薔薇の騎士達 2
ルーナリーアが住む場所から一番近いウィンザー通りを進み、普通花と端麗花の区画を通り過ぎて、更に貴花が主に居住を構える高級住宅街を抜けると、普段は随分遠くに見えていた建物が目の前に飛び出してきた。
“花皇宮”――帝都の中にあって、沢山の樹々に囲まれた区画。その緑の合間から、陽光に照らされて白く反射する円蓋と、幾つかの優美な尖塔が空に伸びていて溜息が出るような美しさを見る者に与えている。この光景こそ、帝都ルシュタンブルが“麗しの都”と称される所以である。
「………わあ…」
雑草であるルーナリーアが、帝国の中枢にも等しいこの場所へ訪れた事は一度としてない。故に、何時も遠くから眺めるばかりであったこの景色を見て、絶句するのも当然だろうか。
隣を歩く長身の男性は見慣れているらしく、露とも表情を変えないのだが。
いつの間にか足を止めて見惚れてしまっていた事に気付き、慌てて金髪の男性を追った時には既に、“花皇宮”の出入りを守る騎士達の前へエストは佇んでいた。
黒銀の甲冑を隙無く着こなし、凛々しき双眸を此方へと向ける騎士の胸元には、百合の紋章が刻まれていることからして、《百合の騎士団》に所属する騎士だろう。《薔薇の騎士団》と対をなすこの騎士団は、主に皇族の住まう“花皇宮”の警備及び皇族の警護を主に担当している筈だ。
当然ながら“花皇宮”に足を踏み入れる以上、《百合の騎士団》からの問答に応える必要があるのだが、何やらエストと門番である男性はもめているようだ。
「ふふふふ、羨ましかろう!これはルナちゃんが俺達《薔薇の騎士団》の為に作ってくれたものなんだぜ~」
「くそっ、お前達ばっかりずりーぞ…ううっ」
「まあ俺の素晴らしい人徳故だと思ってくれたまへよ」
もめているというよりも、一方的な自慢に黒銀の甲冑を着た騎士が悔しがっているだけだった。
二つの籠を門番である騎士の前でワザとらしくゆらゆらとエストが揺らすと、甘い香りがする為か随分くやしそうに歯軋りすらしている。あんまり悔しそうな表情をする為、悪い事をしている気分にすら陥ってしまう。
もし今度の機会があれば、この騎士にもきっと出来たての焼き菓子を持って来よう…自慢こそすれど、籠の中身を渡そうとしないエストを視界に納めつつひっそりとルーナリーアが心の中で誓ったとき、ふと不可思議な光景に若葉色の瞳はぱちりと瞬いた。
“花皇宮”を中央にして、六つの大通りは全てが赤煉瓦の石畳で舗装されている。だが、門番の傍らには綺麗に赤煉瓦が円形に切り取られ、地面が露出している部分があった。直径も人二人がその地面に降りても十分な余裕があるように作られており、明らかに故意で作られた空間だ。
まるで《花》を使う場所のようだ――そう感じたルーナリーアの直感は当たっていたらしい。先程までのじゃれあいが嘘のように、一瞬で表情を真剣なものに変化させた騎士は、きっちりとした敬礼と共に身分証の提示と、自らの《花》を使うように促したのだ。
騎士の敬礼は、この世界に生を受けた時《花》を抱いていた右手の掌を左の心臓に当てるというものである。これの意味は確か、“自らの《花》と命に誓い、我嘘偽り無き騎士たる者”という意味だったはずだ。
「《薔薇の騎士団》副団長、エルネスト・オリオール」
身分証を差し出した後で洗練された敬礼を返す金髪の男性は、柔らかな声音を至極真面目なものに変えると、赤煉瓦の上から故意に作られた地面の上へと降り立つ。
“副団長”という言葉に驚く暇も無く、次の瞬間若葉色の瞳に映る光景に息を呑んだ。
