表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
13/19

11 学生達。何かを少しずつ忘れていることに気づけない

 その朝、ブラーヴィン氏は、けたたましいドアベルの音で目を覚まされた。

 最初に気付いたのは、彼でも彼の妻でもなく、彼らの犬だった。

 吠え立てる愛犬の声があまりにもせっぱ詰まったものだったので、朝も早いというのに、この引退した司法長官は起き出さなくてはならなかった。

 カーテンのすき間からのぞくと、確かに窓の外、ぶちの愛犬は何かに向かって吠え立てている。

 それがおそらくは、この早朝というのにひっきりなしにベルを鳴らす礼儀知らずなのだろう、と彼は思う。だが、その主の姿は見えない。

 仕方ないな、と彼はガウンを着込むと、戸口へと向かった。だが一応、ナイトテーブルから銃を出すのは忘れていなかった。隠遁したと言えども、彼には敵が多かったのだ。

 だが、戸口まで来た彼の耳には、思いがけない声が聞こえてきた。


「…やぁ… ねえお願い! 吠えないでよぉ…」


 泣きそうな声。まだ若い女性のものだ。そして愛犬の鎖のがちゃがちゃ言う音。

 一体何だというのだ?彼はドアに鎖を掛けて、少しだけ開けた。途端にそのすき間からぬっと手が入り込んでくる。慌てて彼は手を離してしまった。


「きゃあ!!」


 若い女性は悲鳴を上げる。手をはさんでしまった。ブラーヴィン氏は慌てて、扉を開けた。

 その場にかがみ込んでいたのは、本当に、若い女性だった。よほと痛かったのだろう。喉の奥からうめき声を発しているようだった。


「だ、大丈夫かね?」

「大丈夫な訳ないでしょ!」


 鋭い声が、若い女性の口から飛び出す。彼は一瞬自分が、水を頭から掛けられたような気がした。その位、その女性の声は凄まじい一撃があった。

 こういう声を聞いたことがある、と彼は思った。あれは、確か、まだ彼が司政官の近くで働いていた頃だ。出来たばかりの劇場で、居心地の悪い気持ちで始まった芝居の、最初の一声。

 ぶんぶんぶん、と音がしそうな程、はさまれた手を、もう片方の手でかばいながら振ると、彼女は立ち上がり、一礼する。


「失礼しました。ブラーヴィン司法委員」

「わたしはもうそんな役ではないよ」


 大まじめに言う彼女に、彼は穏やかに苦笑する。また何か、からかい半分の学生なのだろう、と彼は自分を納得させる。

 さあ何と言って帰そうか?

 頭の半分がそんな考えを巡らせ始めた時、彼女はにっこりと笑った。あでやかな笑いだった。彼の脳裏に、再び記憶がだぶる。


「ええ確かに今は、そういう役ではないかもしれませんわね」

「そうだよ。朝早くから来たのに悪いね」

「だけど、これから違う筈ですわ」


 再び彼女はにっこりと笑う。耳の下くらいで切り揃えた髪が、まだ朝の肌寒い風にざっと揺れた。

 ブラーヴィン氏は、その時初めて、彼女が奇妙な姿をしていることに気付いた。

 確かに短く切られた髪は、まとまってはいる。だが、どうも所々、砂を払ったような跡がある。衣服も、転んだかのようにあちこちが汚れ、履いているジーンズの膝も破れている。


「カシーリン教授からの伝言を伝えに来たんです」

「何!?」


 彼の表情が、見る見るうちに変わる。寝不足のような、彼女の目は、血走って赤い。その目はぐっと彼をにらむように見据える。


「かつての同志に、再び協力してほしい、と」


 落ち着け、とブラーヴィン氏は思う。これ自体が罠かもしれないのだ。あの司政官は、そういう奴だ。自分をあの場から追い出した時もそうだった。引っかかった自分が甘いと言えば甘いのだが、…油断はできない。


