薔薇の騎士達 1
《薔薇の騎士団》と言葉を交わし、更には焼き菓子を持って行く約束までしてしまい一生分の幸運を使い果たしてしまったのではないかとすら思われた昨日。
あれから、早々に寝床へ潜ったにも関わらず逸る心を抑えられず、一睡も出来なかったルーナリーアは太陽が昇る随分と前にそれ以上の睡眠をあっさりと諦めた。眠れない時に飲むハーブティーの茶葉が入った缶の代わりに戸棚から取り出したのは、小麦や普段使うものとは異なる、“特別な時”に使う為に取っておいた、高級な砂糖、バターにミルク、卵などの製菓用のものだ。
いつも作る量の軽く倍以上はあるそれらを見下ろして、腕まくりをしたルーナリーアは時間をかけて幾種類にも及ぶ焼き菓子を作り始めた。
基本のクッキーに硬い触感が楽しいビスコッティ、フィナンシェとマドレーヌ。バターたっぷりのスコーンには手製のジャムやクロテッドクリームを挟んで、忙しい騎士でも立って手軽に食べられるように一つ一つ薄紙で包んでいる。ドライフルーツをふんだんに混ぜたパウンドケーキが焼きあがる頃、もしや甘いものが苦手な騎士もいるかもしれない……などと思い立ち、バジルと塩で味付けをしたものと、チーズを混ぜたクッキーを追加で焼き上げた時には晴天の空に浮かぶ太陽はもう随分と高い位置で燦々と輝いていた。
「いけない、そろそろ行かなくちゃ!」
おおよそだが、もうそろそろ昼に差し掛かる頃だろうか?
作る事に夢中になってしまったせいで、時間を忘れて届けられなかった、などとなっては本末転倒である。オーブンの中で香ばしくも甘酸っぱい匂いを漂わせるのは自宅の壁面でたわわに実る野苺を使用したベリーパイだ。
焦げ目もなく、綺麗な狐色に焼けたパイを見て満足気に一人頷くと、大きめの籠へ順序良く納めてゆく。のだが。
「……作りすぎちゃったな…」
一つ一つは別段そう重量がある訳ではない。
だが、ルーナリーアが気合を入れて作った焼き菓子の量は、幾らなんでも女の細腕で抱えて持っていくには無理のある量過ぎた。
帝都ルシュタンブルの中央に悠然と佇む“花皇宮”。その一角にある騎士団の詰め所へ行くには、雑草であるルーナリーアが住む区画からは決して近いとはいえない。徒歩であれば軽く一時間近くはかかるその道程を考えると、惜しい事ではあるが減らさざるを得ないだろう。
《薔薇の騎士団》団長であるあの男性は“依頼”だと言ってくれたが、ルーナリーアにとってはお礼に他ならない。だからこそできれば沢山、持って行きたかったのに――そんな思いから、微かな嘆息を一人の空間へ零しながら籠の中身を減らし始めた耳に届いたのは、硝子を何かが軽く叩くような音だった。
「……?なに?」
コン、コン、と何処からか響く軽やかな音。
音の出所と思わしき場所へ視線を持ち上げたルーナリーアは、思わず頬を綻ばせた――外に繋がる窓の外、窓枠に佇んで可愛らしい嘴で硝子を叩いている白い小鳥の姿があったのだ。
すぐさま慌しく玄関から外に飛び出す。警戒心の強い普通の野鳥ならそれだけで飛び去ってしまいそうなものだが、この白い小鳥は、むしろ慣れた様子で窓枠から飛び上がると躊躇いもせずにルーナリーアが差し出した指先へ着地した。
「こんにちは、スノウ。 今日も元気そうで嬉しいわ」
笑うルーナリーアに合わせ、まるで小鳥も笑うようにチチッと囀りを軽やかに返す。
この小鳥は数ヶ月前に怪我をして飛べなくなっていたところを、ルーナリーアが保護した鳥だ。息も絶え絶えであった小さな命が、空を自由に飛べるまで面倒を見た事から恩を感じているのか、人間の手から野生へと返した筈の白い鳥は、ほぼ毎日のようにしてルーナリーアの自宅を訪れるようになった。