茶色の地面から天に向かい伸び上がる緑鮮やかな一本の茎には、幾つも楕円形の長い葉が瑞々しく伸びている。先端の茎から幾つも緑の蕾が丈を伸ばし、それがみるみるうちに白い蕾へと変貌する頃には、先端から六つに割れた大輪の白き花が放つ甘やかな香りを周囲に振りまいている。
古い文献や、絵にも良く登場し、非常に種類の多い花だ。だが、彼の花はその中でも特に高貴とされる種の《花》だった。
「…百合…!」
「せいかーい!そんなルナちゃんにプレゼントしちゃう!」
慄くルーナリーアを他所に、振り返ったエストは相変わらずのほほんとした笑みを湛えている。その手がこの世の春と咲き誇る百合の茎に軽く触れると、まるで主に頭を垂れるかのように、或いは愛しき人に身を寄り添わせるようにして茎は容易く折れ、高貴な香りを漂わせるそれがルーナリーアへと差し出された。
咄嗟に伸ばした腕に美しき純白の花を受け取りはするが、ルーナリーアの表情は今だ驚きから覚めていない。それでも、門番の騎士が促しの言葉を掛けると、些か不器用な動きで懐から身分証をひっぱり出して騎士へと差し出し、土の上へと降り立った。
そうして、祈るのだ。創世のエトから受けた祝福の力、身に宿る《花》の力を。
地面から緑の芽を覗かせる先端には短い軟毛が密生し、それは忽ちのうちに三小葉と五小葉の混在する低い背丈の木本となる。そこから無数の蕾が純白の五弁花を咲かせ、半分程が大粒の赤い野苺の実を実らせたところで、エストが小さく口笛を吹いた。
「へー、野苺かあ。 珍しいよね、初めて見た」
貴花の中でも最上位に値する百合の《花》持ちであるエストから、まさか雑草の野苺をそのように評される日がこようとも思わず、ルーナリーアは身を縮めて恐縮するばかりである。
対して門番の騎士はと言えば、身分証からも生み出した《花》からルーナリーアが雑草である事は分かっている筈だが、嘲笑に表情を変える事も無く丁寧な仕草で敬礼を返した。その横手をエストが気軽に通り過ぎて行くことからして、どうやら通行許可は下りたらしい。
門番の騎士へ軽く頭を下げると、生まれて初めてルーナリーアは自らの住まう帝国で最も中枢に当たる場所へと足を踏み入れた。
◇
その場所は、まるでこの世の楽園を思わせた。
ローズ、リリー、ハイビスカス、ラベンダー、マーガレット――季節も様々な花達が、甘くも清涼な香りを振りまいている。ジャスミン、サンフラワー、ガーベラ、カーネーション、アネモネ……視界に納まるだけで数百はあろうかという花達は皆、自分の生を誇らかに謳っていた。
一体どのような原理なのかルーナリーアには知る由も無いが、“花皇宮”のあちらこちらで花開く色とりどりの花弁は、本来の季節に関係なく満開の様相を見る者に与えている。
公共の場所などに良く掲げられる、創世の神エトが花から人を成す様子を描いた光景と良く似ている。美しくも慈母の微笑を湛えた創世の神の周囲を咲き誇り飾る沢山の花々。エトが手を差し伸べる先では、花に囲まれて目覚める二人の男女――ルーナリーア達の遠い、遠い最初の祖先と言われる“最初の二人”……
「ルーナちゃーん、こっちこっち」
「あっ、…ごめんなさい!」
余りに幻想的な光景だった為、時間を忘れて見惚れていたルーナリーアは、エストの声ではっと我に返った。正面に聳え立つ大円蓋からやや北西側に伸びた石畳の道上に、エストが籠を持ったまま片手を振っている。田舎者丸出しのような気がして恥ずかしくなりながらエストに駆け寄ったルーナリーアだったが、温和な表情の中に優し気な色が浮かんでいるような気がしたのは思い違いだろうか?
