9 尋問。ヴェラが恐れていたもの
「…あれ、今日は練習休みだっけ」
軽い声が大きな窓の元アトリエに響く。室内に居た数人が、弾かれたように一斉に声の方向を向いた。
「…いや、練習はあるが、コルネル君」
部長のモゼストは、やはり今日も何か疲れたような顔で、椅子から立ち上がった。
その場には、あの日学生食堂で話をしていた顔ぶれが揃っていた。すなわち、この演劇サークルの主要メンバーである部長のモゼスト、タイプは違うが花形女優のヴェラとゾーヤ、それに部員ではない学内新聞編集長のイリヤだった。
「…後ろの君は、見学?」
「あ、すみませーん。見てはいけませんか?」
「キム君?」
ヴェラが声を上げた。その声は部屋中に響き渡る。どーも、とその様子を見てキムはにっこりと頭を一度軽く下げた。
「見学は… ちょっと遠慮してほしいな」
「いいじゃないか部長さん。俺はそこの君にも聞きたいことがあったし」
「俺、何かしました?」
キムは「コルネル君」こと中佐の後ろからひょいと顔を出すと、あどけないと言ってもいい程の表情で訊ねる。
まあこっちへ来たまえ、とモゼストは彼ら二人に椅子を勧める。そして四人は自分達の椅子を引きずって、二人を取り囲むようにして改めて座り直した。
まるで尋問ごっこだな、と中佐は思う。「尋問のようなもの」ですらない。いい所「ごっこ」もどきだ。
普段自分はそれをする側なので、たまにはされるというのも楽しいかもしれない、と彼は不真面目にもふわふわと考えていた。それに、聞かれるだろう話題は予想がされている。
「…コルネル君、昨日君は何処に居た?」
「何処って? 昼間?」
そうだ、とモゼストは答えた。ふうん、と中佐は顔ぶれを見ながら考える。
どうやらその役をこの気弱な部長は編集長に割り当てられたのだろう。どうも言葉が板についていない。
「昨日… そうだな、昨日は、ザザ街でちょっと服を探していたんだけど…」
「一人で、かい?」
「あん? 一人だよ?」
「誰かと待ち合わせということはなかったかい?」
「待ち合わせねえ」
どうだったかな、と彼は首を大きく回す。
「待ち合わせはしていた覚えはないなあ… 良さげな奴がいたから引っかけてみたというのはあるがね」
その言葉にはゾーヤがびく、と肩をすくめた。
「…ああもしかして、あんた等、昨日俺が一緒に居た奴のこと言ってるの?」
「知り合いなの?」
ヴェラは形の良い眉をきゅ、と寄せた。すると中佐は、声を上げて笑った。数秒の発作にも似た笑いが止まると、彼はひどく可笑しそうな、それでいて困った様な顔を作る。
「知り合い? 冗談でしょ」
「だけどそれにしては君はずいぶん親密そうだったが」
「だから言ったでしょ? 引っかけたんだって」
今度はヴェラの顔がひどく歪んだ。
「…だってあなた、居たのは男子学生でしょ?」
隠し事のできない子だなあ、と中佐は苦笑する。
ヴェラは表情が豊かすぎる。だからこそ女優、なのだが、隠し事の一つもできないようでは、尋問はしてはいけない。
「男子学生なの?」
「…知らないってことはないだろう?」
さすがにそこまで行くと、イリヤが口をはさんだ。
ようやく真打ち登場か、と中佐は思う。そしてちら、と横を見ると、話を人ごとのように聞きながら、キムは編んだ髪の先を暇そうに玩んでいる。
「なあ編集長、あんた女の子引っかける時に、いちいち名前と住所と私書箱を聞くタイプ? そうだろ」
中佐はにっと笑い、編集長に向かい、問いかけではなく、決めつけてやる。イリヤはやや不快そうな表情を浮かべ、腕を組んだ。
彼らが束になって五十人ほどの人数で尋問を続けたとしても、彼は大丈夫だという自信と確信がある。と言うか、彼にしてみれば、これは世間話に過ぎないのだ。
