12 カシーリン教授の後悔、そして連絡員への中佐の約束
これで良かったのだろうか、と文系サークル棟の片隅の部屋で、未だ隠れ待つカシーリン教授は思う。
ヴェラに自分の手紙を持たせ、ジナイーダに演劇部への参加を勧めた。
それは全て、彼がこの地で初めて出会った組織の幹部格の命令だった。
彼はある種、危機に立たされていたとも言える。
最初にその幹部格に出会った時には、決してそうは見えなかった。確かにそうだ。あれが幹部格に見える方がおかしい。
だが、その手からは確かにあの組織特有の信号が感じられたし、その数ときたら、彼がそれまで遭遇してきた組織構成員とは比べものにならない程だった。
その彼が、言った。
自分は怠惰なのだ、と。その能力がある者が、それを有効に使わないのは、組織に対して不敬であると。
『そうは思わないか?』
あの時、ジナイーダと共に自分の研究室に現れ、人なつこくにこやかな笑みをたたえながらも、握手をした直後の連絡員の唇は、そう動いた。手には、幹部格であることを表す信号が走り抜けていた。
カシーリン教授は、その時一気に自分の血の気が引く音を聞いたかと思った。
顔と顔をつき合わせていた状態だったので、ジナイーダはそれには気付かなかったはずだ。それに、その合間に出す連絡員の声は、その様な内容とは全く無縁の、初めて会えた教授に会う学生のそれだった。全くもってそれ以外の何者でもなかった。
教授は、十年以上前から、「MM」の構成員だった。ただ、その命令は滅多に無く、忘れてはいないし、その理念を著書の中にさりげなく書き込むという作業は忘れていない。
そしてその書いてしまった理念のために、学生達は自分を反体制派の人間と見なし、時には尊敬を、時には批判を受けている。
だが彼自体は、そもそもは大した活動家でも、反体制派でもなかった。十年以上前。彼がまだ現役の大学院生や助手だった時に、ふらりと誘われるままに入り込んでしまった、その「地下組織」。若かった彼には、当時、それは魅力的だったのだ。
信号だけで認識される「同志」、暗号めいた喋り、その口の形だけで本当のことを話し合う… その秘密めいた行動に、肩書きなどどうでもいい活動に、ひどく惹かれたのだ。
理屈ではない。意味もなく、ただ惹かれたのだ。周囲からは生真面目な学生、助手と見られている自分が、裏ではこんなことをしている。その気持ちは、当時の若い彼を高揚させた。それが果たしてこの州や惑星のためになるのかどうか、なんてどうでもよかった。
彼がその時欲しかったのは、その結果ではなかった。その行動、その過程、そのものだったのだ。
だが十年前の一斉検挙が、彼を夢から覚まさせた。
リャズコウ氏が「MM」に関わっている一人であることは彼も知っていた。それも特に熱心な一人であることを。
だがリャズコウ氏は若き日のカシーリン助手が末端構成員の一人ということは知らなかった。リャズコウ氏もまた、多少の階層は違うにせよ、末端に過ぎなかった。末端は末端を知らない。彼にせよ、リャズコウ氏が逮捕されてから、それと推理し、それは正しかったのである。
そしてあの屋敷は封鎖され、子供達は行方をくらました。
組織員とは限らずとも、その時、多数の反体制派が逮捕され、いつの間にか表から姿を消した。その消え方に、カシーリン氏は恐怖を抱いた。自分のしていることが、現実的に、どういうことであるのか、ようやく肌で理解したのだ。
彼はそれを知った時、本気で全身が震えた。
だが、その時にはもはや遅かった。一斉検挙の後に残った、この州内の「MM」末端構成員は、自分を含め、ずいぶんと人数が減っていたのである。
できれば彼はそこから抜け出したかった。だが組織はそれを許さなかった。彼はいつも変わる相手から命令を受け取り、この与えられた任務を、地味に、ひどく地味に行った。
逮捕されるのは、ごめんだった。できれば、組織とも縁を切りたい。彼は実に小市民だった。自分がそれ以上でもそれ以下でもないことを知っていた。