「綺麗だよねえ、ココ。 俺も良くは知らないんだけどさ、“最初の二人”の血を引いてる王花は全ての花から愛されてる――だから、“花皇宮”はいつも色んな花が咲いてるって噂だよ?まあ、単に《花》持ちが居るのかもしれないけど」
「そうなのですね……私は、王花の方々に咲く花のほうが…夢があって素敵だと思います」
返答が可笑しかったのか、少しばかりの含み笑いを見せるエストへルーナリーアも笑い掛けた。
“花皇宮”の内宮は不思議な雰囲気が漂っている。見る全ての者に癒しと安らぎを与えるような、ずっと以前にも感じたことのあるような浮き足立つ感覚。
それは、至る所でそよぐ欅の梢が齎す緑の木陰がそう感じさせるのかもしれないが、心地の良い景色である事に変わりはない。
周囲は何処を見渡しても美しい景観に溢れている。
それらを楽しんでいた為、欅の緑陰に佇む美丈夫にルーナリーアが気付いた時には、既に二人は軽快な遣り取りを繰り広げていた。
「矢張りな……抜け出していたか。 勝手に出るなと言っているだろう」
「やっだなー、我等の姫君をお迎えに行っていた騎士って言ってくださいよー」
「……」
低い声で忠告をする男性に対し、返されたのは余りに軽薄なものであった。
深く、澄み渡る海のような美しい青の瞳を細めて沈黙を落とす男性は昨日とは異なって白銀の甲冑を身に着けておらず、エストと同じシンプルなシャツとボトムスという佇まいだ。それでもすぐに常人とは明らかに異なる風格と威厳を感じられるのは、深い理性に揺らぐ藍方石を思わせる瞳故だろうか。
その瞳がルーナリーアへと向けられると、途端に鼓動が跳ね上がる。
《薔薇の騎士団》の団長である“青騎士”の男性は、そんな様子に気付いたのか、極僅かであるが目元を綻ばせた。
「すまない、部下が迷惑を掛けた。 わざわざ足労頂き、感謝する」
「いいえっ…!こちらこそ、お伺いするのが遅くなってしまい…申し訳ありません」
巨躯、と言って差し支えない男性が深々と頭を下げ、それに慌ててルーナリーアも頭を下げる光景は一種奇妙なものに映ったに違いない。対して、話題に上る金髪の騎士はといえば、ルーナリーアを預けて満足したのか、いつの間にやら姿が見えない。
背を伸ばした“青騎士”――ケインスは、ぐるりと周囲に視線を巡らせ、二人以外に誰も居ない事を察すると、今度こそ深々とした溜息を吐き出した。
「…最後まで案内するのが普通だろう…。 本当に申し訳ない…迷惑かもしれんが、此処からの案内は私でも良いだろうか?」
「迷惑なんて…! はい、よろしくおねがいしますっ」
雑草であるルーナリーアにも、変わらずに接してくれる高位の《花》持ちは一体何人いるのだろうか。事情があったといえ、自宅まで迎えに来てくれた金髪の騎士といい、深い青色の瞳をどこか申し訳なさそうに細めて見下ろしているこの男性といい、《薔薇の騎士団》の騎士は差別というものをせず、平等に接してくれる。
そしてなにより、この男性の傍は酷く心が落ち着く事に気付いたルーナリーアは、心臓の音が煩く鼓動を刻む胸元に、そっと掌を宛がった。
「ならば行こう。 放っておくと、エスト(あいつ)が全部食べかねない」
「ふふ……はい」
エストと異なって余り大きく表情を変えないケインスだが、生真面目そうな顔で紡ぐ言葉には冗談半分といったものが感じられた。そのままゆったりと歩き始める逞しくもしなやかな背中へ、ルーナリーアは綻ぶような笑みを浮かべ、両手で金髪の騎士から渡された百合の花を大切に抱えると、小走りで美しき花々の合間を歩き始めた。