「…証拠は…」


 はい? と彼女は首をかしげる。


「何か君が、カシーリン教授の使者だという証拠があるのかねと言ってるのだ」

「そうおっしゃると思ってました」


 彼女は上着のボタンを一気に外すと、中に着ていたTシャツの胸に手を突っ込んだ。そして何かを破るような音がブラーヴィン氏の耳にも届く。


「これを」


 彼女はまだぬくもりが残る手紙を渡す。ブラの裏に縫いつけてでもあったのだろう、強い繊維でできた紙が、ミシン目のような跡をつけて破り取られている。


「あたしには何がどうなのか判りませんが、あなたなら判るだろう、と教授は言われました。如何でしょう」


 むむ、と彼はうめく。


「とにかく、中に入りたまえ」


 彼は彼女を中に招き入れようとして、ふと思いだしたかのように、名前を訊ねた。


「ヴェラ。ヴェラ・ウーモヴァです」


   *

 

 ジナイーダはひたすら手を動かしていた。

 あちこちへと今にも飛び跳ねそうな髪をヘアバンドをつけ、後ろできっちり編んで、いつもなら着ないはずのTシャツとジーンズを身につけていた。確かに動きやすい。どうして今まで着る気がそう起きなかったのか不思議なくらい、動きやすい。

 いやそうではない。

 慣れない金槌を手に、彼女は湧き出す考えに沈みそうになって頭を振る。どうしたの、とゾーヤが訊ねた。何でもない、と彼女は答えた。

 台本は変更されたのだ。彼女は演劇部の中に、その時居た。

 何がどう筋道が変わったのだろう、と彼女は思う。

 なのだが、それを当然と考えている自分もいる。

 とんとんとん、と釘を大道具のはずだった立て看板に打ち付けている。ゾーヤは真っ白な紙を張り合わせては、横においたアルミのカップに、溶いた赤と青の絵の具で、下書きした大きな文字を塗っている。


「大丈夫だろうか?」


 ゾーヤはふと手を止め、ジナイーダに訊ねた。この人は何となく気が落ち着く、と彼女は思う。姉が感じたのと同じことだったが、この素っ気ない程の態度、いきなり飛び込んできた彼女を何のこたわりも無しにこの中に入れた態度は、彼女にとっては嬉しいものがあった。

 そして姉は。


「大丈夫だと思うわ」


 妙に確信めいた言葉に、ゾーヤは首を軽く傾げた。鉄色の髪が、ざらりと落ちた。


「ヴェラはそういうの、すごく強いのよ」

「ああそうだな。彼女はいつも、本番に強い」


 そうよいつもそうだった。だから。

 彼女は先日のことを思い出す。


 ぼんやりとした頭で、誰かに連れていかれた場所は、学内でもやや「山の中」と言っていい程の林の中にある文系サークル棟だった。夜中でも灯りのついている所へ、確かに自分は誰かに連れていかれたはずなのだ。

 だがそれが思い出せない。

 着いた場所で、彼女は扉を開かれた。そこには姉と、もう一人、見知った顔があった。


「カシーリン教授!」


 あまりに驚いたので、彼女は自分の後ろで扉が閉まったのも気付かなかった。

 そこは文芸部の部室だったらしい。だが部員はそこにはいなかった。居たのはヴェラと教授。その二人だけだった。


「どうして、教授がここに… それにヴェラ… どうして?」


 どうして、と聞かれた時の姉の顔は、一瞬呆然とした。


「どうしてって… うん、どうしてだろう…」


 ヴェラにはあるまじき対応だ、とジナイーダは思う。だがそれは目の前の事態そのものに比べれば些細なものだった。カシーリン教授は、こう言ったのだ。


「私が君たちを呼んでもらったのだよ」


 笠を持たない電灯の、透き通るようなやや暗い灯りの中、ゼミで聞き慣れた筈の教授の声は、いつもと違った重みをもっていた。


「近々私には、逮捕状が出るだろう」


 二人は息を呑んだ。予期されないことではなかったが、いざそれを現実味を持って言われると。


「だけど… 教授は何も悪いことはしてはいないではないですか!?」


 ジナイーダは思わず声を立てて問いかける。背後で足音が消えていくような気はしたが、それどころではなかった。


「そうだ。私は悪いことをしたとは思っていない。学問をする者が、その研究を思うように口にして何が悪いというのだ?少なくとも、それは政治というもので止められるべきものではないはずだ」


