薄闇に潜む牙 3
自宅に程近い街路へと降り立ち、足取りも軽く慣れた道を進み始めたルーナリーアの鼓膜を震わせたのは、チチッ、と薄闇迫る空に響いた可憐な鳴き声だった。
「スノウ?」
茜色から深藍へと変化してゆく空へ視線を上げた少女の瞳にくっきりと映し出されるのは、闇を切り裂くかのような純白の小鳥だ。差し伸べる指先へ、慣れたように着地した小鳥はつぶらな瞳をきらきらと輝かせながら、まるで挨拶のように翼を何度か羽ばたかせた。
「こんにちは、スノウ。 …花の匂いがするわ、“花皇宮”にいたの?」
ルーナリーアの指先から、器用に肩へと小さなからだを落ち着けた白い小鳥からは、花の甘い残り香がふわりと漂っている。一種類ではなく、幾種類もの香りが混ざった匂いからして、恐らくは“花皇宮”の中で遊んだ帰りだろうか?いくら立ち入りを禁止されている今だとて、空に羽ばたく翼を持つ存在には通用しないらしい。羽の先に付着していた黄色の花粉を指先でそっと払い、ルーナリーアは微苦笑を浮かべて純白の存在を若葉色の瞳に映した。
「今日はね、騎士団の皆さんにお会いできなかったの」
チチッ、と囀り首を傾けるスノウへ、ルーナリーアは少しばかり落胆に翳る声を落とした。
“花皇宮”の門前で、《百合の騎士団》に所属する男性へは尤もらしく殊勝な態度を取りはした。だが、その実は酷く落胆していた事も事実である。
週に一度。いつもより早起きをして、上手い具合に焼きあがった菓子を手に《薔薇の騎士団》の詰所へと向かえば、出迎えてくれるのは何人もの騎士達が浮かべる綻んだ笑顔と、澄み渡る海のような深くも鮮やかな青い瞳を、少しだけ細めて佇む騎士団長の男性。副団長のエストと比べ、大きく表情を変える事のないあの男性が、大の甘味好きで、特にベリー系のタルトを好むなどと――一体、何人の人が知っているのだろう。
だからこそ、今日はルーナリーアの《花》でもある野苺をたっぷりと使ったタルトだったのだが…あの生真面目そうな騎士の青年は、きっと、届けてくれるだろう。それが分かっていても、少女の瞳はかすかな翳りを払拭できないままに、スノウを見下ろしていた。
「…お会いしたかったな…」
ぽつりと零した言葉は、誰の耳にも届く事はない。
だが、何の気なしに吐き出した言葉の意味を理解した途端に、顔から火を噴きだしそうな思いでルーナリーアは小さく唇を噛んだ。一体何を言っているのか。
あたふたと視線をさまよわせる少女を見るのは、スノウだけだ。その小鳥も、なぜルーナリーアがうろたえているのか分からないのだろう。言葉を通わす術はないが、“どうしたの?”とでもいいたそうに小鳥が肩から腕へ場所を移動させ、小さな囀りを響かせると、ルーナリーアは漸く微笑を浮かべてみせた。
「何でもないの、スノウ。 ただちょっと…寂しかった…ううん、怖かっただけなのかも」
魔物の話が出ている今、一人きりである事に。
過ぎた我侭だとわかってはいても、こんな時こそ藍方石の瞳が美しい男性の傍に居られたらと思わずにはいられない。先日のように、自宅のテーブルで奮発した紅茶と、手製の菓子をつまみながら他愛も無い会話が出来たなら、きっとこの胸の中で蟠る不安は消えてしまうのに。
「…スノウ、あなたも明日くらいまでは地上に降りちゃだめよ? 樹の上なら、魔物だってこれないだろうから」
数ヶ月前、生命の灯火が消えてしまいそうだった小鳥は、記憶の中より随分と大きくなっている。それでも未だ“小鳥”と言って差し支えない友人を見下ろす若葉色の瞳は、どこまでも心配気だ。首を傾げるスノウに意味が伝わったかは怪しいところだが、聡明な友人の事だ、本能で危険には近付くまい。