実際彼は、世間話のレベルに落とそうとしていた。無論彼らが聞きたいのは、「コルネル君」が「元ラーベル・リャズコウ」のソングスペイとどういう関係か、ということだろうと彼は予測している。
そして、そのソングスペイを知っている筈なのに、どうしてあの場で黙っていたのか、ということ。引いては、彼自身も、ソングスペイ同様当局の手先なのではないのか、という方向に持っていきたいのだ、ということ。
「ねえ何言ってるんだか俺にはいまいちよく判らないんだけどさ、まさか俺があん時誘った相手が、あんた等のよく知っている相手、なんてこと言わないよな?」
「そうだったら?」
「『まあ何って偶然なんでしょう!』」
イリヤの問いかけに、手を前で組み合わせ、中佐は劇内のヴェラの台詞を口まねをした。
ヴェラの表情が明らかに怒りに変わる。彼はさすがにそれはまずいな、と思ったのか、再び苦笑すると、手をぱっと離した。
「ホント信じてよ。あんた等がどうしてまあ俺の動きなんて知っていたのか判らないけどさ」
だが一本の棘を混ぜておくことは忘れない。
「あれはあくまで通りすがりの相手なんだけどな? 一体あんた等、あれを誰だという訳?」
「あれが、こないだの話に出たラーベル・ソングスペイだ」
ゾーヤは嫌悪を露骨に口調の中に表す。へえ、と中佐は彼女に向かってろやはり露骨に呆れたような表情を向けた。
元々ぞんざいな口調に、敵意のようなものがミックスしている。どうやらこの鋼鉄の女性は、ある部分においてひどい潔癖性らしい。
「…だが君のその言葉自体が全部嘘ということも考えられないか?」
「と言うと? 編集長」
中佐は投げ出していた足を組み、その上に頬杖をつく。
「…俺と彼女が目撃した時の君は、ずいぶんと長く『絢爛の壁』の前で話し込んでいたようだが」
暇だねえ、と彼は思う。
どんなに長く話し込んでいようが、内容が聞き取れなかったら意味はない。あの時彼らはかなり小声で喋っていたし、帝国公用語に近い言葉で話していたのだ。
この惑星で生まれ育ち、その他へ出たことのないような学生達にはまず理解できないだろう。
無論、そんな言葉で会話していること自体、この閉鎖的な地においてはなかなか危険ではあるのだが、幸運なことに、この惑星上では、小型の集音装置はそう発達していない。
盗聴器にせよ、当局の監視につながる電話には取り付けられているだろうが、各個宅に見つからないように設置するような小型のものは存在しない。あるとしても、それはコストと効果を天秤にかけると、結局使わないという方向になるくらいのものである。
それでも盗聴器自体の存在はよく知られているので、彼らは電話を恋人達やシンパ同士の通信手段には使わないというのが定石なのだが。恋人達の通信手段は、専ら専用の私書箱だった。
「だからあんたも、誰かを引っかける時には、そのくらい時間かからない? あいにく俺はその時には振られたんだけど」
その言葉にはゾーヤもぐっと詰まる。
確かに、長々とした会話の後、彼女と編集長の見た二人は、あっさりと手を上げて別れていった。連絡をしあっているように、明らかにその時は見えた。だがそういけしゃあしゃあと言われては。
「…だけど」
「だけど、何?」
「まだ君が、そういう趣味かどうかははっきりしていない」
ふう、と中佐はさすがに呆れ半分でため息をつく。
「…仕方ないなー」
彼は横に座っているキムの肩をつついた。ん? と言いたげな表情で彼は中佐の方を向いた。
「証明しろ、だってさ」
「ああ…」
はいはいはい、と彼は立ち上がると、当たり前のように中佐の首を抱え込んだ。ヴェラがあ、と声を立てた。
ひどく露骨に、キムは、中佐の唇に吸い付いていた。
息を呑む音が、中佐の耳に届く。視界は相手の顔に遮られている。
数十秒、その状態が続いただろうか。けろっとした顔でキムは中佐に訊ねた。
