この日より始まりて
世界は目に見えるものがすべてではない。
世界は人間のものだけではない。
世界は表向きの歴史だけで成り立っているわけでない。
世界は真実だけとは限らない。
世界は虚にして現、醜にして美。
「みぎゃーーーっ!」
と、耳をつんざくような鳴き声を上げながら、猫が風を巻き起こしながら勢い良く駆けていく。そういう光景は、たまにはあるかも知れない。
しかし、その後方から怒涛のごとく、黒い煙といおうか霧といおうか、大型トラックほどの大きさのもやもやとした、濁りのある半透明の塊が砂をまき散らしながら追っていく。こういう光景は、そうそうあるものではない。
高校の藍色のブレザーをまとった長髪の少女は、その勢いに慌てて身体を竦すくめていた。何事かと慌てて振り返ってみても、その姿はすでに視界になく、
(気のせいだったのかしら)
と思い、すぐに忘れてしまった。
外見に舞台の踊り子。西洋ファンタジーに出てくるダンサーのような、胸元から上は肌をむき出しにしたワンピースという、露出度の高い衣装に、頭部や胸元に宝石ようなもので飾り立てた姿で立っている。その場所がステージなら違和感が無かったかも知れないが、やや小柄な、短い亜麻色の髪を持つその女性が立っているのは片田舎の、幅もわずか十メートルほどしかない小さな川の岸である。考え事をしているのか、ブツブツと小声で呟きながら川を見つめるその姿は異様としか言いようがない。
少女がその女性を目にしても、すぐに通り過ぎようとしたのも当然だろう。
だが、すっと顔を上げたその女性は少女の前に立ちはだかると、右手をすっと伸ばした。
ピンと伸ばしたその指先は、少女の額から鼻先の前を、触れるか触れないかという微妙な距離を保ちつつ、ゆっくりと下がっていく。やがてそれが胸元に達したとき、撫で回しながらつかむような仕草に変わっていて、
「な、何するんですか?!」
少女は右手でその女性の手を払いのけ、左手で胸元を隠しながら逃げるように駆けていく。そんな少女の後ろ姿を眺めながら、女性は右手を数度、開いたり閉じたりしていたが、
「気のせいじゃないわね。
白虎、行って」
それだけ言うと、何かを探すようにゆっくりと辺りを見回していた。
「え?」
少女の開いた眼差しに飛び込んできたのは、見慣れない天井。六畳間の和室に、布団をかぶっているのが、どうしてなのかも分からない。
「ふぅ…」
と、枕元でため息。そこに正座姿、お茶を飲んでいるのは先ほどの女性で、
「スピード重視で正解だったわけね」
その呟きに、おそれいりますと低く鈍い男性の声がどこからともなく聞こえる。少女は、全身に言いようのない 軋みと気だるさを感じながらも、ゆっくりと身体を起こしていって、
「ここ…何が…どうなって」
「名前は言える?」
「名前…」
暗鬱な表情のまま、少女は右手で頭を抱え、時々息を詰まらせる。
「…く…き……く……」
唇が打ち震える。
「は、はる…」
意識はそこまでで、力なく倒れ込んでいた。
「名前すら…ダメか」
「あなたは記憶喪失」
二度目に目を覚ました時、少女は例の女性からそう宣告されていた。
「記憶喪失?」
「社会的には、そういうことになるわ。名前だけはかろうじて 紡いだみたいだけど。
分かるかしら。あなたがどこで生まれて、どこで育ったのか。家のこと、周りのこと。ほとんど思い出せないはずよ。
とはいえ、箸の持ち方とか、自転車の乗り方とか、身体が覚えたことは忘れていないはずよ。言葉も文法も覚えているから、会話だって支障はないし」
「生まれた場所…家…どうして…分からない。どうして…」
「選択して、忘れさせたの。正確には破壊ね。記憶の一部を破壊しているわ。
記憶喪失の場合は、記憶を呼び起こす回路が切断あるいは遮断されただけだから、何かのきっかけで再び記憶が蘇ることがあるかも知れないけど、この場合は、元の情報がそもそも無くなっているわけだから、記憶が蘇るなんてことはないわ」
