煌きの雨 1
豊穣祭を過ぎて暫くすると、大陸は次第に北方から吹く季節風によって次第に寒さを増してゆく。
それは、“ユルドゥーズ帝国”の帝都ルシュタンブルも例外ではなく、早朝と夜間は特に分厚い上着を着込んでも身を竦める程だ。だからといって、帝都の大通りを往く人々の数が減る事はなく、移動馬車の往来も相俟って初めてこの光景を見た旅人は、ちょっとした騒ぎにも思うやもしれぬ。
帝都を走る六本の大通りの一本、ルスリア大通りの街路脇で立ち止まったルーナリーアは、冷たく悴む指先を摩り合わせながら雲一つ無い晴天の空を見上げて、小さく白い息を吐き出した。野苺の《花》であるルーナリーアにとって寒さというものは苦手なものであり、これからの時期は少々億劫ですらある。だが、寒さ故に春や夏とは又異なる澄み渡った青空はとても好きなものだ。
「…よしっ、今日も頑張ろう」
この時期は寒さはあれど、天候が崩れる事は殆ど無い。腕に抱えた藤籠の中には、まだ朝日すら昇らない時刻から起き出して作ったばかりの菓子やジャムが綺麗に敷き詰められていた。それを見下ろす少女は、一人気合を入れると若葉色の瞳で往来を見渡す。
今日は昼過ぎから“黄金の林檎亭”で仕事が入っている。ここ最近は豊穣祭で舞手を務めた事もあってか、興味本位で購入してくれた客が味を気に入り常連になったという、嬉しい豊穣祭の効果も現れている。その為、大抵はどんなに気合を入れて藤籠いっぱいに作っても昼を少し過ぎた頃には売り切れてしまうのだが――驕ってはいけない。
ルーナリーアは肺に清涼だが少し冷たい空気を吸い込み、声を震わせた。
「出来たてのお菓子と、ジャムはいかがでしょうか?」
◇
「ありがとうございます!」
「ありがとうございました、またお越し下さい」
「紅茶のスコーンが焼きたてです、いかがですかー」
冬の訪れを知らせる寒々しい空気の中でも、“黄金の林檎亭”内部は次々と焼き上がる出来立てのパンと、ルーナリーアをはじめとする店員達の明るい掛け声、それからパンを求めて来店した客達で溢れており、寒さを感じさせない。
豊穣祭直後に比べれば来客自体は減少したとはいえ、店主であるジェライト・チェスメイの腕は確かであり、舞手を務めたルーナリーアとクドラの見物がてらに訪れた人達が常連となるのにそう時はかからなかった。その為、豊穣祭前に比べて倍近い来客が毎日続いている状態だ。
豊穣祭前は、週に三日程“黄金の林檎亭”で勤務していたルーナリーアが、今では週に五日程勤務しているのもそういった背景があるのだが――理由はもう一つ。
「あ、ルナ、今日も来たわよ」
「……うん…お一人でね…」
ルーナリーアよりも大通り沿いのカウンターで対応していたクドラが、呆れきったと言わんばかりの顔でルーナリーアへ密やかに囁く頃、若葉色の瞳にも軽い足取りで店内へと踏み入れた人物に気付き、小さな溜息を零した。
「あ、ルナにクドラ!やっほー!」
「リーゼ様…また“今日も”お一人なんですか?」
「もーっ、最初の挨拶がソレ?あと、様はいらないってばー」
カウンターへ近付く細やかな少女へ、溜息と共に小言を吐き出したのはクドラだ。
少しばかりくせのある艶やかな黒髪と、紫水晶色の瞳に飾られたその顔は、穏やかに微笑んでさえいればおよそ現実の存在というより、名のある彫刻家が魂の全てを込めて費やした作品を思わせる程に整っている。だが、クドラの言葉で不服そうに唇を尖らせる姿は親しみやすい可愛らしさを滲ませていた。