だから、自分の立場でやってもまあおかしくないこと、だけをその場で展開した。それが妥当だろう、と彼は思った。そしてそれを、ただコンスタントに。
だがそれが裏目に出た。その活動の実直さが、組織に評価されてしまったのだ。彼の組織内での階層は上がっていった。彼の意志には関わりなく。
どうしよう、と彼は思った。彼は困った。困ったのだ。
だが困ったからと言って、どうすることもできない。彼は本を著した。その中には、まるで文学とは関係ないような、他地域の放送の受信のことなども書き込んだ。悲しいかな、彼は、それをつじつまの合うように、書き込めてしまう。それが、言葉の持つ力なのだ。
迷いながらの十年だったのだ。
だがその十年を、あの連絡員は、いとも簡単に笑いの中に捨てた。それが何だというのだ、とその唇は動いた。
『それを承知で参加したのではなかったのか?』
無邪気とも言えそうな笑みの中に、それは。
用を頼み、ジナイーダを外に出した時、連絡員は、笑顔のまま、彼を糾弾した。そして、それまでに積もった、自分のすべきことを遂行せよ、と命じた。
『判っているだろう?』
自分のすべきことは。ああそうだ判っている。判っているのだ。ただ自分はずっと目を塞いできたのだ。その手を汚したくなかったから。
連絡員は、そのまま、戻ってきたジナイーダの気を失わせた。
そして教授はその場から自ら姿をくらました。おそらくはコベル助教授あたりががたがたと騒いでくれるだろう。
地味であったとは言え、十年間彼は組織の構成員だったのだ。何処をどう押せば誰を動かすことができるかは把握していた。
苦笑する。
本意ではなかった。だがその方法を会得してしまっている自分に。そしてため息をつく。
後戻りはできないのだ。自分はこの州を、取らなくてはならないのだ。最終的に。シミョーンもブラーヴィンも失脚した後に、必ず。できなければ、今度は、自分が消されることを知っていた。生き残ってきた、ということは、死なないことだ。
彼は自分が、どれだけ卑怯なことをしても生き残りたいタイプだということを知っていた。
ブラーヴィンは、十年前から彼の正体を知っている数少ない同志だった。末端構成員同士が知っているのは珍しいのだが、彼は知っていた。そしてその中で、確かに連帯感のようなものもあったのだ。
だが。
ブラーヴィンは、ヴェラのような女優に弱いのだ。彼はそれを知っていた。
*
「この悪党め」
中佐はつぶやいた。何か言った? とキムは荷物を整理しながら訊ねた。
学生用の下宿を引き払う時期だった。別に踏み倒してもいいのだが、立つ鳥は後を濁さないんだよ、というキムの主張が妙におかしかったので、中佐は文句を言うのはよした。
だが、それ以外の点では。
「お前、俺等の関わった連中全部の記憶を消したろ」
「消したなんて人聞きの悪い。おぼろげにしただけだよ」
「同じことだろ」
「でも必要でしょ」
答えながらも、ベッドの上に衣類を広げ、それを畳んでいる手は止めない。手際がいい。てきぱきと、その作業は進んでいく。
「そろそろそういう時期だよ」
「気に入らないな」
何が、と振り向こうとした時だった。キムは自分の身体がバランスを崩すのを感じた。視界が、急に回る。微かな風が、耳と髪をなぶる。
畳まれつつあった服が、跳ね飛んで、広がった。
そして次の瞬間背中に、重なった布の、やや冷ややかな感触があった。体術の要領で、自分は仰向けに押さえ込まれているのだ、と冷静に事態を把握していた。
「…何だよあんた急に」
だがそれでもキムの表情は冷静だった。驚いた表情を作っている、と中佐は感じた。それを見て、急に苛立ちが胸に沸き立った。止まらない。彼は相手を押さえ込む手の力を強くする。
「何あんた怒ってるの」
「怒ってる訳じゃない」
「怒ってるじゃない」
自分が何に苛立っているのか、中佐は未だによく判らなかった。そして相手の長い髪を掴むと、それを首の両側に回した。
「時々俺は、お前を殺したくなるよ」
中佐は低い声でつぶやいた。
だがつぶやいた言葉自体に驚いたのは、自分自身だった。
そんなことを俺は考えていたのか?
