薄闇に潜む牙 4
茜色の夕日が地平に沈み、夜の闇が“鎮めの森”を静かに包み込んでいた。
森に住まう動物達は、日没と共にそれぞれのねぐらへと舞い戻り、束の間のまどろみに意識を浸すのが常であるが、今宵ばかりは小さきものたちの眼差しが至るところから一人の少女に注がれていた事を知るものは、動物達だけであった。
「あっ……!」
夜の静寂を掻き乱し、月光に反射する髪を銀光のように振りまいて走る少女は、闇にも侵される事なく輝く若葉色の瞳を前方へと向けてひた走っていたが、唐突に体が大きく傾くと、小さな悲鳴を伴ってその場に崩れ落ちた。地面に叩きつけられた衝撃で息がつまり、思わぬ痛みにルーナリーアは呻きながらも緩慢に身を起こす。
あれからどれくらいの時間が経っただろう?決して体力が無い訳ではない筈だが、革のブーツに包まれた足は筋肉を酷使し過ぎ、最早他人のもののようだ。感覚の無い足を叱咤し、それでも走っていたのが仇となったらしい。闇に紛れて地面から顔を覗かせていた僅かな樹木の根に引っ掛かってしまった。
先程から激しく脈打つ鼓動を落ち着けるべく、深呼吸をしながらゆっくりとルーナリーアは立ち上がった。微かに膝が笑い震えてはいるが、足を止める訳にはいかない。なぜなら――
「おーい、いい加減逃げるの諦めたらどうだー」
「ッ…!!」
森の静寂を破り、ルーナリーアの耳にも届いた声は、自宅の前で声を掛けてきた三人組の一人だ。酸欠気味で思考が上手く回らないながらも、必死に思考の糸を手繰り寄せる。
幾ら鍛えていない小娘だとしても、ルーナリーアにとって森の中は庭にも等しいものだ。危ない気配を感じた三人組から逃げ出し、森の茂みを上手く利用して大通りへと出る事は造作も無い筈だった。だというのに、彼等はまるでその思惑を察知していたかのように逃げる先々で行く手を遮り、踵を返して逃げる少女の背中をのんびりと追いかける。どんなに逃げても一定の距離を離す事はできず、時折こうして声を響かせるあたり、いたぶって楽しんでいるようにしか思えない。
“鎮めの森”自体を静寂が覆い隠している為か、声は木々の合間を通って聞こえはするが、まだ幾許かの距離はある。幸いな事に彼らは、ルーナリーアの場所をきちんと把握している訳ではなさそうだ。僅かな音でも聞こえてしまう事を恐れ、痛みによる呻き声を口の中で押し殺すと、転んだ拍子に土埃を被った銀色の髪や服をそのままにして少女は立ち上がり、夜の闇に沈む森を進み始めた。
小さな頃から親しんでいた為、ある程度森の中に関しては詳しいと思っていたが――どうやら随分と森の奥まで来てしまったらしい。自分の荒い息だけが微かに聞こえる以外、葉擦れの音しか存在しない森の中は、全く見覚えのない景色が広がっている。自分で歩いて来た筈の背後を振り返ってみても自宅への帰り道が頭に浮かばず、ルーナリーアは思わず深い溜息を零したが足を止める事がないのは、ひとえに自分以外の気配が近付いてくる音が夜風に乗って微かに聞こえたからだ。
「疲れただろう?魔物だっているかもしれないし、四人で仲良くすれば良いんじゃないかなー」
まるで宥めるような猫撫で声だが、そのすぐ後には下卑た笑みが響き渡る。その為ルーナリーアが歩みを止める事はないものの、最早自分の足は棒のような感覚しか残ってはいない。遅かれ早かれ一歩も動けなくなってしまう前に、どこか隠れて身を潜めるべきだろうか?
