雑草(セリエ) 2
ルーナリーアが住む“ユルドゥーズ帝国”の帝都ルシュタンブルは、簡単に言ってしまうと六角形の形をしている。
王族の住まう“花皇宮”を中心として放射状に六本の大通りと呼ばれる主要な道が伸びており、それぞれの大通りを繋ぐ横道が幾本も繋がっている。
重要な区画や施設などは別として、帝都の中を移動する事自体はどんな《花》持ちであっても自由だが、《花》持ち達は位の高いものが中央に、より位の低い者は外周に住むことを義務付けられ、位の低い者が位の高い者の区画に居ても良い事はない。各区を警備する兵に、塵でも掃除するようにして追い出されるのが関の山だろう。
その為、パン屋の仕事が休みの日にルーナリーアが自分の作ったものを売りに行くのは、雑草と普通花が主に住む区画と、全ての《花》持ちが居る事を許されている大通り周辺だった。
◇
「ジャムを二つと、この…黄色い花を一束頂けるかしら?」
「私はこっちの白い花と、ジャムは一つね!」
「はいっ、ありがとうございます…!」
自作のジャムや、時間がある時にはクッキーなどの簡単な菓子を売るようになって約一年。
エリヤが結構な頻度で売り子を手伝ってくれている事もあって常連客も多くなり、ルーナリーアの作ったジャムや摘んだばかりの瑞々しい花達は大抵昼過ぎにはなくなってしまう。
早く目が覚めてしまった為、今日はジャムの他にも焼き菓子を数種類準備して籐籠一杯に家から持ってきたのだが、年若い二人の女性へそれぞれ品物を手渡した後に覗き込んでみると、半分以上が既に売れているようだ。
そろそろ昼も近い。この調子なら売れ残る事はなさそうだ。
ジャムに使う砂糖や、焼き菓子の材料も雑草であるルーナリーアにとって、無駄に出来ない貴重品だ。焼き菓子は多少日持ちするとはいえ、矢張り売れ残ってしまうのは懐具合的にも一生懸命作った身としても物悲しい気持ちになる為、籠の中を覗き込むルーナリーアの表情はほっとしたものである。
それにしても、とルーナリーアは視線を周囲に巡らせた。
今日は“花皇宮”から伸びる大通りのひとつ、ウィンザー通りに来ている。
この大通りは若い女性向けの衣服店や小物、雑貨を取り扱う店舗や露店が多く、当然道行く人々も女性が多い通りだ。だからこそ、良く売れるのだが。
通常でも女性を含めて活気に満ちた通りではあるが、今日はとりわけ女性が多い気がするのは気のせいだろうか?
大通りの左右に軒を連ねる大小さまざまな店舗は、外から見る限りどこも閑古鳥が鳴いているようだ。だというのに、赤煉瓦で造られた石畳の街路には沢山の女性達がまるで何かを待っているかのように、期待に満ちた目で郊外の方角を熱心に見つめている。
普段雑草や普通花、端麗花が殆どである区画だというのに、貴花と思わしき見るからに良い地位持ちそうな上品な衣服を身に着けた淑女達もちらほらと散見される。 貴花は自尊心が高く、下位の者の区画には余り近寄らない筈なのだが…。
よほどの事であれば、例え雑草であるルーナリーアでも触れが来る為に分かるので、帝国中の人間に関わるような一大事ではないらしい。
もしかすると、最近噂になっていた人気の旅芸人か、歌声に色気があって大層美しいと話題の吟遊詩人が巡業に来るのかもしれない。恋愛事とは無縁な生活を送ってきたルーナリーアとて、そういった話題を好まない訳ではないし、王子様とお姫様のような物語に出てくる素敵な展開を夢見ない訳でもないが、ルーナリーアにとって何が来るかもわからない時を待つのではなく、わざわざ買いに来てくれるお客さんのほうがよっぽど大切だった。
「ジャム、ありますか…?」
軽くスカートを引っ張られる感触に振り返ると、小さな少女がおずおずした様子で佇んでいた。
家族から遣いを頼まれたのか、紅葉のような手にはしっかりと硬貨が握り締められている。きちんと買い物できる事を示したいらしく、その硬貨を見せるように小さな掌を少女はめい一杯広げて見せた。
「大丈夫、まだジャムはあるわ。 いくつ?」
「ひとつ、ひとつくださいっ」
「…はい、どうぞ。 これはお姉さんからのおまけよ、お家で食べてね」
少女と視線を合わせるようにしてしゃがみ込み、硬貨と引き換えに野苺で作ったジャムの瓶を手渡すと、達成感からか幼い顔は此方が微笑ましくなる程に綻んだ。売り物である焼き菓子の入った子袋をオマケとして差し出した時に益々嬉しそうな笑みを浮かべ、「またくるね!」とたどたどしくもお礼を言いながら駆けてゆく背中は何よりもルーナリーアが好むものだ。