だがキムの表情は変わらない。凍り付いたかのように、その表情は動かなかった。
手に力をこのまま込めれば、互い違いの髪をそのまま引っ張れば、中佐の力なら、たやすくそれは可能だった。少なくとも、相手が人間なら。
何か言ってみろ。
、中佐は内心つぶやいた。つぶやきはやがてそのヴォリュームを上げる。
表情を変えてみろ、その貼り付いたような、凍り付いたような笑いじゃなく、何か、お前の、別の表情を、本当の表情を見せてみろ!
だがやはりその表情は変わらなかった。
「…殺したければ殺せばいいんだ」
穏やかな声が、中佐の耳に届いた。
「何だって」
思わず彼の手の力が緩む。
「殺したければ、そうすればいいんだ。Mだってそうだ。あんた程タフであろうがなかろうが、どうして俺を銃にしないんだ。前線に送って、あのひとの銃で、それで、何処かの空に四散してしまって、俺は構わないというのに。だけどMはそれは許さないという。それが約束だって。俺の知らない約束があるからって」
キムの口から、うわごとのように、言葉はつむぎ出される。
何のことだか、中佐にはよく判らない。何かが、まだ隠れている。そして自分だけが、その何かを知らない。
「何を言ってる?」
「あんたは知らないの?」
言うが早いが、キムは身体を起こした。真っ直ぐな視線が、金色の瞳に突き刺すように飛び込む。
「俺が、何なのか」
何のことだ、と彼は思った。何かを隠されている、と彼はずっと思ってきた。だが、そうではないのか?少なくとも、この相手は、それを知っている、と思っていたのか?
「Mは、何もあんたに言わなかったんだ?」
「何を…」
「言わなかったんだ!」
あはははは、と急にキムは笑い出した。
聞いたことの無い笑い声だった。ひどく耳障りな声だった。
だがキムはそんな中佐の考えなどどうでもいいのか、笑い声を止めることもせず、頭を大きく振りながら、腕を伸ばすと、それを中佐の首に巻き付けた。
笑い声は続いている。
ひどく耳障りだ。中佐はうつむくキムの顔をぐっと上げさせた。笑顔がそこにはあった。
だが、その目からは、だらだらと涙がこぼれていた。
隠すことも拭うこともせず、ただ大きく開いた目から、だらだらと流れていた。
その表情に驚いていたら、相手が急に、唇を合わせてきたのに中佐は身動きが取れなくなった。
何を考えているんだ、と中佐は思った。
いつもと違う。いつもどころではない。妙だ。妙すぎる。
喉から嗚咽のような声を漏らしながら、それでも、それを強く、深く、それを止めようとしない。
どうしたものか、と中佐は思った。
だが、思ったところで始まらない。時間はあった。彼は相手の髪をややきつく引っ張ると、自分の手にも力を込めた。
*
何かが、つながってくる。
聞こえてくる。見えてくる。
中佐は、それが何処から聞こえてくるのか、何処から見えるのか、見当もつかなかった。
だが彼は知っていた。
それは、目の前で泣きながら手を空にさまよわせる相手の言葉、相手の見ているもの、見ていたもの、そして。
所々に入るノイズ。誰がそうしているのか、彼は気付き初めていた。
*
連れていって欲しかったんだ。
俺はずっと思っていた。長い間、ずっと思ってきた。
身動きが取れず、何も見えず、何も言うことが出来ず、ただひたすら居るだけの時間の中、ずっと考えていた。
遠い昔。
あの雪の降りしきる惑星の、空に舞い上がる光の中に、自分を加えて欲しかった。
それが叶わないだろうことは、もうその瞬間が来た時には俺は知っていた。
あのひとが、そう言ったんだ。俺達の首領が。
お前は違うんだ違うんだ違うんだ。
お前は違うから。
お前は誰だ?
