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雑草姫の微笑  作者:
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薔薇の騎士達 4

 朝露の雫を思わせる清らかさで、若葉の瞳から大粒の涙が白磁の頬を滑り落ちてゆく。

 東屋(あずまや)に差し込む一条の陽光が、その涙に注いで煌く様はまるで絵画のようだった。頭二つ分近くも小さく、華奢な肩を震わせる少女の姿を見た瞬間、ぞくりと言い知れぬ感覚が背を走り抜けてケインスは微かに目を細めた。


 先程から、甘い香りが漂っている。


 それは菓子の匂いでも、東屋の周囲で咲き誇る生花のものでもなく、目の前で清らかな涙を流す少女のものだ。強い香りではないが、不思議とケインスを惹きつけてやまない優しく甘い香り。

 出来る事ならば、理性を放棄して今すぐにでも小さな身体を抱き締め、溢れる涙を止めてやりたいとケインスは思う一方で、昨日出会ったばかりの異性にそんな事をされてはこの少女を困惑させるだけだと思い留まる事は、酷く難しかった。


 どうか泣かないでくれ。

 君が泣くと、酷く苦しくなる――笑ってくれ。

 そう、一言告げるだけでいいのに、自分自身が口下手だと知っている“青騎士”の男は、行動も起こせず、言葉も上手く言えない自らの不甲斐なさに軽く眉を顰めた。


 そうして考える。

 言葉の代わりに、この涙を止める方法を。







 《薔薇の騎士団(ナイツ・オブ・ローズ)》の“青騎士”であるケインスは、ルーナリーアが泣き止むまで若葉色の瞳から零れ落ちる涙を指先で拭い続けた。

 そこに言葉は一言も無い。だというのに、注がれる眼差しや手付きからこの男性の優しい心が伝わってくるようで、ルーナリーアは密かにもっと涙が溢れれば良いのに、と不謹慎ながら考えてしまった。

 ずっと触れていて欲しい、等と思うなんて――なんて浅はかなのだろう。今まで経験したことのない感情が胸の奥で燻って、それが言葉になってしまわないように、温かな掌から自ら身体を引いた。


「…も、もう、だいじょうぶです。 ありがとうございます、ケインス様」

「そうか……ならば、詰め所へ戻ろう。 そろそろ部下達も落ち着いた頃だ」

「はい」


 少しばかり挙動不審気味の動きにもケインスは一度緩やかに瞬きをしただけで、普段と変わらず手を下ろす。自分だけが妙に舞い上がってしまったようで、音も無く椅子から立ち上がって詰め所への道を歩き始める広い背中を追い掛けながら、ルーナリーアは密かに表情を暗くした。




 先程まで、喧騒と野次に溢れていた詰め所は本来の静寂を取り戻している。

 詰め所の入口には二人の騎士がそれぞれ直立不動の姿勢で立っており、二人の姿を見るや否やきっちりと踵を揃え、右手を左胸に宛がう敬礼を送った。

 当然ながらその対応に慣れているケインスと異なり、ぎょっとその姿を見ていたルーナリーアだったが、二人の騎士に深く一礼を送ると巨躯の背中を追って小走りで詰め所の中へと入ってゆく。


「…か、かわいい…」

「いや、うん…まじかわいい」

「菓子だって美味いしさ」

「俺、昨日のジャムゲットして食ったけど…あれはやばい」

「はあ!? お前食ったのかよ!俺にもよこせよ!」

「い・や・だ・ね。 悔しかったら作って貰えよ」


 ふわりと揺れる銀髪の後姿を入口から見送り、思わずといった様子で話し始めた二人の騎士が、次第に罵り合いを繰り広げるようになるまでさして時間はかからなかった。

 何やら詰め所の入口が騒がしくなった気がしたが、その原因が自分自身にあったなどと当然ながらルーナリーアは気付かず、途中一度振り返り軽く首を傾けるのみになったのは些か致し方の無い事だろう。


