黄金の林檎亭 1
「ありがとうございましたー!」
「いらっしゃいませ、焼きたてのアップルパイはいかがですか?」
温かみのある木目の室内には、中央に大テーブルが設置され、壁面をぐるりと囲む様にして上下二段の斜め棚が設置されている。テーブルや斜め板に処狭しと並べられているのは、目にも食欲を誘う出来立てのパン達。
帝都ルシュタンブルの中で、普通花が主に住む区画のルスリア大通りに面した店舗――ルーナリーアが勤務している“黄金の林檎亭”内部は、店員達の明るい掛け声と出来たてのパンを買いに訪れる客で常に賑わっていた。
時刻は昼を一回り程過ぎた頃合だ。時間帯的に多少客入りは減っているが、それでも焼き釜の火は消える事無く次々に香ばしい香りのパンを生み出している。
「ルーナリーア!」
常連の若い男性へ紙袋一杯にパンの詰められた袋を渡し、笑顔で見送ったルーナリーアは厨房から自分を呼ぶ声にそちらへと若葉色の視線を向けた。
一抱え程もあるパンの生地を軽々と持ち上げ、捏ねる作業を止めないままルーナリーアへ視線を向けるのは、白い作業服と同じく白い前掛けを着た中年の男性だ。年齢的には中高年に差し掛かっている筈だが、毎日パン生地と格闘している為か無駄な筋肉が一切付いていない。“黄金の林檎亭”店主であるジェライト・チェスメイは、打ち粉の白い粉を頬に付けて溌剌とした笑顔を湛えていた。
「そろそろ休憩しな。 おまえさん、朝イチからずっと休憩してないだろ?昼メシに好きなモン取っていきな」
「はい、ありがとうございます」
「あとは…フリーア、クドラ、お前達もな」
「はぁーい!」
「りょーかい」
ルーナリーアと共に頷いたのは二人の少女だ。
フリーアと呼ばれた小柄な少女は、鳶色の大きな瞳と上品な紅茶を思わせるふわふわの赤毛が印象的だ。対して、クドラと呼ばれた少女は三人の中で一番身長が高く、すらりとした身のこなしと黒髪黒瞳が何処かミステリアスな雰囲気を与えている。
店主の好意に甘え、ルーナリーア達は各々好きなパンを頂戴すると、足取りも軽く店舗の裏手にある休憩スペースへと向かった。
◇
店舗の裏手には、室内で飲食や休憩するスペースと、晴れた日には外の木陰で食べられるようにテーブルと椅子が設置されている。ここ暫く続く快晴の陽気に誘われて、三人が向かったのは当然ながら外のスペースだった。
室内からレモン水の入った瓶と、三つのグラスを持ってきたフリーアは、椅子に座るか否かくらいで待ち侘びたようにルーナリーアへと身を乗り出して鳶色の瞳を期待にキラキラと輝かせた。
「ルナ! 昨日金髪のカッコイイ人と歩いてたってホント!?」
「えっ」
「…私は白百合と青薔薇を持って、“花皇宮”から歩いて来てたって聞いたけど?」
好物であるアップルパイを食べようとしていたルーナリーアは、思わず手中からパイを取り落としそうになり、慌ててパイを持ち直した。普段はクールなクドラまで興味津々といった様子で目を輝かせているのだから、一体どこから情報が流れているのか分かったものではない。
フリーアとクドラ、そして今は想い人と共に港街エラノスへと行っているエリヤ、ルーナリーアは“黄金の林檎亭”で働き始めた時期もほぼ同じ、年齢も近いとあってすぐに意気投合した四人組だ。三人とも普通花だが、雑草にも対等に接してくれる大切な友人である。
付き合いも数年来とあってか、二人とも銀髪の少女が戸惑いに目を白黒させていても、追及の手を緩める気配が一向に無い。
それどころか、妙に嬉しそうな表情で顔を見合わせているのは何故だろう?