「いえ、そういうことじゃなくて…『忘れさせた』ってのも、よく分からないんですが。どうしてそんな、記憶喪失…というか、破壊ですか。私がそんなことになっているのか、ってことなんですけど」
「知らないわよ、そんなこと。私がやったのは、あなたを追わせて、助けさせただけ。その後のことも知らないし、今後どうするのか、どうなるのかなんて、まったく興味ないわ」
「そんなの困ります」
まだ何が何だか分からないのに、と訴えかけながら身体を乗り出すのとほぼ同時に、畳の上を歩く音が近づいてきて、現れたのはまるで平安時代の女性のような、 十二単衣のように着物を重ね着した黒い長髪の、整然とした顔立ちの女性。
「 華枝さんは面倒見がいいのか、面倒くさがりなのか、どちらなのかしらね。変に不器用だと、いろいろと損するわよ。 天后さんもやきもきしてるんじゃないかしら」
「家のことはほっといて。それより 瑞葉、あなたが説明しなさいよ。記憶のこと、あなたがやったことなんだから」
「はいはい」
瑞葉と呼ばれた女性が華枝を押しのけるようにして布団の側に腰を下ろすと、少女は無意識のうちに身体を完全に起こし、着ていた制服の 襟や 裾を整えると、正座して 対峙していた。
「あら、 躾がなってるのね。偉いわ。私は瑞葉。この子は 御堂華枝さん。そしてあなたは『はるか』さん」
「はるか…」
「せっかくだから、華枝さんから字をもらって、春に華やかの『春華』さんにしましょう。苗字は、『き』とか『く』とか言ってたみたいだから、き…きく、きくらげ、聞くは一時の恥、菊の花…菊池さんんかしら、菊だと秋から冬の花だけど…」
「あの…」
「菊見春華さん。いい感じね。そうしましょう。これがこれからあなたの名前よ」
「『あなたの名前よ』と言われても、私にはちゃんと親からもらって。
親から…親は…。名前、名前は…わ、分からない」
思い出せないのに、頭が混乱するわけでもなく、ただ空っぽになった頭の中を感じるだけ。それどころか、自分の身体がまるで、内側に何も存在しないかのような空洞になってしまったかのようで、実感が沸かない。
「残念だけど、以前の名前はもう存在しないの。多少はそれっぽい感じになってるかも知れないけど。生まれた場所も、住んでいた家のことも、家族のことも、名前も。過去に関わるもの、いろいろとね」
春華の顔が上がる。しっかりと瑞葉を見据えて、ゆっくりと言葉を出す。
「どうしてですか? どうして、そんなことになっているのですか。私に何が起きたのですか。
家のこととか家族のこととか、何も思い出せない。そもそも、そんなものが存在していた気がしないぐらいです。こんなのあり得ない。両親がいなければ、私は生まれてこない。私はどこかに住んでいたはずなのに、どこなのか分からない。いえ、そう思うのに、それを探し出せない。探し出せないのに、それがおかしいと思わない。私の頭は、どうかしてしまったみたいです」
問われて、瑞葉は天井を見上げる。深く息を吸うと、吐き出されるため息が強い。
「重いわ」
「え?」
「あなたはこれまで、真面目にしっかりと生きてきたのね。それだけに、すべてを受け止めようとする。そんなあなたには、あまりにも重すぎるの。身も心も削り散らされ、辛い思いばかりを抱え込んでしまうのが目に見えるよう。だからと言って、過去を奪ったことは悪いと思ってるわ。でも私だって、こんなこと 滅多にやらないわよ。あなたに受け止める器が出来上がるまで、その時が来るまで、しばらく待ってちょうだい」
音も立てずに立ち上がった瑞葉は、
「これからここで生活しなさい。心の準備をする時間もないでしょうけど、学校へも通わせてあげるわ。いろいろ、手続きを始めないと」
と言い残して去っていく。
その姿を、春華は黙って見ていることしか出来なかった。突然の出来事をどう受け止めればいいのか分からない。だからと言って、このまま一人だけでどうにか出来るものでもない。そして、記憶を無くしたことに、絶望感すら沸き起こらない自分に再び虚無感を覚えても、涙のひとつすら浮かばなかった。