 綺麗に片付けられ、元の整然さを取り戻した詰め所の中には幾人かの騎士達と、見慣れた金髪の男性が佇んで居た。ルーナリーアの存在に気付くと、菓子の礼を丁寧に掛けてくれる彼等が全員貴族だとは(にわ)かには信じがたい。

 それぞれ、全員に深く頭を下げて礼を述べていた為、《薔薇の騎士団(ナイツ・オブ・ローズ)》の団長と副団長が話している場所へ辿り着いた時には、何事かを話した後の様だった。納まりの悪い、柔らかな金髪の下で笑みを刻んでいた琥珀色の瞳が、ルーナリーアの顔を見るなり驚いたように見開かれる。


「あれ、ルナちゃん泣いてる? まっ、まさか…だんちょ…」

「…お前と一緒にするな」


 如何にもワザとらしく両手で口元を押さえ、絶句してみせるエストに返されたのは深く皺の寄せられたケインスの黙然とした顔だ。「冗談なのにー」と唇を尖らせる仕草は、この帝都で知らぬ者はいない騎士団の、副団長という肩書きを持つ人物とはとても思えぬ程に愛嬌が滲み出ている。

 それに対して、“青騎士”と呼ばれる男性はとても生真面目で、時折何を考えているのか判然としない事すらある。ちぐはぐだというのに、酷くしっくり感じてしまうのは短期間とはいえ二人の人となりに触れたからだろうか?


 どうやら、二人の掛け合いが聞こえていたらしく、近くにいた他の騎士達も加わって、何時の間にかルーナリーアの周囲には沢山の笑い声が響く空間になっていた。


「ふふ……」


 思わず、笑みが零れる。

 昨日も感じていた事だが、騎士団の彼等とて人間だ。尊き《花》を持つ方々なのだと、遠ざけてしまっていたのは自分自身だったのかもしれない。だって、こんなにも彼等は優しく、朗らかだ。


「……我等が姫君が何やらご満悦なようで、我々としても喜ばしい事ですヨ」

「あ、いえっ…すみません……皆さん、仲がとても良くて、羨ましいなあって…」


 ややわざとらしく、温やかな声に一人笑っていた事に気付くと、慌ててルーナリーアは顔を持ち上げた。そこに映るのは、琥珀の瞳を撓めたエストの姿と、同じく皆々優しき薄笑みを見せる面々だ。

 それが妙に気恥ずかしく、蚊の鳴くような声を吐きながら身を縮こまらせた少女に掛けられたのは、深い水面を思わせる低い声であった。


「我々は寝食を共にし、争いがあれば背を…命を預け合う仲間だからな。 ……エスト、お前の問題行動には少々頭が痛いが」


 青い瞳は穏やかに凪いでいて、最後の言葉が冗談で言われた事であるのはルーナリーアにも理解できた。唇を尖らせるエストに場は再び笑いに包まれて、居心地の良いその雰囲気に少女も叉笑みを浮かべた。







「ここまでありがとうございました、ケインス様」

「…本当にいいのか?」


 名残惜しくはあるが、何時までも部外者が“花皇宮(サライ)”に居る訳にはいかない。辞去しようとしたルーナリーアを引き止めたのは、他ならぬ騎士団の団長であった。

 ルーナリーアが住む自宅まで送る、という生真面目な性格を如実に表したような申し出は流石に受け取れず丁重に断った為、今二人が佇んでいるのは《百合の騎士団(ナイツ・オブ・リリー)》の騎士が見張りに佇む“花皇宮(サライ)”の入口前だ。

 自らも多忙な筈だが、見送りまでしてくれるこの男性は矢張り優しい。それどころか、ルーナリーアが断った事を不服そうに感じる響きを言葉の端々から感じて、小さく笑みを浮かべた。


