雑草(セリエ) 3
陽光に照らされて輝く瞳は、 藍方石を思わせる。
深く、それでいて見るものをはっとさせるような鮮烈な青を宿していた。そんな切れ長の瞳が、何か考え込むように少しだけ細められたような気がした時には、全身に身に纏った甲冑の重さを全く感じさせない動きで軽やかに馬上の存在は石畳へ足を付けている。
生まれてから一度も甲冑を着た事の無い身には全く分からないが、訓練の賜物なのか、不思議な事に金属が奏でる煩わしい余計な音は殆ど立たない。
最初に声を掛けてくれた金髪の男性も長身だったが、静かにたゆたう青の瞳をじっとルーナリーアに注ぐ男性は更に身長が抜きん出ている。それでいて、長身の男性に多い鈍重さは甲冑を身に着けていても分かる鞭のように締まった身体で毛ほども感じられぬ。
不思議な事に、高位の《花》を持つ男性とこんなにも近しい場所で相対した事など全くといって良い程無いルーナリーアにはこの男性から威圧感が感じられない。普通なら、位も高く、美丈夫で、腰に剣を下げている男性が間近で見下ろしているという状況なら、大いに緊張してしまう筈なのだが。
寧ろ、深く澄んだ水中を覗き込んでいるような心地の良い錯覚に陥って、ルーナリーアは魅入られたように《薔薇の騎士団》の団長である男性を見上げ続けた。
「あー。 団長だって降りてるじゃないっすかー」
「………」
《薔薇の騎士団》を纏める団長を前にして怖いものなしなのか、それとも生来の性格なのか。
エスト、と呼ばれた金髪の騎士がのほほんとした生温い声で横槍を入れた。それに対して、黙然と青い視線だけを緩い笑み湛える男性へ向けても、態度が改善される様子は微塵も感じられない。
きっと日常茶飯事に違いない。「きゃー、こわーい」などと業とらしく震えて見せる金髪の騎士へ一つ、極々小さな嘆息を零す団長はどこか諦観しているようにも感じられる。
「……怪我を?」
誰よりも間近で二人の遣り取りを見ていたルーナリーアだが、まるで硝子を通して別世界を覗き込んでいる心地だった為、余りにも唐突な問い掛けに理解が追い付かず、目を瞬かせた。
聞く者の心をそっと撫でる水面のように凪いだ、低く穏やかな声。心を見透かされそうな程に青い光彩がルーナリーアをひたと見据えて、辛抱強くもう一度、ゆっくりと言葉を生み出す。
「泣いている。 怪我をしているのか」
「――あっ…!いっ、いいえっ、怪我ではないのです!…すぐ失礼します!申し訳ありません…!」
先程の問いかけは自分に対してのものだったと理解するや否や、ルーナリーアは《薔薇の騎士団》を足止めしている事を思い出してみるみるうちに顔色を青ざめさせた。たかだか雑草の小娘一人に、帝国随一と名高い《薔薇の騎士団》を足止めさせる権利など、一分たりとて無い。
頬を伝う涙は大慌てで服の袖を使って拭い、本日何度目かになるかも分からない謝罪を引きつった喉から押し出すようにて吐き出しながら、ルーナリーアは深く、深く頭を下げた。
あの青い瞳ともう一度目を合わせたら、泣いてしまう――何故か沸き起こった予感に、それ以上顔を上げる事が出来ず、俯いた侭籐籠へ商品を黙々と入れていたルーナリーアは、白銀の甲冑に青い薔薇の紋章を抱く男性が藤籠の中にある“焼き菓子の袋についた靴の跡”を、じっと見ていた事には気付かなかった。
そして、やや表情に乏しい精悍な顔付きの眉が、微かに寄せられていた事にも。
「…その籠を、貸しては貰えないだろうか」
「え? あ、は、はい…」
石畳に転がした品々を全て回収し、身を縮めて恐縮しきりといった様子でルーナリーアが立ち上がったその時。まるでタイミングを見越したように篭手に覆われた手が差し出された。
なぜ、と思う暇も無く、条件反射のように藤籠を差し出したルーナリーアは、白銀に輝く篭手から覗く黒い手袋に覆われた太い指先が藤籠の取っ手を掴む様子を、ただ目を白黒とさせて眺めるばかりだ。
焼き菓子自体は軽いものの、藤籠の中にはたっぷりのジャムが詰められたビンも幾つか入っている。ルーナリーアが片手で持つには身体が傾いてしまう程の重さの筈だが、それを受け取った男性は片手で軽々と籠を持ち上げて中を覗き込んでいるところは、やはり男女の違いだろう。
それにしても、一体なにをしたいのだろう?
