薔薇の騎士達 3
“花皇宮”の広大な敷地内を進むこと暫し。
段々と見えてきたのは円蓋を描く建造物だった。建物のあちらこちらに掲げられている薔薇の紋章からして、此処が《薔薇の騎士団》の詰め所のようだが…なにやら酷く騒がしい。
普通なら、詰め所の入口には関係者以外が立ち入らないように歩哨なりが居るものだろう事くらい、ルーナリーアでも分かる。だというのに、外には騎士の一人もおらず、その中からはドスン、バタン、という音に混じって野次が響き渡っている。
「…何でしょうか?」
「……」
状況が良く掴めず、ぱちりと若葉色の瞳を瞬かせるルーナリーアと違い、“青騎士”の男性にはどうやら心当たりがあるようだ。頭痛がする、とでも言いたそうに掌を額に宛がい、嘆息を零す仕草は見ているこちらが心配になるほどであった。
軽く首を傾げるルーナリーアをよそに、眉間の皺を深くしたケインスは深い青の瞳を眇めるように細め、大股で詰め所へと歩いて行く。慌てて広い背中を追い掛け、詰め所の中を覗き込んだその目に飛び込んできたのは意外な光景だ。
休憩所を兼ねているらしき広い空間は、普段であれば良く使い込まれた椅子や机が整然と並べられているのだろうが、今だけで言えば椅子や机は部屋の隅に放り投げられている。空いた中央の空間では、良い年齢をした男達が殴り合いを繰り広げており、周囲に集まった騎士達がやんやと歓声を上げていた。
ルーナリーアが見る限りでは、手合わせという可愛らしい言葉で納得できるようなものではない。お互いが全く手加減をしておらず、全力の殴り合いだ。
そうして片方が床に這い蹲り、もう片方はさながら歴戦を戦い抜いた勝者の顔で片手を高々と天に突き上げると、室内にはやんやの歓声が響き渡った。それから、勝者らしき男性が見慣れた金髪の騎士へと歩み寄ると、ほくほくとした顔で焼き菓子を幾つか手にして外に出ようとして――出入り口に佇む長躯の影に気付き、みるみるうちに顔を青褪めさせた。
「…何をしている」
音量自体はそう大きく発せられたものではない。だが、詰め所全体に響き渡るようなその声にルーナリーアとて刺のようなものを感じたのだから、“青騎士”の部下である彼等には尚更だろうか。
まるで、電流を身体に流されたかのように直立不動になる彼等が少々可哀想にすら思えてしまう。それでもケインスは許す気が微塵もないらしい。藍方石に似た瞳を細め、室内を見渡す視線には訓練された騎士達ですら、震え上がる程の冷たさが横たわっていた。
「…わざわざ足労頂いたミストレル嬢を置いて、奪い合いとは良いご身分だな」
「あ、あははー…ごめんね、ルナちゃん? 持って行ったら皆ヒートアップしちゃってさー」
剣呑に輝く瞳と、押し殺したような恫喝へ果敢にも反応したのは金髪の騎士だ。昨日から良く浮かべているのほほんとした温和な表情を今ばかりは強張らせ、それでも軽薄な声を上げられたのは流石だ。だが、それを見下ろしたケインスの瞳には、変わらず鋭い光が浮かんでいる。
余り効果のなかったらしい問答に、直立不動で踵を合わせて屹立している騎士達は皆、首を絞められたような奇妙な顔で絶望に瞳を暗くしていた。
「あの…アイヴァーン様…私は、平気です。 それに、そんなに喜んで頂けるほうが嬉しいです」
「……む」
おずおずとしたものではあったが、ルーナリーアが穏やかな声で放った言葉はケインスの耳にも確かに届いていた。その瞬間騎士達の目に浮かんだのは、絶体絶命の状況を救った救世主か、或いは天使でも見るかのようなものだ。
部下の失態に厳罰すら課しかねない勢いであったケインスだが、本人が気にしないと言っている以上、糾弾する必要もないと感じたらしい。ゆっくりと青い瞳が瞬いて、まるで“いいのか?”と問い掛けるような雰囲気を感じると、ルーナリーアはしっかりと頷いてみせた。
「ならば、良い」
「いよっしゃあ!続きやるぜ、続きーー!」
ケインスの身から滲み出ていた威圧感が霧散するや否や、歓声に近い声を上げたのはエストだ。