例え言葉が通じなくとも毎日姿を見せてくれるこの鳥はルーナリーアにとって掛け替えの無い存在だ。 時折、嘴に挟んで持ってきてくれるものが野に咲く小花ならまだしも、やせっぽちのルーナリーアに栄養をつけさせる為なのか、虫やミミズなどを持ってくる日には残念ながら閉口してしまうのだが。
スノウという名前はルーナリーアが付けた。
新雪のように真っ白な翼を持ち、怪我が治ってから初めて青い空を元気に飛んだあの光景。ふわりと舞った淡やかな羽毛がまるで雪が降るように舞い踊るあの景色は忘れられない。
成長期らしく、記憶の中の小鳥に比べて翼も大きく、重量も増した存在は、野生でもスノウが強かに生き延びている証のようで好ましく、真白き存在を見下ろす若葉色の瞳も酷く穏やかであった。
「スノウ、今日は“花皇宮”へ行くのよ。 あんな場所に行くのは生まれて初めてだから、何か失礼をしないと良いのだけど…」
チチ、と声を震わせて首を傾けるスノウへ、ルーナリーアは少しの期待と不安に満ちた独り言を漏らす。あの場所は帝国の中心にも等しい場所だ。雑草であるルーナリーアが普通なら入る事すら侭ならない場所である事も理解している。
だからこそ、期待と不安が綯い交ぜになるのは些か仕方の無い事であろう。“ルーナリーア・ミストレル”の名で入れるようにしておく、と、あの“青騎士”は言っていたが、門前払いされたらどうしよう……そんな気持ちに心が翳ったのと、春の陽気を思わせるような、朗らかな声が響いたのは同時であった。
「ルッナちゃーん、むっかえっにきったよーん」
「えっ…!」
納まりの悪い金色の髪から覗く、悪戯っ子のような琥珀色を湛えた柔らかな瞳。
すらりとした体躯は簡素なシャツと黒いボトムス、ブーツ姿に包まれている。一見すると下町で良く見る青年のようだが、其処に佇んで居たのは紛れも無く昨日は白銀の甲冑に身を包んでいた《薔薇の騎士団》に所属する男性であった。知らぬ人間に驚いて天高く飛び上がった小鳥の存在も忘れ、旧来の友人のように笑顔を湛えて近付いてくる男性へルーナリーアは目を丸々と見開いて居る筈のないその人を見上げるばかりだ。
なぜって、ルーナリーアは自宅の場所を教えていないのだから。
「あのっ、エスト……さん?どうしてここが…」
直接名乗られた訳ではないが、昨日漏れ聞いていた男性の名をそろそろと呼んでみたルーナリーアに返されたのは満面の笑顔。とても整った容姿ではあるが、どこか人懐っこさを感じさせる親しみ安いそれを浮かべる男性が、帝国随一の騎士団に所属する一人だとはとても思えない。
そして、この男性こそが《薔薇の騎士団》副団長にして、戦闘時には“瞬光”とも呼ばれ恐れられる斬り込み隊長だという事を、当然ながらルーナリーアは知らなかった。
「そういえば、ちゃんと挨拶してなかったね。 エストは愛称で、俺はエルネスト・オリオール。エストって気軽に呼んでね、ルナちゃん」
「は、はあ…」
にこにこと笑顔を崩さず、それでいて有無を言わさずにルーナリーアの手をエストが包み込み、半ば強制的な握手を求められると、圧倒された声しか最早唇からは零れ落ちぬ。面食らい、目を白黒とさせるルーナリーアだったが、突如として真剣に瞳を尖らせるエストへ無意識に背を伸ばした。
「本当は良くないんだろうけど、緊急事態だったからキミの名前と容姿を尋ねて、近所の人から教えて貰ったんだ」
「緊急事態…」
昨日から柔らかい表情しか見せなかった男性が、急に真剣な表情になると凄みがある。
途端に心臓が激しく脈打ち、微かに言いよどむ男性へ固唾を飲みながら佇むルーナリーアを見ると、エルネストは神妙に頷いて見せた後、至極厳かな声を吐き出した。
「そう……君の到着を待ち侘びて、みんな訓練にならないんだ。 だから迎えにきちゃった」
「…えっ」
語尾にてへっ、の擬音が聞こえてきそうである。