豊穣祭で共に舞手を務めた間柄から、度々ルーナリーアとクドラの居る“黄金の林檎亭”へ遊びに来るようになった少女、リーゼロッテ・フォン・ミレシア・ユルドゥーズ――王花であるユルドゥーズ帝国第三皇女は、毎回護衛を付けずに現れる。もしかすると、ルーナリーア達の分からない場所から護衛を務めている騎士が居るのかもしれないが…少なくとも、店内へ来るのはこの第三皇女のみだ。
どちらにしても、つい最近魔物の騒ぎがあったばかりなのだから、せめて“花皇宮”から出る際には護衛の騎士をすぐ傍に付けて欲しいものだが。
「あれっ、リーゼ? また一人で来たの?」
「今日はフリーアも居るんだね! ねえねえ、アップルパイはいつ焼きあがるの?」
他の客の対応をしていたフリーアも、この来客に気付いたらしい。上品に煎れた紅茶のような赤毛をふんわりと靡かせながら、鳶色の瞳を輝かせてリーゼロッテへと歩み寄った。フリーアは豊穣祭で舞手ではなかったが、頻繁に“黄金の林檎亭”へ訪れるようになったこの第三皇女と何時の間にか打ち解けており、今では誰よりも親しい間柄だ。
今ものんびりとした会話に興じている二人を見ていると、知り合ってほんの一月余りとは思えぬ程に親しげで、思わずルーナリーアは口元を綻ばせた。
「えっとー、クリスー! アップルパイはあとどれ位?」
「あと五分もかかんねえよ……っと、リーゼロッテ様」
フリーアから声を掛けられたクリスが、焼き釜の前から店内へ顔を覗かせると、常連客の姿に目をしばたたかせた。キャラメル色の髪に、打ち粉の白い粉があちこち付着しているところからして、幼馴染の青年は次に焼くパンを作っていたらしい。
「やっ、クリス!“今日も持って帰る”からよろしくネ」
「……お買い上げありがとうゴザイマスー。 …はあ、アップルパイはもっかい作らねぇとな」
「ふふ、お疲れ様」
礼を述べながらも、頭をくしゃくしゃと乱して青年は小さく唸った。ターコイズブルーの瞳には苦笑めいた色が浮かんでいる。それもそうだろうか、この常連客は幾種類ものパンを扱う“黄金の林檎亭”でも、特に焼きたてのアップルパイを好み、時にはこうやって殆どを買占めることすらあるのだから。
「あ、そういえばルナ」
「…? はい」
「今日はねー、護衛の騎士を一人付けてるんだ。 入っておいでって言ったのに、堅物さんだから外にいるんだよねえ…良かったから、温かい飲み物とパンを届けてあげてくれない?」
「はいっ、わかりました」
ふと、紫水晶色の瞳がいたずらっぽく輝いたのは気のせいだったのだろうか? 上機嫌に頬を綻ばせていたリーゼロッテは、何か思い出したかのようにルーナリーアへと視線を向けると、指先で店の外を指し示した。護衛の騎士を付けているのは彼女にしては珍しい。
しかしながら、外は天候自体は晴天だが風が帝都中を吹き抜けており、身を切るような寒さが蔓延っている。貴人の護衛とはいえ、店内に入れば良いのだろうが、きっと生真面目な騎士なのだろう。幸いな事に丁度店内の客も数が減る時間帯に差し掛かっており、ルーナリーア一人が一時的に抜けたところで問題はなさそうだ。
それになにより、この可憐な少女が直々に頼み事をしてくれたことが嬉しくて、ルーナリーアは思わず大きく頷いて微笑んで見せた。
「確か、ベリー系が好きだったと思うから」
「ベリーですね…」