霞みがちな若葉色の瞳をこらし、周囲を見渡したルーナリーアの視界に映ったのは、大樹の根元にひっそりと口を開いた大樹の洞だ。よくよく見てみると、その大樹以外にもあちこちに木が聳え立っており、その幾つかには大樹と同じく洞が見える。近付いてみると、大樹の洞は周囲に背の低い潅木が茂っている事と、夜の闇で覆い隠されて森に慣れている者でもなければ見つけるのは難しそうだ。
洞の入口も、ルーナリーアが背を屈めて入らなければいけない程の低さのわりに、中は人一人隠れるには丁度良い隙間がある。男性達の声が先程よりも近い場所で響いたこともあり、飛び込むようにしてルーナリーアは洞の最奥まで潜り、膝を抱えて座り込んだ。
「―――…」
近い場所まで響いていた声や足音は、次第にゆっくりと遠ざかっていく。
気を張りすぎていたせいか、どうやら瞬間的に思考が止まっていたらしい。ハッと気付いた時には、最前まで夜の静寂を破り響いていた追跡者たちの声は、聞こえなくなっていた。
単なる雑草であるルーナリーアに一体何の執着があるのかは判然としないが、随分としつこかった彼らも諦めてくれたのだろうか。思い切り力を込めて膝を抱えていた腕の力をゆっくりと抜くと、ルーナリーアは洞の中で安堵の息を吐き出した。
「なんとか、逃げられた…のかな?」
洞の中で体を縮こませていても、密やかに地を這い忍び寄る冷気を防ぐ術は無くて、ルーナリーアは疲労と寒さで青褪めた唇から小さく息を吐き出した。
豊穣祭の季節を過ぎると、昼はともかくとして夜には肌寒い季節となる。その年によって寒さの度合いは多少異なるとはいえ、どうやら今年は冷え込む冬になりそうだ。紅葉に色付く秋も、白が世界を覆う冬も嫌いではないが、春の《花》を持つルーナリーアにとって寒さはどうにも苦手なものだった。潅木が洞の前面を覆っているこの場所でも、時折ヒヤリとするような冷気が流れ込んでくる。
薄い衣服の上から自分の両肩を抱き、大きく体を震わせると、若葉色の瞳はためらいがちに洞の外へ視線を転じた。
息を殺し、集中して耳を澄ましてみるが、聞こえてくるのは夜風にそよぐ梢の葉擦れ音だけだ。そこには足音も人の声も存在しない静かな世界が広がっていた。どうやら彼等は本当に諦めたか、見当違いの場所へ移動したか――いずれにしても、降って湧いたような危機的状況からは救われたらしい。
試しに、洞の中からおそるおそる顔を半分程出し、潅木の茂み越しに夜の森を眺めてみるが、人の気配は感じられない。となればルーナリーアの取る行動は一つ、この寒々しい森から暖かい自宅へ帰るのみである。
浮き足立った心地は、ほんの微かな違和感を覆い隠す。だから、疲労に一刻も早く自宅へと帰りたい思いばかりが思考を占めていたルーナリーアが“彼等”の接近に気付いた時には、すぐ傍らから声を掛けられてからのことだった。
「みーつけた」
「!!」
全身を強張らせた少女が横手へ顔を向けたとき、若葉色の瞳に映ったのは自宅前で声を掛けてきた三人組だ。咄嗟に逃げ出そうと動かした足は、蛇のように素早く伸びてきた手が少女の腕を強く掴んだ事でそれ以上進む事が出来ず、寒さと恐怖で一層青褪めた唇からは小さな悲鳴が漏れ出た。
「いやだなァ、俺達は君とナカヨクしたいだけなのに、酷いじゃあないか」
ルーナリーアの腕を掴んでいる男性が猫撫で声を発すると、彼等は揃って嫌な笑顔を頬に刻む。夜風による冷気だけではない、氷で背中を撫でられたような感覚にルーナリーアは顔を引きつらせると、掴まれた腕へ力を込めて何とか逃れようと引っ張った。
「離してください…!私は仲良くしたくありませんっ…」
「ふぅーん?そんな事言っちゃう?傷付くなァ…」
小さな子供へ言い聞かせるような優しい声、にしては隠しきれない嘲笑の響きが男性の声には滴っている。次の瞬間、ルーナリーアの体は大樹の幹へと叩きつけられていた。悲鳴を上げる間も無く、背中を襲う衝撃と痛みに息を詰まらせる少女を見下ろす三対の瞳は、傲然とした光を暗く宿している。