「こんなもんでいいの?」
「上等」
中佐はにや、と笑った。あ、そとキムは肩をすくめ、また椅子に座る。
「『さて諸君、如何かな?』」
それは劇中の道化師の台詞だった。
*
ちょっと、とヴェラは解散後、二人に声をかけた。
「何ヴェラちゃん。何かまだ聞きたいことあんの?」
「あなたじゃないわ」
と彼女は言って、中佐を押しのけ、キムの前に出た。
「俺?」
「そうよキム君、あなたよ」
きょとんとした顔で彼はヴェラを見る。練習中も彼は、ずっとこの元アトリエで、団員と客員の動きを観察していた。
来た時にはまだ陽も高かったアトリエも、すっかり窓の外は暗くなっている。ここで練習が終わると、いつもこんな時間だった。
「おいもう閉めるぞ!」
モゼストが入り口付近で溜まっていた三人に声を張り上げる。
「何部長さん、門限があんのかい?この部屋には」
「一応学校側がサークル活動に許可した時間帯はもう終わりなんだよ」
「あれ? だって、向こうの文系サークル棟なんて、一晩中灯りがついていることだってあるじゃない?」
「よく知ってるな、キム君」
イリヤが口をはさむ。
「特に部長さんの新聞部なんて、そうなんじゃないですか?」
「確かにね。だけど文系はそういうものだろう? ここは、もとアトリエで、全体的には、美術系の棟に入るんだ。だから管理の管轄が違う」
「ふうん」
キムはうなづいた。
「だってさ。ヴェラちゃん、こいつにお話があるのはいいけど、ここじゃまずいんだって。移動しない?」
「…いいわよ」
彼女は非常に露骨に嫌そうな顔を見せた。
「長い話じゃないわ。個人的に聞きたいことがあるだけよ」
「あれ。じゃあさっき聞けばよかったじゃない?」
中佐はにやにやと笑いを浮かべながら彼女の横をすりぬけて扉を背にする。
「さっき、聞きたいことができてしまったのよ!」
できた、ね。またもや中佐には何となく予想ができてしまった。
「じゃまた寮まで送るけど? 女の子一人では物騒だしな」
「あれ? そちらの彼女はいいの?」
キムはイリヤと並んで歩き出していたゾーヤの方へ視線を送る。ゾーヤはゾーヤで、先ほどの光景を目にしてから、ひどく露骨に、…練習で顔をつき合わせなくてはならない「コルネル君」はともかく、窓のそばで椅子に逆座りしているキムとは決して視線を合わせようとしなかった。
「いいんでしょ。彼女には彼氏が送ってくれるんだし」
「…閉めるよっ!」
部長は声を張り上げた。やれやれ、と彼らは廊下に出、やがて外に出た。ヴェラはじゃあね、と部長達に手を振った。
やがて彼らは、「大通り」に出ると、一つの街灯の下にと溜まった。そこはカップ式のコーヒーの自動販売機があった。銅色のコインを一つ入れ、ヴェラはミルクと砂糖の追加ボタンを押す。数秒後、湯気の立つコーヒーが現れた。
そしてそのまま彼女は販売機に背をつけ、もたれかかった。
「あなた達は?」
いいや、と二人は首を横に振った。
「それでヴェラちゃん、こいつに話って何なの?」
「キム君、…だけじゃなくて、コルネル君あなたにも… ええそうよ。あなた達、そういう関係なの?」
信じられない、という声音がその中には含まれる。
そういうもんかもな、と中佐はヴェラの態度を見て思う。
この惑星では、最初の移民の持っていた宗教の関係なのか、それとも単純にそういう風習が少なかったのかどうかは判らないが、同性どうしでの関係というものが、他の惑星よりも異端視されている。法に引っかかる訳ではないが、白眼視される類のものであるのは事実だった。
尤も、白眼視されて大っぴらには無いとはいえ、全く無い訳ではないし、他惑星の情報も多少は入る関係上、この程度の拒否反応で済むのだが。
「さて」
キムは口を開く。
「もしもそうだったら、あなたは俺に何か言いたいの?」
「ジーナは…」
