だけではなかった。各学群にあるそれぞれの掲示板、壁、柱、見渡せば至るところに、その赤い文字が目につく。

 その横をヴェラは足早に走り抜ける。短い髪を揺らせ、やがてその姿は、林の中に入って行った。校内のあちこちに点在する緑は、天然の抜け道や隠れ場所を形成する。

 彼女は狭い道を通り抜け、文系サークル棟へとたどり着く。廊下に直接入る裏口から中に入り込むと、脇の階段を勢いよく上り、目的の部屋へと駆け込んだ。


「お帰りヴェラ」

「どうだった?」


 声が飛ぶ。そこには既に、十名くらいの者が集合していた。新聞部、演劇部、文芸部といった文系サークルの中から今回の目論みに参加したメンバーが、その時そこには集まっていた。


「どうだった? 反応は」

「上々よ」


 彼女はにっこりと笑う。


「何処でも皆、群がっていたわ。とりあえず学内情宣はいい調子よ」

「だがいたずらに成功を喜べる状況ではないな」


 ゾーヤは腕組みをし、冷静にそう言う。


「教授の安否が気遣われる。我々の行動がどう当局に取られるか」

「それを怖がっていては、何もできないじゃない」

「それはそうだ。だが」


 ヴェラは首を横に大きく振る。


「教授自身が言い出したことよ。あたし達にできるのは、教授があたし達に託したことを遂行することだけだわ」


 そうだそうだ、と周囲も声を上げる。

 ゾーヤはとりあえずはうなづいて見せたが、やや何か引っかかるものが残ってはいた。彼女の記憶の中で、妙に赤いものがよぎるのだ。だがそれが何であるのか、彼女には思い出せない。その「思い出せ無さ」が疑問を呼び起こす。

 だが今の状態で、直接カシーリン教授から「頼み事」を受けたヴェラやジナイーダ姉妹や、「その時」が来たと高揚している自分の恋人を冷静にさせるのは難しい。志気が下がると一喝されるだけのような気もする。

 では自分は。彼女は思う。せめて私だけはこの妙に冷めた部分を見失わずにいよう。

 彼女は決して楽観主義者ではなかった。それが裏目に出ることも過去にはあったが、とりあえず今の今においては、それを忘れてはいけないような気がしていたのだ。

 カシーリン教授がこの数日前、当局に「本当に」逮捕されていた。これまでの執筆活動が「反政府主義的」であると見なされたとのことである。

 それを合図に、新聞部は、シミョーン医師に関するすっぱ抜きと、それと平行したカシーリン教授の逮捕に関する学生への問いかけ、を始動させた。

 演劇部は公演の準備に、学内の芝生広場にテントを張った。その中は演劇の本番に使われるものがあるから、と関係者以外立ち入り禁止だった。

 ジナイーダはその中へと度々入り込む。彼女は台本を少しづつ変化させていた。予定の行動が、次第にその内容を変えていく。出演する役者達も、その意図を次第にくみ取りはじめ、それに賛同する者は残り、しない者は他言無用を約束させられた末、演劇部自体から離れていった。

 毎日がめまぐるしく、そしてひどく楽しいとジナイーダは感じていた。

 身体は疲れている。何せまともに寮に帰って眠れる日の方が最近は少ない。いい加減な姿勢で、適当な格好で眠るから、身体はだるい。何やらいつも眠いのだが、妙に頭の中は冴え冴えとしている。

 ヴェラは公演の練習の合間、市内に住む学生の下宿に身をひそめているブラーヴィン氏と暗号の電話をし、時々会っている。その行動を妹は冷静に見送る。

 

 そしてその彼らの行動全体を冷静に見る目もあった。



「よぉ久しぶりじゃん」


 図書館の四階の窓から、大通りや芝生広場の辺りの学生の動きをぼんやりと見下ろしていたソングスペイ少尉は、その明るい声に、慌てて本を開け、顔を上げた。栗色の長い髪の同僚がそこには居た。