良く状況が飲み込めず、若葉色の瞳をさかんに瞬かせるルーナリーアの視界には、至って静かに籠の中を見る《薔薇の騎士団》団長と、その横からひょっこりと顔を出して一緒に中を覗き込んでいる金髪の騎士が映し出されていた。
売り物にならなくなった焼き菓子とジャムが入っているだけで、《薔薇の騎士団》に献上できるようなものは何一つ入っていないのだが…。
深い青色の瞳は、何を考えているのか良く分からない。
微かに眉が寄っているところからして、もしかすると売り子をしていた事が不興を買ったのかもしれない。雑草の売り子さえいなければ、とっくに《薔薇の騎士団》は“花皇宮”がある中央区画まで行っている筈なのだから――そう思い至って、暗澹たる心地で表情を暗くしたルーナリーアは、次の瞬間、元々大きい瞳を零れ落ちんばかりに大きく見開く事になった。
あろう事か、《薔薇の騎士団》を率いる団長にして、ルーナリーアよりも遥かに《花》の地位が高い男性は、落下した衝撃で少々形の崩れた焼き菓子の一つ、マドレーヌを親指と人差し指で摘み上げたと思いきや、何の躊躇いもなく口に放り込んだのだ!
「あ、いいなー! 俺も俺もー!」
それを見た金髪の騎士は、団長の行動を制止するどころか、暢気にも羨ましがっている。
余りの事に思考を停止させたルーナリーアを他所にして、藍方石の瞳を緩やかに細めた男性はといえば、唇を尖らせ抗議する金髪の青年へ藤籠をそのまま手渡してしまった。
「ひゃっほー野郎ども、戦利品だーっ!」と大喜びで後方に待機していた騎士達の傍に金髪の騎士が走り寄ると、今の今まで一糸乱れぬ佇まいを見せていた筈の、誉れある《薔薇の騎士団》の騎士達は激しい争奪戦を繰り広げ始める。その姿は下町でじゃれあう若い少年達そっくりで、薔薇の紋章が刻まれた甲冑を身に着けていなければ、とてもではないが彼等が《薔薇の騎士団》だとは到底思えない騒がしさだ。
「騎士様!いけません、それはっ……――」
くらくらと眩暈すらしていたルーナリーアがようやく自分を取り戻し、慌てて声を上げた時には既に手遅れであった。恐らくは勝者と思わしき騎士達が幾人か、酷く満足そうに唇を舐めている。
嵐のように持ち去られた藤籠が、再び金髪の騎士によってルーナリーアの手元に戻ってきた時には手品でも掛けられたかの如く、籠の中身は見事に空っぽである。流石にジャムの瓶まで食べる事はないだろうから、きっと誰ぞの懐に納まっているのだろうが……問題は既に胃袋へ入ってしまった焼き菓子だ。
帝国の騎士団に入団できるのは、端麗花以上の《花》を抱いて生まれた者だけだ。
その中でも特に、《薔薇の騎士団》に所属する騎士達は貴花か、世界中を見ても非常に数の少ない稀花だけが許されている。つまり、全員が貴族なのだ。
そんな彼等に、地面に落ちた菓子を食べさせてしまったルーナリーアは最早顔面蒼白である。不敬罪、殺人未遂――牢に入れられても、弁明のしようが無い。
まったく、今日は何という日だろう。
一度は引いていた筈の涙腺が再び緩み、視界がぼやける中で見た“青騎士”は少しだけ笑ったように見えた。
「…ああ、済まない。 何分、干し肉や不味いスープばかりで辟易していたから…とても良い香りで、思わず食べてしまった」
「……え?」
海の中のような、深い青色の瞳に優し気な色が過ぎった気がしたのは気のせいだろうか。
些かワザとらしく背後の騎士達を振り返り、再びルーナリーアに戻された時には、乏しめな表情ながら口角には緩やかな弧が描かれていた。
“青騎士”と呼ばれる男性も、金髪の騎士も、そして背後で待機している騎士達も、今口にしたものが、一度石畳に落ちて売り物にできなくなったものだという事は分かっている筈だ。だというのに、ルーナリーアの片手をそっと篭手に包まれた大きな手が掬い取り、掌へ金色の硬貨を握らせながら“青騎士”が見せた表情は、何処か済まなさそうなものだった。
「私の部下達も、甘いものには目が無くてね…これで足りるだろうか?」