首の下をこしょりと指先で擽り、なにやら上機嫌な様子のスノウへ忠告を説いたルーナリーアだったが、自宅の前庭へ足を踏み入れた時、いち早く異変に気付いたのは純白の小鳥であった。
撫でるとふわふわの手触りを楽しませてくれる羽毛は今や警戒に逆立っており、元々ルーナリーアの片手で掴める程度の大きさであった小鳥は倍近くの大きさに膨れている。チッ、チッ、チッ、と鋭く短い鳴き声を上げる時は、怒っている時や威嚇している時に聞くものだ。
普段、非常に温厚なこの友人がここまでの警戒を見せるのはそう多い事ではない。ルーナリーアの思考にすぐさま魔物、の二文字が過ぎったのは、今現在ルシュタンブルを不安の渦に叩き込んでいる現状からして当然の事だった。だが、忙しく瞬く若葉色の瞳に映りこんだのは、魔物ではなく、三人の男性だ。
三人は、雑草であるルーナリーアや普通花、端麗花などのいわゆる一般市民階級の《花》が着る衣服を身に着けていた。特筆して目立つような人達でもなく、至って普通な容姿だ――これが、例えば大通りですれ違っただけの人物であれば。
「ルーナリーア・ミストレル…だね」
「……どちらさまですか」
三人のうち、一番前に佇んでいた男性がにこやかな笑顔を振り撒く。
それに対して、ルーナリーアはこわばった顔で普段よりも低く、固い声を返した。
「いやなに、豊穣祭の舞を見てから、とても感動してね。 ちょっと、話を聞けたらなと思って」
「………」
表情だけは温和な笑顔をたたえているが、瞳は全く笑っていない。生み出される言葉も、どこか薄っぺらさを感じさせるものだった。それに、なぜこの男性達はルーナリーアの自宅を知っているのだろう?
なにより、スノウが先程から見せている警戒は、若葉色の瞳を緊張に細めるには十分なものだ。男性が優しくはあるが、どこか空虚な言葉を紡ぐ合間にも残りの男性二人はさり気ない動きでルーナリーアを囲うように移動している。
自宅の扉はもうすぐそこだというのに、その前に佇む男性達のせいで近寄る事ができず、結果としてルーナリーアはじりじりと“鎮めの森”側へ徐々に後退してゆく。
「…チッ、頑固な雑草だ。 手を煩わせるんじゃ……」
ぴんと糸の張ったような空気を先に切り裂いたのは、一番最初に声を掛けた男性とは異なり、今まで口を開くことのなかった二人のうち、体格の良い男性の舌打ちだった。掴まえようとでもいう魂胆なのか、ルーナリーアの頭を片手で握り潰してしまいそうな大きい手を伸ばすその男性へ、ピィー!と、今まで聞いた事のないようなスノウの鳴き声と、男性の痛みに呻く声が重なった。
純白の小鳥は、隠された悪意を鋭敏に感じ取り、伸びてきた手へ鋭い嘴を突き立てたあと、とどめとばかりに飛び上がって思い切り男性の顔目掛け、蹴りを繰り出したのだ。余程思い切りつつかれたらしく、男性の手からは血が地面へと滴っている。だが、それを心配する余裕も理由もルーナリーアには存在しなかった。
一切のためらいを見せず踵を返した少女は、自宅でも大通りでもなく、唯一男性達の囲いになかった“鎮めの森”に繋がる小道を駆け出した。
「クソ、小娘が逃げる!」
「待て…逃げたのは森だ、面倒な騎士達に助けを求められる事もない。 それに、魔物の話が出ている今だ…森に、助けはない」
「ハハッ、そりゃそうだな……たっぷり可愛がってやれるぜ」
風に乗って、不穏な言葉が耳を擽る。
緊張と恐怖に段々と冷たくなってゆく指先を強く握りこみ、ルーナリーアは震える唇を噛み締めて速度を落とすことなく森への小道を駆け抜けた。余り奥になると流石に分からないが、“鎮めの森”は小さな頃から駆け回っていた庭にも等しい森である。目的は分からないが、どう考えても友好的とはいえない男性達を迂回し、大通りに出るか、あるいは自分の自宅へ籠もる事が出来れば何とかなるだろう。