(どうして、こんな状況で悲しみすら感じないんだろう…)
不思議で仕方がなかった。
散歩がしたいと、家の裏口から外へと出る。ところどころが汚れ、ほつれた制服のままではいられず、白い無地のブラウスに短めのスカートというシンプルな衣服に着替えてさせられていた。
表に回ってみてば、自分がいた場所が認識できた。
「『またたび』?」
壁には 蔦が 鬱蒼と覆いかぶさり、そこから 伺い知れる姿は、昭和の頃を思わせるような少し古風な喫茶店。『またたび』という文字が彫り込まれた立て看板が、厚手の木製のドアの横に掲げられている。窓から覗き込めば、これまた古風としか言いようのない、狭く、そしてどこか懐かしさを感じさせる 雰囲気。
「お客さん、入ってない。時間的に早いからかな?」
そこから離れて、道へと出る。
車一台がかろうじて通れる程度の、狭くて 閑散とした道。時々、子供たちが楽しそうにはしゃぎながら駆け抜け、主婦と思しき女性たちが会話をしている、田舎の日常的風景。
春華が不思議に感じるのは、それが『理解できる』こと。
かなり、歩き回っていた。
あの子供たちは小学生かな。さっきから感じるこの匂いは、カレーの匂い。向こうに見える建物は学校よね、小学校かしら中学校かしら。この辺りって、コンビニは見かけないわね。
そういうことが理解できても、自分が幼い頃にどんなことをしていたのか、どこの小学校に通っていたのか。どんな公園で遊んでいたのか、どんな友達がいたのか。
そういうことがまるで思い出せない。
横断歩道は赤信号になったら渡ってはいけない。フランスの首都はパリ。 πは円周率のこと。本能寺の変は1582年…。
そんな、誰かに教わったこと、習ったことはすぐに思い出せる。理解できる。それなのに、それを教えてくれた母親、先生、友達など、その存在自体が思い出せない。
そして何より、かつてのことが思い出せないことに『違和感を覚えない』。
知らなくて、当たり前。
だって、何もないのだから。
「私…どうしちゃったのかな。ううん、それより…これから、どうしたらいいの?」
ようやく春華は、何も持たない自分に寂しさを覚えていた。
「みぎゃーーーっ!」
と、耳をつんざくような鳴き声を上げながら、猫が風を巻き起こしながら勢い良く駆けていく。そういう光景は、たまにはあるかも知れない。
しかし、その猫が大型犬ほどの大きさと、クリーム色というより金色に近い毛色をしていて、そのうえ、
「ああ、もう、しつこいわね。怨みを買った覚えなんて、ないんですけど?」
と、足元でその動きを止めた瞬間、人間の言葉で呟いていたとしたら、こういう光景は、そうそうあるものではない。
「 騰蛇さんに追い回されたときのことを思い出しちゃったわよ。いくら 梅養軒の、二時間待ち絶品シュークリームとはいえ、しつこかったわよね。あれに比べれば…」
と、その金髪の猫はブツブツと文句を言いながら顔を上げ、春華と目を合わせた途端、身も表情も硬直させてたのが見て取れた。
「猫…よね? なんで言葉を…」
春華が 唖然と問いかけるのとほぼ同時に、その猫は駆け出していた。
「ちょ…」
春華が右手を伸ばした途端、すでに数メートルは離れていたであろうその猫は、いきなり地面をゴロゴロと、右手の路地へと転がっていってしまったのである。
「いきなり 神通力なんて使わないでよ。妖力がかき乱されちゃうじゃない」
そんな叫び声の元へと春華が駈け寄れば、細い路地に落ちているのは大量の、重ね合わさる着物。そして、衣装をはだけた裸体に近い姿で後頭部を押さえ、その顔は地面にこすれた跡が痛々しい、美貌の女性。
「瑞葉さん?!」
有無も言わさずに唐突に自分の保護者となった女性が、先ほど猫が転がり込んで行った場所に、こんな格好で転がっている。
「いくら千年 猫又でも、痛いものは痛いの。聞いてますか、春華さん?」
批難の声が耳を通り過ぎるのを感じながら、不可思議な状況に立ちすくむしかなかった。