すわ一大事かと気を尖らせていたルーナリーアは、余りの肩透かしに唖然とした声を上げるしかなかった。確かに今日騎士団の元を訪れる話にはなっているが、たかだか雑草の作る菓子よりも、余程美味しいものが“花皇宮”にはあるはずなのだが…。
そんな疑問が顔に出ていたのだろう。天に突き立てた人差し指をチッチッと軽く左右に振ったエストは、何故か得意気に背を逸らした。
「内政に励む方々はどうだか知らないけどさ、俺達騎士の食事って結構ヒドいもんなんだヨ? まあ、貴花や稀花でも、剣と力を選んだんだから仕方ないっちゃ仕方ないんだけどね。当然、甘いものもそんなに食べられる訳じゃないから、昨日ルナちゃんのお菓子食べたヤツがさ、めっちゃ美味しかったって言いふらすもんだから皆気になっちゃって」
「…そうだったのですね、ごめんなさい、準備に手間取ってしまいまして…すぐ、取ってきますね」
目を瞑らなくとも、鮮やかに思い出せる。
深い澄んだ海のような色の瞳。人の心を柔らかく包み込む、低く穏やかな声。
“青騎士”と呼ばれる男性が言っていた干し肉やスープの話は謙遜だとばかり思っていたが、あながち間違いではないらしい。とてもありがたい事ではあるが、もしも本当に《薔薇の騎士団》の人達がルーナリーアの到着を心待ちにしてくれているのなら、一刻も早く向かうべきだろう。
エストへの礼もそこそこに、ルーナリーアはあたふたと身を翻して自宅へと駆け出した。幸いな事に、持って行く予定だった焼き菓子達は籠の中に殆ど納められており、あとはそれを持って金髪の男性の元へ行けば良いのだが――
「うわ、超良い香りー……って、あれ? それ、置いてっちゃうの?」
「あ、はい…その、作りすぎてしまって…持てないのです」
「あーナルホドね。 大丈夫だよ、俺全部もってけるから入れちゃえ入れちゃえ!」
開け放した侭であった戸口から零れるような金の髪を揺らし、中を覗き込んだエストが持ちきれずに置いて行かれようとしていた焼き菓子達を見咎めると、何やら酷く気恥ずかしい心地を覚えてルーナリーアは身を縮めて見せた。
それに対して、あっけらかんとした声を返したエストは、「おじゃましまーす」とのほほんとした声で室内に足を踏み入れ、既に準備の整った籠とは別に机の上へ置かれていた空の籠へ残りの分をぽいぽいと納めてゆく。
わざわざ帝都の中心に存在する“花皇宮”から、帝都の端に位置するルーナリーアの自宅まで迎えに来てくれただけでも申し訳ないというのに、帝国を守護する騎士に荷物持ちのような事までさせては罰が当たるような気もする。だが、籠の中を覗き込みながら口元を綻ばせる横顔は騎士というより、ルーナリーアと多少年の近い青年のようで親しみやすく、何より重量のあるものを持って足並みが遅くなるよりは良いだろうと思い至り、結果として荷物持ちを任せる事にした。
「さって、これで全部?」
「はい。 申し訳ありませんが、よろしくおねがいします」
「あはは、ルナちゃんって真面目だよねえ。 こんなの重いうちに入らないから、気にしないで」
早くから起き出して作ったものは、全て二つの籠の中に納まった。
ぱっと見は細身の青年で、流石に重いかもしれないと思ったが、軽々と持ち上げて全く重さを感じさせない佇まいは、騎士として鍛えられた結果なのだろう。“花皇宮”への道程を任せる為、深く頭を下げたルーナリーアに対して、エストは朗らかな笑みを湛えて見せる。おどけたようにして籠を上下に軽く揺らしてみせる姿などは余裕すら見えてしまう。
「それじゃ行こうか、《薔薇の騎士団》は結構騒がしいけど、目を瞑ってくれると嬉しいなー」
琥珀色の瞳をきらりと輝かせ、帝都の中央に佇む“花皇宮”へ向けて歩き始めた青年の背後を小走りで追従しながら、謙遜だろうと受け流した言葉が真実であったとは、この時のルーナリーアが知る由もなかった。