自分の作ったもので、少女や少女の家族が少しでも笑顔になってくれるのなら、冥利に尽きるというものである。
籠の中は数個のジャムと焼き菓子が五つ程残っているだけだ。
早く売れてしまうようなら、明日も多めにジャムと焼き菓子を作っておこうか――嬉しい誤算にルーナリーアが口許を綻ばせた時、郊外の方向から風に乗って黄色い声が漂ってくる事に遅まきながら気が付いた。
スカートの裾を軽く払いながら立ち上がると、ルーナリーアの若葉に似た瞳は好奇心で輝きを増す。
やっぱり、気になってしまう。売り物も少ないし、少し様子を見てみよう。
そんな出来心から、街路沿いに近付いたのがいけなかった。
「あ…っ…!」
「――きゃあ!」
はっと気付いた時には既に遅く、街路を横切ろうとした人物と身体が衝突してしまったのだ。
ルーナリーアの手から藤籠が石畳に落下し、瓶が重い音を立てて転がってゆく。焼き菓子の入った子袋も乾いた音を立てて殆どが石畳に落ちてしまったが、ぶつかった相手に怪我はなかっただろうかと顔を上げたルーナリーアは、身体を駆け抜けた戦慄に立ち竦んだ。
「どこを見ているのよ! お父様から買って頂いたばかりの日傘を落としてしまったじゃない!」
年の頃はルーナリーアと余り変わらないか、一つか二つ程上のようだ。
新雪のように白く、良く手入れをされた滑らかな肌。自分で仕事をする必要が無く荒れた事のなさそうな艶やかな指先。身に纏う衣服は素人が見てもそれと分かる程の高級品ばかり。
すっと持ち上がった眉と切れ長の瞳が少々きつい感じもするが、十分美人の部類に入るだろう。恐らくは貴族か、それに近しい地位の《花》持ちだ。
穏やかに微笑んでさえいれば、絵画に出てくるような深窓の令嬢を思わせる女性だ。だが今はきっと眉を吊り上げてルーナリーアを睨みつけており、刺々しさを明瞭にしている。
「申し訳ありません…! 前を見ておりませんでした…」
先程の衝撃で女性の手から転げ落ちたらしい、石畳の上には白いレースの刺繍がふんだんに施された日傘が転がっている。ルーナリーアは慌ててそれを拾い上げ、開いた傘を閉じてから柄を女性へ差し出したが、それは上流階級と思わしき女性にしては乱暴な手つきで奪い取られてしまった。
「たかだか下流の《花》持ちが、貴花のものに軽々しく触らないで頂戴!」
鈴を振るような声には、今や悪意が滴っていた。
だが、それも致し方のない事かもしれない。上流階級の《花》持ちが、下位の《花》持ちを嫌悪するのは今に始まった事ではないし、ぶつかってしまったルーナリーアにも勿論非はある。怪我などさせていた日には、例え此方が悪くなかったとしても牢屋に放り込まれる事だってあるのだから。それほどに、地位というものは大きな隔たりとしてルーナリーアの前に立ち塞がっていた。
石畳に転がっている商品を拾いもせず、必死に頭を下げるルーナリーアへ多少は溜飲を下げたらしい表情をしていた女性は、ふと艶やかな唇を嘲笑の形に歪めた。
「……あら、貴女。 なあに、売り子なんてして…雑草?」
「っ……はい…」
目には見えない刃を突きつけられたような気がして、ルーナリーアの肩が微かに揺れる。
思わず視線を地面へと落とし、軽く俯いたルーナリーアの視界へ次の瞬間映りこんできたのは、ふわりと風に柔らかく揺れる上質なスカートと、そこから伸びるブーツを履いた細い足が石畳に落ちた焼き菓子を勢い良く踏みつける光景だった。
「あ……」
「なによ! 雑草ごときが、私の前に現れないでよね!」
「…もうしわけ、ありません…」
落としてしまった焼き菓子は勿論売り物にする事はできない。それでも、追い討ちをかけるように踏みつけられ、袋の開け口から粉々になった焼き菓子が散らばると、ルーナリーアは酷く泣き喚きたい心地になって、誰の口にも入る事の無くなってしまったそれを見下ろした。
ルーナリーア達の近くに居た人々は最初こそ何事かと遣り取りを眺めて居たが、女性が貴花であると分かるや否や、どこか居心地の悪そうな顔でそっと視線を逸らし、自分達に被害がこないように一定の距離を置いている。もしもこの場にエリヤが居てくれたら、きっともっと上手く納めてくれたのだろうが、軽い恐慌状態に陥っているルーナリーア一人では、これ以上この女性から不興を買わないように肩を縮こまらせて謝るくらいが精一杯だった。