音も無く身を翻して詰め所から出て行く巨躯の背中を他所に、何とも現金な彼等は再びの争奪戦に盛り上がっている。躊躇いは少しの間。
銀髪を揺らしてエストへと駆け寄ったルーナリーアは、二言三言言葉を交わすと、あるものを手に詰め所を後にした。
◇
「――アイヴァーン様!」
詰め所から出てきたルーナリーアは、さほど離れていない位置でゆっくりと何処かへ行こうとしている背中を見つけ、思わず声を張り上げた。
大きく表情を変える事は無いが、どこか不思議そうに目元を細めながら振り返るケインスに追い付くと、両手に納めたものを掲げるように持ち上げて見せる。
「これは…」
ルーナリーアが差し出したのは、薄紙に包まれた野苺のパイだ。
実を言うと、他の焼き菓子はともかくとしてこのパイは“青騎士”であるケインスへ作った想いが大きい。詰め所から出て行ってしまった事からして、暫く戻る気はないらしい事から慌ててエストに頼み、一切れ分けて貰ったのだ。
艶やかな表面を見て、ひっそりと呟いたケインスに銀髪の少女は綻ぶような笑みを浮かべた。
「私の……野苺を使ったパイです。 昨日、アイヴァーン様には助けて頂きましたから、お礼のつもりで……気に入っていただけるかはわかりませんが」
そこまで言ってから、迷惑ではないだろうかという考えに至り、一人悶々と考え込んだルーナリーアの瞳に映ったのは、凪を思わせる静かさと穏やかさを湛えた淡い笑みを浮かべるケインスだった。
そのまま、ルーナリーアの手中にあるパイを宝物でも扱うかのようにして、丁寧に長い指先が攫ってゆく。
「礼を言うのは此方なのだが……有難う、早速頂こう」
ゆっくりと身を翻すケインスの後を付いて行っても良いものかと僅かばかりの逡巡を巡らせた後、結局ルーナリーアは広い背中を追いかける事にした。
“花皇宮”の中を彩る幾種類もの花達。それ等を何処でも愛でられるようにか、至る場所に小さな東屋が佇んでいる。詰め所から一番近い東屋へと足を踏み入れたケインスはルーナリーアが追従している事に気付くと、流れる様な所作で東屋に設置されている椅子の片方を勧めた。
騎士団の中でも有名な《薔薇の騎士団》に所属し、なおかつ団長であるこの男性は少なくとも貴花以上の《花》持ちである筈だが、昨日初めての邂逅を果たした時から雑草のルーナリーアに対しても全く態度を変えずに接している。
それが嬉しいような、妙にむずがゆいような心地を覚えながら勧められた椅子に腰掛けた少女と小さなテーブルを挟み、美丈夫も緩やかに腰を落とした。
東屋の周囲には、ことさら沢山の花達が生を謳歌していた。
欅の梢を揺らす涼風が時折吹く度、生花の瑞々しく甘い香りが東屋中を包み込んでいる。本当に美しい場所だ――自宅に隣接している森の花達とはまた違う美しさ。森の花が生き生きとしたものだとすると、こちらは匂い立つような艶やかさを秘めている。
どちらにしても、元々ルーナリーア達は《花》をその身に抱いて生まれる為か、近くに花があると妙に安心するのだ。我知らずほぅ、と小さな吐息を吐き出していたルーナリーアは、その様子を緩やかに細めた碧眼に映している男性の姿に気付くと、慌てて背筋を伸ばした。
「優しい味だ。 とても美味い」
見れば、既にパイは残すところ三分の一程度になっていた。
どうやら周囲の景色に見惚れている間、パイはこの男性の胃袋に着々と納まっていたらしい。
お世辞に過ぎないと分かっていても、自分なりに手を込めて作ったものを褒められると、悪い気は当然せずにルーナリーアの表情も綻ぶ。そうしてその綻びは“青騎士”の顔を見るや否や、破顔へと移ろい変化した。
「アイヴァーン様」
「…?なんだ」
椅子から腰を浮かし、テーブルに片手を着いてもう片方の手を伸ばした先は精悍な男性の顔である。
食べる際に付着したのだろう、頬に残る菓子の屑を指先で摘み取ると、それを払い落として銀髪の少女は微笑みを浮かべた。
「頬に、屑がついています」
「む…。 助かった、このまま部下の元に戻って恥をかくところだった」
些か大胆すぎただろうか?