「いい子だね。あなたと違って大人しくて、生真面目で」
キムは上着のポケットに両手を突っ込む。ああ珍しく嫌味だな、と中佐もまたポケットに手を突っ込んだ。だが彼は突っ込んだだけでなく、煙草を取り出したのだが。
「ねえキム君、妹はあなたのこと、好きみたいよ」
「うん、嬉しいね」
これはきついな、と火をつけながら中佐は思う。途端にヴェラの表情が動く。
「嬉しい? …あなたねえ、何か別の目的があるんだったら、ジーナを巻き込むのはやめてよ!」
中佐は一瞬目を瞬くと、煙草を噛みしめた。
「別の目的?」
キムは首をかしげる。
「何か、そんなふうに見えるの? おねーさん」
「…見えるわよ。何がどう、って言うんじゃないけど、何か、そんな気がするのよ」
ヴェラは目を細め、紙コップの端を前歯で噛む。だがそれは一瞬だった。一口、熱いコーヒーをすすると、彼女は強い調子で言った。
「別にあたしは、あなた達が何を考えていてもいいけど、…少なくとも、妹は巻き込まないでよ!」
「妹は… って、じゃあおねーさん。ヴェラさんあなたはいいって言うの?」
「揚げ足を取らないでよ!」
「揚げ足じゃあないよ。ねえ隠していると言えば、あなただってそうだ。ヴェラさんあなたは、何をジーナに隠しているの?」
キムはそう言いながら、自動販売機に手をついた。
「隠して? 隠してなんかいないわよ」
「だけど、俺があの時あなた達の会話を聞いてた限りでは、あなたは彼女に何か隠してると思ったんだけどな」
彼女は顔を上げる。中佐は黙ってその様子を見ていた。彼は自分がヴェラの妹に関しては知らないことをよく判っている。この会話に下手に関わらないほうがいい、と彼は思っていた。
「立ち聞きしていたの?」
「いや、偶然。俺はあなたの妹に用があった。それは図書館のカードからだったけどね。ただそこにあなたがたまたま居たから、俺は順番待ちをしていたの。その時たまたま、あなたが妹とそういう会話をしていた。それだけ」
「…でも立ち聞きは、趣味が良くないわ」
「でも耳をわざわざ塞いでいることもできないよね?」
確かに、と中佐は聞きながら思う。何故かこの連絡員は、時々異様に耳がいい。自分はともかく、どうして彼がそうなのか、中佐は不思議だった。
「何か、あの、このひとが引っかけた、って奴と、あなた達は関係があるの?」
「もしも、それが、本当に彼、だったら、…幼なじみよ」
「幼なじみ」
「昔、この都市で、お隣に住んでいたわ。本当よ」
「嘘なんて誰も言ってないよ」
ヴェラは次第にコーヒーを持つ手が汗ばんでくるのを感じる。何だろう。別段その気はないのに、この目の前の男のペースに乗せられつつある。
「だけどジーナはそれを覚えていない。何で?」
「…答えなくちゃならない理由はないわ」
「そうあなたには答えなくてはならない理由はない。でも」
キムはにっこりと笑う。それは常夜灯の光の中で、妙に彼女の目には禍々しく映った。背筋がぞくり、とする。何なのこの人達は。
この人達は、違う。
手から、紙コップが落ちる。にこやかに、キムは再び彼女に告げる。
「でも、答えたほうが、楽になるよ」
全身の血が、一気に地面に落ちて広がる。そんな感触が、背中に走った。
これは尋問だ。
彼女はその時やっと理解した。
自分達が広げた「ごっこ」どころではない。これは尋問だ。誰が何のためにそうしているのかは判らない。だが、自分が、自分の持つ何かを引き出されようとされているのは判る。
そして逃れられないことを。
彼女の視界の端に、中佐の姿が映る。それもまた、そう感じてしまうと、今まで自分が見てきたものは何だったのか、と思わずにはいられない。
その金色の瞳は、彼女を一つの物のように見据える。ひどくこんな状況を知っている、慣れている。
誰なの? あなた達は、何なの?