ひとまず、自分の体を隠してくれる茂みが幾つも生い茂る場所を目指して足を止める事なく進みながら、ルーナリーアの思考を満たすのは小さな純白の友人はきちんと逃げられただろうか、だった。
そして、あの鮮やかな青い瞳を思い出し、何故だかルーナリーアは無性に泣きたくなった。
◇
《薔薇の騎士団》団長であるケインスが、部下の報告と勧めを受ける侭に警邏の列から外れ、一人雑草が住む区画へ騎馬と共に足を踏み入れたのは、空が薄闇色に染まる頃だった。本来であれば、団長であるケインスが警邏を離れるというのは考えられない事であったが、部下達の説得に――否、急く心が動く侭に、“青騎士”は藍方石色の瞳を鋭く細め、銀色の髪を持つ少女の面影を探して周囲に意識を巡らせる。
普段の今頃であれば、各々帰路を辿る者達で賑わう筈の大通りは例に漏れず静まり返っていた。特に、この周辺は“鎮めの森”に近い為か、警戒しながらも店を開けていた他区画に比べ、どの店先もぴったりと扉を閉ざしており、何処か陰気な雰囲気すら漂わせている。魔物の話題でこうなってしまうのは当然といえば当然だが、つい先程まで勤勉すぎるほど生真面目に魔物の姿を探していた“青騎士”は、今や違う存在を探していた。
既にケインスの瞳には、雑草である少女の自宅が映し出されている。しかしながら、一向に“青騎士”の眉間に寄せられた皺が消えてなくならないのは、家の何処からも在宅を示す灯りが見えなかったからだ。
“花皇宮”の門を守る《百合の騎士団》の騎士が、少女から焼き菓子の入った籠を受け取って、既に時計は二周以上時を刻んでいる。いくら“花皇宮”からこの場所まで距離があるといっても、そこまで時間が掛かるとは考え難い。寄り道をしているにしても、魔物が闊歩しているという話がある現状、それも考え難い。
ぐっと手綱を握る手に力が籠もる。心情に比例し、普段無表情を彩る事の多い“青騎士”の眉間には先程よりも深い皺がありありと刻まれていた。
「…何処に居る…」
無意識のうちに吐き出した言葉は、思ったよりも掠れていた。きっと友人の家にいるのだろう。そう考えようとしても、何故か胸中に蟠る澱が晴れる事はなく、ケインスが珍しくも明瞭な苛立ちを目端に浮かべたその刹那――ぴぴぴっ、と響き渡る可憐な鳴き声に、青い瞳は空を映し出した。
「スノウ」
夜迫る空を切り裂くように空から飛翔するのは、銀髪の少女が命を救ったという純白の小鳥だ。不思議な縁で少女とケインスから同じ名を与えられたスノウは、騎馬上で軽く手を差し伸べるケインスの指先へ躊躇いなく着地すると、普段の温厚な性格に見合わず、どこか必死な鳴き声を上げながら“青騎士”を見上げていた。
その嘴に僅かではあるが、紅の液体が付着している事に気付いた時、ケインスは一切の表情をかき消して、白銀の甲冑を身に纏う姿であるにも関わらず騎馬から音も無く地へと降り立った。そのまま素早く手綱を手近な幹に括り付ける。一見しっかりと固定しているようだが、万が一魔物の脅威に愛馬が晒された時、上手く解けるように調整してある。
藍方石色の瞳は飛び立った純白の小鳥が飛翔する方向を見据え、甲冑と剣を腰に佩いている姿ながら鈍重さとは無縁の佇まいにて、森へと歩を進め始めた。
歩みはすぐに小走りになり、やがて全力に近い疾走へと変わってゆく。
脳裏に過ぎるのは、一人の少女が生命力に満ち溢れる夏の若葉の如き瞳を細め、気恥ずかしそうに笑う姿だった。すぐにその顔を見られない事が、これほど胸を掻き乱す。
言い知れぬ嫌な予感を振り払うように、ケインスは軽く首を振ると、スノウを追い抜く勢いで走る速度を上げ、既に暗がりを深くし始めた森を更に奥へと踏み込んだ。