「白百合と青薔薇!?どっちも高貴な《花》じゃない…ああ、とうとうルナの可愛さを分かる貴族様が現れたのねえ…」
「ええっ…ちょ、フリーア違うよ…」
「今まで男ッ気の欠片も無かったルナがね…苦労した分、幸せになるのよ、いい?」
「そういってくれるのは嬉しいけど…二人とも、誤解よ?」
妙に老獪な顔をしてしんみりと頷き合う二人は、まるでルーナリーアの親族のようだ。同い年だというのに、咲き誇り盛りの端麗な二つの顔にはまるで百歳も閲した者のような表情が浮かんでいる。
エリヤも含め、常々ルーナリーアに男の影が欠片も無い事を気にしていた二人が心配してくれている事自体は嬉しいのだが…どうやら事情を知らない者から広まった噂だけを真に受けているらしい。
慌てて《薔薇の騎士団》との邂逅を最初から説明してはみたが、渦中の本人から話を聞いた筈の二人はそれでも納得できないようだ。
「いくらその誓いとやらがあるって言ってもよ、ルナ?普通好きでもない人に、自分の《花》を見せたり、あげたりしないでしょ」
「う、うーん……お二人は、お優しいから…」
もちもちとした白パンを一口大にちぎり、口に放り込みながら神秘的な黒瞳を一度細めたクドラは、柳眉を微かに顰めた。それを聞くや否や、困ったように笑いながらレモンとミントを混ぜた清涼な水を三人分グラスに注ぎ、若葉色の瞳は困弱を湛えて揺らぐ。
それに対して反論したのは、既に幾つか目のパンを口にする鳶色の瞳を持つ少女であった。一番小柄だが、一番良く食べる少女があつあつのピザを咀嚼した後、クドラの意見に賛成とばかり手を上げた。
「確かに、ルナを助けてくれた事は優しいけど。 優しいだけの人が、騎士団の詰め所に届け物…なんて、依頼するかなあ?」
「それは…」
「しかも毎週?ルナの作るお菓子はおいしいけど…よっぽど気に入らないと、そんな依頼ってしないと思うよ?」
「……」
畳み掛けられる言葉に上手く反論できない。
ルーナリーアとて年頃の女性である以上、“そういう”展開を夢見た事がない訳ではない。今、帝国中の乙女達が夢中になっている恋物語の本にだって興味津々だが、物語の中だからこそ夢を見る事だって出来るのだ。それが唐突に自分の身に訪れている、と言われても首を傾げてしまうのが正直なところである。
二人とも、その場に居合わせなかったから分からないだろうが、騎士団の人達はそういったものではないし、なにより幾ら彼等が対等に接してくれたとしても、ルーナリーアにとってはやっぱり雲上人である事に変わりはないのだから。
「頂いた《花》は“花皇宮”から帰る時、変な事に巻き込まれないように…だと思う。 それに、まだ二回しかお会いしていないのに、好きとか嫌いとか…分からないでしょう?」
「…まあ、それは確かに一理ある…けど」
「普通すぎてつまんなーい!ルナは夢がないー!」
優等生の回答がお気に召さないらしい。
少しばかり考えて頷くクドラとは正反対に、いつの間にかピザを食べ終わり、今度はメロンパンに噛り付いていたフリーアは可憐な唇を尖らせて不満を吐き出した。更にはじたじたと上半身をテーブルの上でのた打ち回らせる姿には、苦笑を返すしかない。
樹々の梢から漏れる陽光がテーブルに注ぎ、吹き抜ける風は近くに咲いているらしい柑橘類の爽やかな香りが含まれていた。賑やかに言葉を交わす二人の姿を微かに笑みを浮かべてルーナリーアは眺めていたが、手中のアップルパイに思い至ると少しばかり冷めてしまったそれを口に含んだ。
二人に言った事は半分は本当で、半分は自分へ言い聞かせた言葉でもある。
そうでもしないと、ルーナリーア自身がどうすれば良いか未だに判断がつかないからだ。“青騎士”であるあの男性は正義感と優しさに溢れた人で、きっとあの状況に手を伸ばす事は当然だったのだろう。
だが、ルーナリーアにとってはとても尊い事で――深い海の底のような澄んだ、それでいてはっとするように強い光を宿したあの、青い瞳が忘れられない。
あの瞳に見詰められると、えも言えぬ安堵感と、同時に心臓が大きく鼓動を刻んで苦しくなってしまう。こんな事はいままで生活してきて初めてだった為、ルーナリーアは自分の気持ちが分からずに戸惑ってしまった。
それが顔に出ていたらしい。ふと、ルーナリーアへ黒瞳を向けたクドラが露骨に眉を顰めた。
「ルナ?何かすごい顔になってるよ」
「え…えっ、ううん、何でもない!ちょっと考えごとしてただけだから…!」
「ほんとに?体調悪いとかなら、すぐマスターに言うから無理しないのよ」
各々(おのおの)が浮かべる表情はそれぞれだが、ルーナリーアを心配してくれている事は明瞭に伝わり、頬が綻ぶ。今は亡き両親といい、“黄金の林檎亭”の人達――特に、エリヤを含めたこの三人に何度ルーナリーアは救われた事だろう。胸中に溢れる温かな想いに比例して、若葉色の瞳を細めた少女の表情と言葉はどこまでも穏やかだ。
「本当に大丈夫よ、ありがとう……あ、そろそろ戻らなきゃ」
「よおーしっ!おなかも一杯になったし、残りもちゃきちゃきがんばろー!」
「フリーア、あんたは食べすぎなのよ…その身体のドコに入ってるんだか」
華奢で細い身体の一体どこに、と目を疑ってしまいたくなる程の量をぺろりと完食して、満足そうな赤毛の少女が一番に椅子から立ち上がり、拳を空に突き出すと呆れて溜息を吐き出す黒髪の少女も椅子から静かに立ち上がった。
パイの欠片を口に放り込み、レモン水を飲み干したルーナリーアもゆっくりと店内へ戻ってゆく二人の背中を追い掛けて駆け出した。
明るい笑顔と、マスター自慢の焼きたてパンはいかがですか?