「ナカヨクしたくないってんなら、多少乱暴にされたって文句は言えねぇよなあ?」
「ああ、仕方ないな」
「ま、雑草がつけあがってんだから、良い教訓になるんじゃねえ?」
「………!」
ルーナリーアは幹に背を預け、彼等の言葉に息を吞んだ。
思考を恐怖で鷲掴みにされ、逃げ出す事も出来ずにただ妙に冷静な部分が彼等は“至上主義者”の人達なのだろうかと考えたところで、伸びてくる手と佇む男性達の背後に視線が移り――
「…非力な女性を男三人でいたぶって、楽しいか?」
「あ…」
夜空に浮かぶ満月の光を受け、輝く白銀の鎧は闇に覆われた森の中でも輝いていた。
それよりも尚、ルーナリーアの目を引いたのは、太陽の光を受けて輝く海面のように鮮やかに輝く藍方石色の瞳だ。巨躯といって差し支えない体躯ながら、甲冑の上からでも分かる程に引き締まった体は鈍重さを一切感じさせず、かといって武骨とも思えない流麗な仕草に迷う素振りは無く、常に人々を率いている人をルーナリーアはたった一人しか、知らない。
普段、低い声で端的ながらも穏やかに話す男性――《薔薇の騎士団》団長、ケインス・ヴォルディア・アイヴァーンは今や誰しもが分かる程、触れれば切れるような息をする事も憚られる空気を発していた。
「ケインス、さま…」
「あっ、“青騎士”!?」
痛みを忘れ、そっと名を呟いたルーナリーアとは逆に、目を剥いたのは三人の男性達だ。よもや帝国でも随一と名高い《薔薇の騎士団》を率いる筆頭が、目の前に存在する事が信じられない様子で、三者とも顔を蒼白にして後ずさっている。
「…どうした、仲良くするのだろう?続ければ良かろう…それとも、私が居ては続けられないか?」
言葉だけ聞けば、青騎士の声はとても穏やかな響きを伴っている。だが、その瞳は憤怒を宿して鋭く輝いており、ごく軽く剣の柄へ添えられた手は男性達の言動一つで刹那のうちに抜き放たれる事を予想させるに十分であった。
「いっ、いやだなあ…俺達はただ、そこの子とちょっと話をしたかっただけで」
精一杯の愛想笑いを浮かべ、媚びへつらう声を上げた男性は、次の瞬間藍方石色の瞳に眇めた視線を送られて喉を引き攣らせた。続いて、腰に佩いた剣の剣身を鞘から僅かに覗かせる“青騎士”へ声にならぬ悲鳴を漏らすと、次の瞬間には三人の男性は夜の森へと逃げ出した。
唖然とそれを見送るのはルーナリーアだ。あれほどに混乱と恐怖を齎した男性達は、たった一人が登場した事で冗談のように姿を消してしまった。
「…“至上主義者”の繋がりか。 顔は覚えた、後日探し出す」
安堵よりも一体何だったのか、という困惑に若葉色の瞳を何度も瞬かせていた少女は、低く唸るような男性の声にハッと我に返った。
「あっ、あの、ケインス様! ありがとうございました。ですが、どうして」
「ルーナリーア」
どうしてここに?と紡ぎ掛けた声は、男性が自分を呼ぶ声に掻き消される。
金属の擦れる音すら響かせず、いつの間にかルーナリーアの前に片膝を付いて顔を覗きこんでくる男性の顔には、先程までの鋭い雰囲気ではなく、心配気な雰囲気が漂っていた。ふと、男性の眉間に皺が深く一本刻まれたと思いきや、篭手に包まれた片手が頬へと伸びる。
「泣いている」
「え?」
皮手袋に包まれた大きな手が、繊細な動きで目元をゆっくりとなぞった時、初めてルーナリーアは自分が涙を零している事に気が付いた。その途端、胸の奥からこみ上げてくる熱い感情に嗚咽が漏れ、少女の瞳からはとめどなく白銀の雫がこぼれ落ちてゆく。
それを拭い続ける大きな手は、どこまでも優しく頬を包み込み、じんわりと冷えた肌に温もりを残してゆく。
「怖かったな、もう…大丈夫だ」
「は、い…はいっ…!」
低く、凪いだ海のような穏やかな声が萎縮していた心を溶かしてゆく。
頬を包む手と逆の手が、ルーナリーアの頭を優しく撫でたとき、恐怖に強張っていた体はようやく力が抜け、言いようの無い安堵感に少女は声を上げて涙を零した。