「そんな、これでは多すぎます…!それに、あれはもう売り物にはならないものです」
金貨一枚と言えば、今日ルーナリーアが作った全てのジャムと焼き菓子を全てをあわせたとしても、銀貨一枚に届くかどうかだというのに、これでは明らかに多すぎる金額だ。そもそも、既に売り物ですらなかったものに対して高い金額を受け取る事は、ルーナリーアにはどうしてもできなかった。
「いけません騎士様、これは頂けません…!」
必死に首を振り、金貨を返却しようとするルーナリーアを見下ろす“青騎士”の眼差しは柔らかい。それでも、一度渡した金貨を騎士は決して受け取ろうとはしない。
だがそれは、ルーナリーアも同じ事だ。身に余る程の金貨を返さなければ気が済まない――そんな頑なな決意が表情に表れていたのか、不意に騎士は深い青色の瞳を細めてみせた。金髪の騎士と違って、大きく表情を変えないこの騎士が度々見せるこの小さな変化が心境を表しているのだろう。しかしながら、出逢ったばかりのルーナリーアには推し量る事はできず、怒ってはいないらしいと推測するのが精一杯だった。
「ならば。 一つ、頼み事をしよう。 その依頼分だと思ってくれ」
「頼みごと…ですか?」
雑草の売り子が、《薔薇の騎士団》筆頭から依頼を受けるというのも何の巡り合わせか。
所詮は非力な女一人、一体何が出来るというのか。微かに首を傾げたルーナリーアへ首肯を贈り、頭二つ分近くも下にある若葉色の瞳を見下ろす藍方石の目には、穏やかな水のような静けさが溢れていた。
「明日、君さえ良ければだが……美味いものを食べられなかった部下達に、菓子を届けてくれないか。 金貨は、その材料分だ」
「……!は、はいっ、私のものでよろしいのでしたら…!」
材料分に充てたとしても、過ぎる程の金額が残る。
だが、貴花かそれ以上の《花》持ちである筈の“青騎士”が、雑草であるルーナリーアと対等であろうとしてくれた事はルーナリーアにも感じられた。それに、これ以上の拒否をしては逆に矜持を傷付けてしまうだろう。
だからこそ、銀色の睫毛を一度伏せてから、雑草の乙女が“青騎士”へと向けたものは満腔の笑みと首肯だった。
「有難う、明日が楽しみだ。 ああ、挨拶が遅れてしまった…私は、《薔薇の騎士団》の団長を務めている、ケインス・ヴォルディア・アイヴァーン。 差し支えなければ、貴女の名を伺っても?」
「ルーナリーアです。 ルーナリーア・ミストレル」
「そうか。 では明日、貴女の名で門を通れるようにしておく…さあ、もう行きなさい」
そう言って平坦だがどこか優しい響きで促す“青騎士”から、ふわりと空気に乗って微かにルーナリーアの鼻腔を擽る香り。透明感があって仄かに甘く、ついつい意識してしまう香りは“青騎士”のものだろうか?
もう少し、この男性と話していたい欲求をそっと胸の奥に仕舞い込み、深く、深く“青騎士”の男性へ頭を下げた後、これ以上《薔薇の騎士団》の邪魔をしないように走り去るルーナリーアの表情は、とても晴れやかで、明日への期待に満ち溢れていた。
◇
華奢な身体を軽やかに翻し、駆け去って行く乙女からは仄かに甘い香りがした。
焼き菓子の香りではない。そう強い香りではないというのに、意識せずにはいられない優しい香り。惹き付けて止まない、芳香。
「ああ、成程…」
美しく白い毛並みの愛馬に跨り、“花皇宮”への街路を再び歩み始めた“青騎士”の男は、ふと普段は滅多に浮かべる事のない明瞭な笑みを口許に刻む。
若葉色の潤んだ瞳を見た瞬間に抱いた想いは、間違いではなかったらしい。
「明日が超楽しみっすねー!」
傍らに並ぶ《薔薇の騎士団》“副団長”であるエストの何とも軽い言葉は普段なら窘めるが、ふ、と微かに吐息を唇から零した“青騎士”のケインスは、誰にも聞こえないような小さく低い声で返答を返したのだった。
「……そうだな、楽しみだ」
グーグル先生等で検索できる方は、ぜひ藍方石を検索してみてください。とても鮮やかで青く、貴重な宝石です。