 二人は大きくうなづく。ああそうだ、とジナイーダは自分が教授の授業を最初に受けた時の感動を思い出す。


「そこで私は、多少なりとも抵抗をしてみようと思う。そこで、君達に手伝ってもらいたいのだ」


 その時思いがけない事態に、自分の胸がいきなり熱くなったことをジナイーダは覚えている。それは今までに無かったものだった。少なくとも、教授は、自分をも必要としているのだ。姉だけではない。あの、「言葉を力に」変える力を持っている姉だけではなく。


 なのだが。


 彼女の頭の中で、何かが引っかかっている。一体自分をあそこまで連れてきたのは誰だったろう。薄ぼんやりとした姿が、時々脳裏に浮かぶのだが、そのたびに、きらきらとした何かがそれを散らしてしまう。


「どうしたのだ?」


 ゾーヤはふと手を止めた彼女に訊ねる。何でもない、とジナイーダは答えた。


   *


 何かを忘れているような気がする、と学内新聞編集長イリヤは時々頭をひねる。

 だがそれは一瞬だった。彼の前には、問題が山積みになっていた。例えば学祭と時を同じくしてすっぱ抜く予定の、医学群が誇る反体制派の代表格であるシミョーン医師が実は司政官と癒着していたという事実。

 物事は、進むべく時には、進むものなのだな、と彼は思う。

 実際、それは、いきなり進み出したのだ。

 何が上手く行かなかったのか、それまでずっと、友人で同志である医学群の学生、演劇部の部長モゼストとその学群内の友人知人を通して、シミョーン氏の動静を伺ってきた。

 そもそも、その情報の出所自体が、初めは半信半疑だったのだ。理系に出入りしている学生が、新聞部長の自分に接近してきた。学生は、ラーベル・ソングスペイと名乗った。

 彼はイリヤに向かって、情報を買わないか、と申し出てきた。編集長は、情報による、と答えた。実際それはいつものことだった。この学内新聞は、その購読者数から、この市内での価値の高いものだった。運営が順調なら、そこには資金も多少はできる。広告収入だって入る。

 そして更なる購買層を狙おうと思ったら、少しでも人目を引く記事を書かねばならない。イリヤとその部下たる部員達は、それぞれのテリトリイにおいて、情報提供を呼びかけていた。そこには多少なりとも謝礼をすると付け加え。

 学生は基本的に裕福ではない。少しでもいい金になると知ると、彼らは飛びついてくる。そして集まった情報の中から、いい物には金を払うのだ。

 そしてその時も、彼はその類かな、と思ったのだ。もしくは何処か他星からの留学生で、生活費が足りないのか、と。

 それはラーベル・ソングスペイの言葉を耳にした時に、気付いた。確かにここの地の言葉なのだが、微かに何か、奇妙なくせがついている。…いやそうではない。妙に、古いのだ。

 古いと言っても、言葉自体が古典なのではない。言い回しの中に、妙に少しばかり前の流行語が混じっているのだ。無論それは本人が無意識にしていることだろうので、彼は黙っていた。