「まだ陽も高いですし、この通りを真っ直ぐ進むだけですから」

「そうか……ならば、十分に気をつけて」

「はい、ありがとうございます…また、7日後にお伺い致しますね」


 両手には綺麗さっぱり空になった籠を持ち、片方の籠にエストから貰った美しい白百合の花が顔を覗かせている。

 ケインスだけでなく《薔薇の騎士団》総出で熱烈な依頼を受けた結果、一週間に一度焼き菓子を届ける事になったのだ。報酬は一度につき、金貨一枚と言われて多すぎると反論したのだが、朝早く起きて作る手間と、届ける手間と、なにやらその他諸々も言われてうやむやのうちに丸め込まれてしまった。

 ならばせめて――帝国の為、《花》達の為に身を削る彼等が少しでも喜んでくれるように、せめて良い材料を仕入れ、心を込めて作ろう。ルーナリーアの声にただ頷くこの男性の、美しい藍方石(アイオナイト)のような瞳が輝いてくれるように。


「…ルーナリーア」


 見送りに出てくれた男性へ礼を送り、身を翻そうとしたルーナリーアを止めたのは、他ならぬ“青騎士”その人の低くもまろやかな声色であった。

 何事だろうかと若葉色の目を上げるその視界に映ったのは、煉瓦の石畳に作られた円形の空間(スペース)――“花皇宮”に入る際、エストとルーナリーアが《花》を生み出したその場所に手を(かざ)す美丈夫の姿だった。


 地中から芽を息吹かせる緑の新芽は、忽ちの内に瑞々しい人差し指程もある太い茎となり、茎には丈夫な刺が幾つも鋭くそそり立っている。

 先端が尖る葉脈鮮やかな葉が生まれたと思いきや、茎の先端で膨らんでいた青々とした蕾が次第に綻び始め、(やが)て大輪の花を咲かせるとルーナリーアは余りの美しさと、匂い立つ高貴な香りに息をするのも忘れて見入り、夢見心地の中でその名を呼んだ。




「薔薇……青薔薇(ブルーローズ)…!」




 青く、鮮烈な瞳と同じ色でありながら、どこか艶っぽさを感じさせる美しい花。

 青い薔薇は稀花(セルナリア)の位を持つ、とても珍しい《花》だ。漸くルーナリーアはこの男性が“青騎士”と呼ばれる理由を理解した。


「一緒に持って帰りなさい…分かる者には、分かる筈だ」


 たった一輪でも、目を惹きつけて止まず凛と咲く美しい青薔薇を無雑作に手折り、刺を落としてからルーナリーアに差し出されると、目の前にある花に動きが止まる。

 こんな、素晴らしいものを貰っても良いのだろうか?戸惑いに生み出した張本人を見上げてみるが、ケインスの表情は特に変化がない。だが、決して言葉数が多いとはいえないこの男性の声に、ルーナリーアは一つの憶測を抱いた。


 “花皇宮(サライ)”から、ルーナリーアの住む区画までは、貴族の住む区画を通っていく必要がある。騎士団のように友好的な貴族が稀な程だ、雑草(セリエ)の小娘が手ぶらで一人その区画を通っていれば、誰に目を付けられるとも限らない――では、百合と青薔薇の花があれば?

 微かに震える手で瑞々しい青薔薇を受け取ったルーナリーアは、胸を締め付けるような心地に目の奥がジンと熱くなる心地を覚えた。どうして、こんなにもこの人は優しいのだろう。


「ありがとうございます…っ…大切に、します」

「……む」


 小さく唸るような声は、肯定の響きを帯びている。

 心底からの笑みを浮かべると、時折“青騎士”の男性から漂う香りと同じ心地良い匂いを周囲にふんわりと広げる青薔薇と、上品な香りの白百合を籠に乗せ、今度こそルーナリーアは“花皇宮(サライ)”に背を向けて、帝都の端にある自宅へと道を辿り始めた。


 その華奢な後姿を“青騎士”の男性は、姿が見えなくなるまで見送り、表情のやや乏しい男性にしては誰でも分かる程名残惜しそうに身を翻した事を、ルーナリーアは知らない。


 低い、囁きの声も。





「…野苺も、薔薇なのだがな」




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