そんなことを聞かれて困る、俺は俺だ、どうしてそれ以外と言うんだ、あんたは俺が誰であってほしいんだ、俺を誰と見たいんだ、俺を見てるんじゃなかったのか?
首領の目は俺を通りこして向こう側の何かを見ていた。それは俺に取りついていた。首領はそれが見えたから俺を拾った。
俺じゃない。
俺じゃないんだ。
俺じゃないんだ。
でもそれでいいと思っていた。それでもあのひとのために、仲間のために動いていた。動こうとしていた。
最初に自分を救ってくれたから。
最初に名前を呼んでくれたから。
最初に…
*
中佐はその誰か、のイメージが自分の中に入り込むのを感じた。それは何処かで見たことがあるような気がする。いや絶対に見たことがあるはずだ。
座ったまま、自分の上に乗せた相手の背中をくっと引き寄せる。いつもより息が荒い。胸に跡をつける。声が漏れる。いつもとは違う。
だがその誰か、が「現在」の引き出しの中にはない。
あるなら「過去」だ。
それがどのくらいの過去なのか、彼にはやや予想ができなかった。
現在についてでも、自分の叩き込んだ大容量の記憶と知識の中から一つの物事を探し出すのは容易な技ではない。それが「過去」となると、ことさらだ。
こらえきれずに相手の漏らす声が、うめき声と似た感触をもっている。相手の手が、自分の真っ赤な髪をまさぐるのを感じる。そうだ勝手にしていろ。
耳に飛び込む声。眩暈を起こしそうだ、と彼は思う。
頭には、まだ飛び込んでくる。
*
一面の雪一面の雪一面の雪。
広がる長い髪の毛は、ほんの少しだけ、編みぐせがついている。教えてくれたのは誰だっけ顔は何となく覚えているのに名前が出てこない。
眠りたい眠らせてくれ。もう何も俺は考えたくない。
疲れた。
目は閉じたからもう見えない。空に上ってくあの光が。
仲間が。
俺は違うんだ俺は行けない。
四散する仲間の、あの中には、入れない。
帰りたい。
帰るべき場所に、帰りたい。
(それは俺が思うのではなく俺の中の何かが言うんだもっと深く遠く昔の記憶が言うんだずっと昔ずっと昔ずっと昔俺達がまだ………だった頃の記憶だまだ全てが一つで全てが皆で全てが俺でもあった頃だ)
でもそれは俺には叶わないんだ。
(そしてその帰るべき場所などもうこの世界の何処にもないのだから)
だとしたら、いっそのこと、俺を誰か、破壊してくれ。
誰でもいい。
誰でもいいんだ。
俺を、この世界から、まぎれもなく、消滅させてくれ。
俺の思考も記憶も、全て跡形もなく、雲散させてくれ。
*
中佐は眉をしかめると、逆手に相手の背に回していた両の手のひらに思い切り力を込めた。
それまで宙に浮いていた相手の手が、急に何かすがりつくものを探すかのように、自分の背に回るのを彼は感じた。
上がる息に上下する肩を押さえつけるように彼は力を込める。
やや顔を上げて、乱れた長い髪に隠れがちな相手の顔をのぞき込む。涙は止まらない。
彼はそれを見て、左の手だけをずらすと、相手の頭を抱え込むように引き寄せた。
髪をかき上げるような動作になってしまったのか、相手は一瞬嫌そうに首を振ろうとした。
構わなかった。相手が力では自分には勝てないのを彼は知っていた。
かなり強引に、唇を合わせ、相手の中に押し入った。珍しい程の抵抗がそこにはあった。舌を噛まれるのではないか、と彼は思った。
だったらそれはそれでいい、と彼は思った。
頬に長い相手の髪が触れる。右手でそれを掴んで、絡めた。顔が見える。表情が判る。ひどく間近な、表情が、判る。
半ば目を閉じた、その表情は、今までのどの時よりも、彼には心地よかった。
一度離れ、彼は一瞬舌なめずりをし、再び同じことを相手に繰り返した。今度は抵抗は無い。
「殺してやるよ」
そしてまた離れた瞬間、彼はつぶやいた。
「その時が来たら、俺が、お前を」