 この訪問者は、その気になる言葉を使いながらも、雄弁だった。そしてやがて、気になることを口に出した。


「ところで、部長は、この学内でやがて反体制運動が起こったら、誰がその陣頭に立つと思いますか?」


 ずいぶんと、大胆なことを言う、と編集長はデスクの上に両手を置いて、それを組む。


「起こる、と君は思っているのか?」

「可能性の話をしています。起こるなら」


 そうだな、と彼は首をひねった。そしてカシーリン教授とシミョーン医師の名を上げた。それは学内一般に広まっている常識である。彼本人の考えという訳ではない。

 彼本人としては、文系サークルのたいていの人間がそうであるように、カシーリン教授のほうに軍配を上げていた。だがこの突然の訪問者の前で、そこまで言う義理はなかった。


「では、そのシミョーン氏が、実は司政官と癒着していたら、どう思いますか?」


 冗談だろう、と彼は初め一蹴した。なかなかその可能性には考えが届かなかったのだ。そこで彼は訊ねた。


「何故そう思う訳なのかな?」

「思う、んじゃなく、事実ですよ。例えば」


 そしてソングスペイは、次々に… 実に雄弁に、そして、順序よく、彼の考えを述べていった。そこに「事実」という名札をつけて。

 口の上手すぎる奴は信用がならない、とこの編集長は考えていた。実際、彼は話を聞いている最中も、なかなかこの奇妙な喋り方をする学生に、不審を抱いていたのだ。

 だが、それはこの彼の言葉でやや方向を変えられる。


「…信用していないようですね」


 それはそうだ、とイリヤは答えた。


「何故です? 可能性として無いことではない、とあなたも思っていなかったですか?」

「可能性としてはね。だけど君の持ってきた情報は、筋が通りすぎてる。罠であると考えても当然じゃないのか?」


 なるほど、とソングスペイは笑った。


「確かにそうですね」


 そうだろう? とイリヤは椅子の背もたれに大きくふんぞり返る。


「ではもう少し腹を割って話しましょうか。実を言うと僕は、あのシミョーン医師に個人的恨みを持っている。だから失脚させたい。それではいけませんか?」

「個人的恨み?」

「十年前の、一斉検挙で、僕の家は、無くなりました。その恨みを、当時から通じていたという相手に向けるのは当然ではないですか?」


 なるほど、と彼は思った。とにかくその時には返事を保留にして、相手を帰らせたが、無論編集長はその場で単純にそれを信じた訳ではない。

 彼は部員を召集し、情報の裏付け捜査を始めた。そしてその反面、ラーベル・ソングスペイと名乗る学生の調査をも始めた。学生は学内の調査には強かった。何せ彼らは学内の隅々まで知っている。時には、当局にも見つからない場所も、あちこちに。

 やがてその部員の一人が、ソングスペイの正体は、十年前に失踪した、ある資産家の子供の一人ではないか、と調査の結論を出した。


「リャズコウ氏は、当時、裏で反体制派の活動に関わっていました。数種類の会社を経営していましたが、利益の多くを、どうやら、反体制派の方へと流していたということです」

「当時は、そういう資産家も多かったのか?」

「いえ当時でもそう多くはないです。リャズコウ氏には当時十歳前後の末の息子が居まして、それがラーベルという名です」


 十年前、その末の息子はこの都市から姿を消しているという。無論子供だけで逃げる訳ではないから、大人が手引きをしている。そしておそらくは外惑星に逃げた。

 だとしたら、彼のあの言葉の違和感にも説明がつくのだ。

 彼はあの時、ゾーヤと一緒に、ソングスペイをつけて、ザザ街付近に来たのだ。そして案の定、誰かと会話をしていた。そこは、現在は「絢爛の壁」と言われている、原色も鮮やかなペンキの落書きであふれた場所だった。

 何気ないふりをしていたが、彼は時々、頭上のキンモクセイの香りを懐かしそうに感じているようだった。

 何をしているのだろう、と彼はゾーヤと話しながら時々思った。だがその時彼女と何を話していたかは思い出せない。

 そして。誰かが、ソングスペイの近くにやってきたのだ。何か、ひどく、派手な奴だった気がする。ソングスペイ同様、壁にもたれ、煙草をふかしていた。そして何やら長く話していたかと思うと、やがて何ごともなかったかのように、別れていった。


 …何かが、彼の中でひっかかっている…


 だがその疑問は、すぐに彼の心から消えた。時間が少ない。足りないのだ。

 それは彼の友人達の属している演劇部にしても同様だろう、と彼は思う。

 いきなり検挙された部員の一人の代役が、どうしても決まらない。確かその部員の役は道化師だったはずだ。

 だがあの強烈な印象を残すような外見を持った者はそうそういない。仕方なく、彼らはシナリオを書き直す羽目となった。

 だがその検挙された際に、シナリオライターまでもが姿を消したために、主演女優であるヴェラはとうとう妹まで担ぎ出した。

 彼女の妹は、今までさほどに表立った活動をしていなかったせいか、彼は気付かなかったが、結構いい文章を書く。今度一度新聞部にも誘ってみようか、と彼は思った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