刺々しい言葉と謝る姿に満足したらしく、フン、と微かに女性は鼻を鳴らし、靴音高く石畳を鳴らしながら歩み去って行った。
恐る恐るその背中を見送ったルーナリーアは足元に転がった藤籠を手に取り、落としたものを拾うべく膝を落とした。踏まれて粉々になった焼き菓子の屑が散らばっている。帝都ルシュタンブルは“麗しの都”と称賛されるほどに美しい都。そんな都の、特に人が行き交う大通りをこのままにしては大変だ。
素手で石畳に散らばる屑をかき集め、袋に入れていたルーナリーアの視界が、じわりと滲んだ。
泣いたところでどうにもならないと分かっている。けれど、いくら唇を噛み締めても、余りに理不尽過ぎる仕打ちにルーナリーアの瞳からは大粒の涙が頬を伝い、石畳へ一つ、二つと雨のように落ちてゆく。
それを見て、先程から様子を伺っていた人々は一様に気まずそうな表情を浮かべるが、皆そそくさと足早に立ち去ってしまい、それが余計にルーナリーアを惨めな気分にさせた。
その為、微かなざわめきがいつの間にか近付いていた事に気付いた時には、俯いたルーナリーアの視界に白銀に輝く脛当と鉄靴が映り込んでいた。
「そこの小兎ちゃん、どーしたの?転んじゃった?」
「え…兎…?」
確かに、ルーナリーアの髪は母の血を受け継ぎ白銀色だが、瞳は父と同じ若草色だ。
兎と形容するには些か無理がある。生まれて初めて呼ばれた呼称に、少々あっけにとられながら顔を持ち上げると、すらりとした身体を白銀の甲冑に包んだ背の高い影がすぐ近くに佇んでいた。ルーナリーアよりも幾つか年齢は上のようだが、おさまりの悪い鮮やかな金髪の下の顔には、悪戯っ子のような琥珀色の瞳が輝いている。
最も意識をひいたのは、男性が身に付ける甲冑の色と、左胸に刻まれた薔薇の紋章だった。
白銀の鎧に薔薇の紋章を刻む事が許されているのは、“ユルドゥーズ帝国”騎士団の中でも精鋭中の精鋭のみが入団する事を許されている、《薔薇の騎士団》だけだ。
半月ほど前、《薔薇の騎士団》が隣国との国境付近まで視察に向かい、軍馬に乗って颯爽と帝都を出て行く姿を見たと興奮気味にエリヤが話していた事を唐突にルーナリーアは思い出した。成程、街路で何かを待っていた女性達は、帝都に戻ってくる姿を一目見ようと集まっていたのか。
そこまで考えたところで、騎士団の一人らしき男性の幾分か後方に、軍馬に跨り待機している騎士達が何人も見えて、ルーナリーアは酷く狼狽してしまった。街路の中央に蹲るようにして屈んでいたルーナリーアが邪魔で通れないのだろう。
「申し訳ありません…!!すぐ、すぐにどきますから…っ」
「手伝うよー?」
「いいえ、いいえっ、騎士様の御手を煩わせるなんて…!」
今日だけで、謝罪の言葉を何度も言っている気がする。
誇り高き《薔薇の騎士団》に所属する筈の騎士にしては随分と親し気な声に慌てて首を振り、散乱した残りの焼き菓子や、瓶詰めのジャムを拾い上げようとしたルーナリーアは、唐突に差した影へ顔を持ち上げて――硬直した。
「…エスト、勝手に馬列を乱すな。 勝手に馬から降りるなと言っているだろう」
「いやー、泣いている淑女を放っておくなんて事…俺にはできませんからねえ」
純白の軍馬に跨り、ルーナリーア達を見下ろす男性は隆々としていながらも武骨な印象は全く与えず、寧ろ洗練さを感じさせる。エスト、と呼ばれた金髪の男性の飄々とした声に呆れたような嘆息を零す姿も、一つ一つが絵になるようだ。
何よりも、噂でしか聞いた事のなかった姿を余りに間近で見たリーナルーアは、唖然として馬上に跨る人物を見上げるしかなかった。
短く刈り揃えられた髪は光に当たる度に黒と濃紺に色を変え、すっと通った切れ長の瞳は鮮烈な青。遠征の帰りのはずだが、傷一つ見当たらない白銀の鎧に刻まれた薔薇の紋章は、他の騎士達と異なり青の着色を施されて大輪に咲き誇っている。神聖な薔薇の紋章に色をつけたものを着用する事が許されているのは、《薔薇の騎士団》の中でもルーナリーアが知る限り、たった一人。
《薔薇の騎士団》団長――別名“青騎士”と呼ばれる男性が、切れ長の青い瞳を細め、ルーナリーアを見下ろしていた。