「キム… か」


 思わず少尉、と階級名を口に出しそうになり、口の回りが遅くなった。


「何か騒がしくなってきたねえ」

「そのようだな」

「そろそろ始まるってことかねえ」


 キムはそう言いながら、窓際のソングスペイの横に立った。

 何が、とソングスペイは訊ねる。


「無論それは、キミの考えてることでもあるでしょ」

「俺が? 何を考えてるって」


 ふふん、とやや上官と似た笑い方をすると、キムはそばにあった椅子を引き寄せ、腰を下ろし、脚を組んだ。


「まあそんなことはどうでもいいのさ」


 キムはにっこりと笑う。そして長い髪の毛の一房を取ると、くるくると指で玩ぶ。


「俺はキミに一つ、聞きたいことがあったのよ。答えてくれないかなあ」

「質問されてもいないのに、答える訳にはいかないだろう?」

「それは非常に学生らしい答えだねえ」


 彼は組んでいた脚を解き、今度は腕の方を組んだ。


「ウーモヴァ姉妹を知ってるかい?」

「ウーモヴァ姉妹?」

「ほら、キミがこの街に住んでいた頃の、幼なじみのウーモフさんちのおじょーちゃん達さ」


 ソングスペイは一瞬何のことを言われているのか判らなかった。自分がここに住んでいたことは、誰にも… いや、二人をのぞいて、言っていないはずだ。あの新聞部編集長と、そして…


「…中佐から聞いたのか?」


 ああそうだ、と彼は思う。確かこいつは。そうだね、とキムはうなづく。


「仲がいいようで何よりとか言いたい?」

「そんな無粋なことは言わないさ。…だが何でキム、お前が、隣の姉妹のことまで知っているんだ?」

「さあて。何ででしょう」


 口元が上がる。ソングスペイは自分がからかわれていることに気付き、かっと胸の中が熱くなるのに気付く。


「冗談はさておいて、俺もちょっとマジで聞いておきたいことがあるのよ。ラーベル・リャズコウ君」

「…」


 ソングスペイは苦い薬を口の中で広げてしまったような顔になった。

 自分はその名前を口に出したことはない。中佐には言ってある。容易に調べはつくことだ。彼は言われたことでやや混乱する頭をとりまとめようと努力する。だが手のひらがじっとりと汗ばんでいる。


「…知っている。そりゃ昔、隣に住んでいたから、よく遊んだ。だから知っている。それがどうしたって言うんだ」

「キミの親父さんが、捕まったのは何でなのか、知ってる?」

「いや…」

「本当に?」

「しつこいな。本当に知らない。ある日いきなり、家に沢山の警官がやってきて、親父とお袋を掴まえていったんだ。兄貴と姉貴が、慌てて俺を隠して、連れ出したんだ。…何でか、なんて調べる間もないよ」

「だけどそのにーさんねーさんは何もキミに言わなかった訳?」

「出来れば、そんなこと忘れさせて育てたかったんだろ。そのくらいの余裕は兄貴にも姉貴にもあったし」

「だけどキミは戻ってきた」

「だからどうだって言うんだ」

「いや」


 キムはひらひらと手を振る。


「俺が知りたかったのは、これだけ。知りたかったのはね。それで安心した。俺はどうやらそう間違ったことをしていないらしいしね」

「一体何のことだ?」


 ソングスペイは眉を寄せる。そして椅子を回し、やや身を乗り出した。


「後は、弾劾だ」


 横の机に頬杖をつきながら、にっこりとキムは笑った。何だって、とソングスペイは思わず椅子を立ちかけた。そしてその手が次の瞬間、押さえられるのを感じた。

 すごい力だ、と彼は思った。そして、脳天まで、一つの刺激が走るのを感じた。

 全身が総毛立つのを感じた。

 触れられた手のひらに、明らかに、その信号が、ある回数を伝わってくる。

 彼は捕らえられたままの手が次第に汗ばむのを再び感じた。振り払う。そして、ようやくその時、彼は自分の「同僚」が、何であるのか理解した。


「…キムお前は…」

「暢気なものだな、ソングスペイ」


 口調が変わる。だが表情は変わらないままだった。凍り付いたような、明るい笑み。

 図書館はその日、静けさとは無縁だった。あちこちで貼られた新聞の話が繰り広げられている。

 いや新聞だけではない。自分自身が、それにどう対処するのか、それがどういう意味を持つのか、そんなことをとりとめもなく、次第にヴォリュームを増す言葉で討論している。


 ばっかじゃねーの?