木製の角盆に白い皿を乗せ、カウンター側から店内へと進み出たルーナリーアの背中を、からりとした少女の声が追いかける。それへ頷きを返しながら選んだのは、自身の《花》である野苺で作ったジャムと甘さを抑えた生クリームを挟んだパンと、パン生地にバターを幾重も織り込んで焼き上げたデニッシュへカスタードとブルーベリーを乗せたものだ。どちらもちょうど焼きあがったばかりのものだったせいか、ほんのりと甘い香りが漂ってくる。
「ルナ、紅茶の準備できてるよ」
「ありがとう、クドラ! それじゃあ少し出てきます」
「行ってらっしゃーい」
パンを選んでいる間に、クドラが手早く準備してくれた飲み物を受け取ると、リーゼロッテへ軽く一礼してからルーナリーアは軽い足取りで外へと向かった。
あの、青い瞳の男性も、ベリー系のものを届けると僅かに表情を綻ばせる――そう、想いながら。
◇
“黄金の林檎亭”の出入り口付近には、幾つかの椅子とテーブルが準備されており、パンを購入した客が焼きたてのものをすぐ食べられるようになっている。飲み物もパンを購入する時に言付ければ一緒に購入する事が出来るため、季節を通してそのスペースを利用する客は多い。
今もまた、購入したばかりで微かに湯気を立てるパンと飲み物を片手に談笑する男女の姿があれば、食事後の一服か優雅に本を広げる老紳士も居る。その中で椅子に座る事もなく、直立不動で佇む美丈夫にルーナリーアは思わず若葉色の瞳をしばたたかせた。
公務では無く何か別の理由があるのか、黒いスーツと外套を身に纏った姿は着る者によって重苦しい雰囲気を醸すだろうが、外套上からでも分かる鞭のように引き締められた肉体と、濃紺の短髪下で静かに光彩を放つ藍方石色の鮮やかな青い瞳が、寧ろ犯しがたい凛々しさと品格を備えていた。
ユルドゥーズ帝国でも屈指の実力を誇る《薔薇の騎士団》――その、団長を務める男性の姿に、忽ちルーナリーアの心臓は煩い程の鼓動を刻み始めた。外気は震える程の寒さを齎している筈が、男性の姿を視界に納めた時から全身が熱を持っているようだ。あの時、皇族の少女が浮かべた悪戯気な笑みはどうやら勘違いではなかったらしい。
「ケインス、様?」
「…ルーナリーア?」
急く心地が先行し、思わず小走りに近付いた少女を“青騎士”である男性は顧みた。少しばかり驚いたように見開かれる藍方石色の瞳が、次いで柔和に細められ、少しばかり掠れた低音でルーナリーアの名を呼ぶ。
たったそれだけで、少女の心は雲の上を歩いているようにふわふわとした心地になるのは、密かに甘い想いを抱いているからだろう。それでも、魔物とルーナリーアが面識の無い男性達に追い掛け回された日から、脳裏に焼きつく言葉が離れずに、若葉色の瞳はすぐさま恥じ入るようにして軽く伏せられた。
そのまま言い訳のように、両手で戴く角盆を持ち上げて見せる。
「あの、リーゼ様が外に騎士様が居るから差し入れをと…」
「……成程」
《薔薇の騎士団》でも副団長を務めるあの青年と異なり、ケインスは元々そう言葉が多くは無い。今もまた、一言のみを外気に溶かしたきり広がる沈黙に耐え切れず、そっと若葉色の瞳を持ち上げたルーナリーアは、此方を真っ直ぐと見下ろす鮮烈な青い瞳に射抜かれ、思わず見惚れたように動きを停止させた。
いつも真っ直ぐと前を見据え、鋭くも凛々しく在るこの“青騎士”との交流が無ければ、きっと今も睥睨されているのではないかという不安に付き纏われたやもしれぬ。だが今は、陽光照らす水面の如きその色の奥で静かに揺らぐ柔らかな光を見出せるからこそ、笑みも無く問われたケインスからの言葉に、少女は満腔の笑みを持って頷いて見せた。
「…では、貴女さえ良ければ少々付き合って貰えないだろうか?」