だが、唇が震えて、声にならない。
「あのラーベル・ソングスペイは、どうしてここに来たのだと思う?」
あ、と彼女は脚から力が抜けるのが判った。だが重力に従おうとする身体は、強い力によって止められる。
「言って」
にこやかな顔。禍々しい。彼女は頭を大きく振る。
「…あ」
「聞こえない」
中佐もまた、煙草を投げ捨て、ゆっくりと彼女のそばへと近づく。彼女の全身に鳥肌が立つ。言わなくては、自分がどうなるか判らない。そんな恐怖が彼女の全身を襲う。
「…復讐… 復讐だと思うわ」
ヴェラはようやく言葉を絞り出した。
「何で?」
「彼のお父様は、この州の中でも、改革派についていた… らしいわ。小さかったから、本当のことは、判らないわ。後で聞いた話よ…」
「続けて」
キムは掴んだ彼女の腕に込める力をほんの少しだけ強めた。
「でもある日、特高が彼のお家にやってきたわ。そしてお父様が捕まり、事情聴取で、お母様も連れて行かれた… 残されたのは、彼だけだった」
「きょうだいはいなかったの?」
「居たわ。だけどその時、別の州に居たのよ。慌てて帰ってきて、彼を連れて、何処かへ逃げた、って言われているわ。…そりゃあたしは直接見た訳じゃないわ。うちの親から聞いたのよ…あたし達も、その直後、バウナンへ引っ越したんだから…」
「じゃあ、彼は何に復讐しに来たの?」
「あたし達だわ」
中佐は眉を片方だけ上げる。
「何で?」
「彼のお父様の逮捕の口実を作ったのは、あたし達だからよ」
「どうして?」
ヴェラは自分の声がまるで悲鳴だ、と感じていた。
無論話している声の調子には違いない。だが、その話している時の頭の中は、それどころではなかった。
どうにもならない、やり場の無い感情を吐き出す時、その声は悲鳴になる。
頭の中は、そんな時のように、水を入れたバケツが振り回され、今にも重力を振り切って、何処かへ行ってしまうのを必死でくい止めている… そんな気分だった。
「どうして?」
キムは重ねて問う。いっそ気を失ってしまいたい、と彼女は思った。頭の中には妹を守りたいといういつもの気持ちどころではない。
「…電話よ」
「電話?」
中佐は、この都市の電話が全て盗聴されていたことを思い出していた。だがそれはこの都市の市民には分かり切っていることだと。
「…あたし達は、彼の家でその日も遊んでいたわ。彼の家には、何台ものルームフォンがあったから、それを使って遊んでいたのよ」
「それはとても金持ちだということだね」
「そうよ彼の家は裕福だったわ。そしてその裕福な資金を、彼らは、別行動に回していたのよ…」
「別行動?」
「他州との連携。この州をも、他州同様、帝国から独立させ、ひいては、この惑星自体が帝国から独立して、自給自足のみでやっていくことを」
「だけどそれは今でもできているんじゃない? あなた達の共同組合は、何処を見渡しても、この惑星内のものだけで充分物は溢れていた。何で今、それ以上する必要があるの?」
「知らないわ!」
ヴェラは鋭く声を立てた。お、と中佐は目をやや大きく広げる。この声は。
今まで、何度か練習でも聞いてきたが、それ以上に今の声は。
「そんなこと、あたしは知らないわ! 知っているのは、あたし達が、その時使って、上げてしまった受話器から、彼のお父様達の話す内容が当局に漏れてしまった、ということよ!」
吐き出すように、ヴェラは言った。
言ってしまった後で、はあはあ、と肩で息をつく。
気持ちが表情に現れる。それは、奇妙に何かが取り払われたような、心地よさも孕んでいた。
「…そうよ。あたし達の遊んだ電話は、ルームフォンだけじゃなかったわ。でも普段の生活で、そんなもの使わないから、それが本当はどっち、なんて知る訳がないじゃないの… あたしもジーナも、ラーベルと遊んでいて、そのまま、応接間のそれを、放っておいたまま、外へ遊びに出てしまったのよ… 戻ってきた時には、彼の家は、公安に囲まれていた。彼はその中に紛れて、それ以来、あたし達は、彼を見ていないのよ。消息だって、後で知ったのよ。そしてあの一斉検挙が始まったわ。あの時、彼のお父様と会話していた当時のそういう活動をしていた人が、一斉に捕まったのよ… 上げていた受話器のせいで…」
「だから、あなたは、それが自分達のせいだと思っている?」
ヴェラはがくん、と首を前に倒した。
「…あたし達のせいで、彼はお家を失い、たくさんの人が捕まったのよ… 悪いことはしていないのに…」
ふん、とその時初めて中佐は口をはさんだ。
「なるほど女優さん。よく隠しておいたものだな。あんた確かに素質あるよ」
ふらり、と彼女はその声に顔を上げる。
「そしてあんたはずっとその事実を妹に隠していたんだ?」
「隠していた、訳じゃないわ。言わなかっただけよ… だけど、そうじゃない。それだけじゃなかったのよ」
「何」
キムは問いかける。
「ジーナは、忘れているのよ!そのことだけじゃない。ラーベルのことも、リャズコウさんのことも、全部…」
ほんの少し、キムの手の力が緩む。力の抜けた彼女の身体は、ずるずると自動販売機を伝って、舗装された道の上へと沈んでいった。
キムはちら、と中佐の方を見る。中佐はうなづく。そしてその赤い髪もまた、その位置を下に移した。
「それで、あんたは妹に警告していたんだな」
彼女は無言でうなづいた。