 キムはそれを横目で見ながら内心つぶやく。


 討論する暇があれば、何かすればいいんだ。


 彼の中では、まだあの先走りな新聞部や演劇部の連中はましな方だった。とりあえず、何かやろうとはしている。おそらく彼らはこの後、ひどく壁にぶつかるだろう。それは見えすぎる程見えている。


 だが、何もしないよりはましだ。


 司書達もさじを投げた状態の館内は、そう簡単に会話が聞き取れる状態ではない。そして彼らは館の端に居た。


「…何を… 俺が、何を…」

「あいにく、俺はお前の弁解を聞いている程の時間はないからね」


 掴まれた手から、痛撃が走る。ソングスペイは反射的に、その手を振り解いていた。

 がたん、と大きな音を立てて、椅子が倒れた。だが周囲も似たかよったかの状況ゆえ、その程度のことで、視線が集中することはない。ふらり、とキムもまたその場に立ち上がった。


「いずれにせよお前は追われるんだよ、ラーベル・ソングスペイ。我らが組織の命に背いて、この地での反体制運動を妨害せんとしたこと」

「…俺が一体」

「あいにくお前の手持ちは、俺の方に従順だったよね」


 そういえば、と彼は思い返す。新しく反体制派に加わった連中を次々に襲撃させるはずだった、のに… 

 それはいつの間にか自分の視界から消えていた。不可解だったが、大声で探す訳にもいかず、行動は滞っていた。


「しかもそれはそれとして、お前自身は、我らが組織の一員だ。それが軍警の少尉どのとはね。コルネル中佐がさぞ喜ぶことだろうね」

「…き… 貴様は… 貴様は何だと言うんだ!」

「あいにく、俺は別に本当の軍警じゃあないんだけど?」


 くく、とキムは声を立てる。ソングスペイはゆっくりと後ずさりする。

 ざらりと前に回っていた髪の毛を流すと、キムは逆スパイを気取っていた末端構成員との間合いを計った。

 彼の足もまた、ソングスペイの後ずさりと合わせるかのように、少しづつその床の上を、滑らせるようにゆっくりと動き出した。

 緊張が切れるのは一瞬のことだった。

 ソングスペイは、いきなり机にばん、と手を置くと、それを飛び越えた。キムもまた、それを追うように机に飛び乗った。

 図書館を走ってはいけません! とヒステリックに司書の声が響く。そんな場合じゃないんだよ、とソングスペイは全身に走る悪寒を振り払うように、館内を走っていた。


 あれは。


 彼は今にも自分の動きを止めそうな悪寒の中で、奇妙に冷静にそれを判断している自分に驚いていた。

 噂には聞いていた。組織を…「MM」を、その内部から裏切る者には、確実に死をもたらす執行人がやってくるのだと。

 反則だ、と彼は思った。

 それが、あんな笑いをたたえているなんて。無邪気とも取れる、あんな笑いを始終浮かべているなんて。

 階段を駆け下りる。頭上から、やはり降りていく音がする。

 逃げなくては、と彼は思った。心底思った。ひたすら思った。


 逃げなくては。殺される。

 殺されるのは、嫌だ。


 だがキムはそんな彼の思いとは裏腹に、階段の踊り場で、足を止めていた。顔にはいたずらをする少年のような表情が浮かんでいる。


 とりあえず、聞きたいことは聞いたんだ。


 彼は思う。

 ヴェラとジナイーダ、あのウーモヴァ姉妹に自分の記憶を曖昧にさせる時、ついでにヴェラの懸念していた「自分達のせい」――― 外れていた電話の盗聴が、リャズコウ氏の逮捕につながったということをも霧の中に隠してしまった。

 忘れさせた訳ではない。曖昧に、思い出しにくいこととして、少しばかりヴェールをかけさせてもらったのである。

 それが何になる、と中佐なら言うかもしれない。起こってしまったことは仕方ない、と。実際自分もそうは思うのだ。

 だが。

 彼はこだわっているのは、ヴェラの方なのだ、と気付いてはいた。

 ジナイーダは自分を守るために、その部分を忘れていた。いや、忘れさせていた。

 だがそれはよくあることだ。

 本当に辛い記憶だとしたら、それは、無意識にでも何でも、とりあえず見ないようにでも何でもし、とりあえずの時間を過ごすのだ。

 逃げと言ってしまうのはたやすい。

 だが人間にはそれができる。できるということは、それが必要な時もあるということだ。

 キムはほんの少しだけ、彼女が羨ましかった。

 彼女だけでなく、人間が、羨ましかった。


 どれだけ楽だろう? 忘れられるのなら。


 彼には忘れることが、できない。

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