別段、やましい気持ちではないが男性に自ら触れた事が無かった為、今更ながら自分の行動に赤面していたルーナリーアに注がれたのは、何処までも穏やかな深い青の瞳だ。
微かな陰影にたゆたう海の底を思わせるその目は不思議と心を穏やかにして、気付いた時には昨日から抱いていた疑問をぶつけていた。
「……どうして、そんなにもお優しいのですか?」
「…?どういう意味か分かりかねるのだが…」
ぎゅっと膝のスカートを握り締める指先には、我知らず力が籠もっていた。力を入れているせいで、関節から白く色を変える指先に視線を落とし、まるで恐れるようにルーナリーアは囁く。
きっと、この騎士はルーナリーアが雑草であると気付いていないのだろう――だって、差別や侮蔑、冷笑こそあれ、こんなにも優しい眼差しを高位の《花》持ちから向けられた事なんて、一度もないのだから。
「…私…私は、野苺の《花》を持つ雑草です。 それなのに、アイヴァーン様も、エストさんも…騎士様は皆、私に優しくしてくださいます」
青い瞳が緩やかに見開かれている。
ああ、やっぱりこの人は気付いていなかったんだ。
次に向けられるのは、冷たい眼差しなのだろうか――この人に嫌われてしまうのは、とても苦しい。
ふと、鮮やかでいて深い色を湛えた碧眼が細められた。
「我々騎士は、騎士として剣を授かる時に誓いを立てる」
ゆったりとした口調で低い声を紡ぐ口から、心を抉るような言葉は生まれない。
そこにはあくまでも対等の者と会話する響きが感じられて、ルーナリーアは瞳を瞬かせた。
「…帝国の鋭き剣となり、強靭な盾となり…そして――全ての《花》を守る、守護者であれと」
「《花》を守る守護者…」
ルーナリーアの鼓膜を震わせる低い声はけっして大きくなかった。しかし、流水のように澄んだ紳士さを持つ声色は心の奥にそっと浸透してゆくような錯覚を与える。これほどに、誰かの言葉が心地良く届いたのは初めてかもしれない。
「そうだ。 元々、創世の神であるエトは《花》から人を生み出しはしたが、そこに優劣はつけなかった……何千年も前の祖先が付けたものに過ぎない。 私も、君も、同じ《花》……君の《花》は、美しく可憐な花だ…余り、自分を卑下する事はないよ」
「はい…」
何時の間にか、ルーナリーアの瞳からは大量の雫が頬を伝い落ちていた。
嗚咽をかみ殺すようにして小さく頷く涙で濡れた頬に、そっと触れたのは男性の大きな掌だ。優しく涙を拭う仕草に濡れた若葉色の瞳を持ち上げた視界には、緩く口角を撓めて明瞭な笑みを浮かべる青い瞳があった。
「君さえ良ければだが…時折、菓子を作ってくれないだろうか。 部下もだが、私も…君の作る菓子をとても気に入ったんだ」
「…!はい、はいっ…!」
大きな掌が触れている場所から、じんわりと男性の体温が滲んで溶ける。優しい声と、表情に良く似た心地良い体温。涙顔に一杯の笑顔を浮かべ、ルーナリーアは大きく頷いてみせた。
「ああ、それから…私の事はどうかケインスと」
「……はい、ケインス様」
「ありがとう。 ……ルーナリーア」