薄闇に潜む牙 2
御者の扱う鞭の音と、馬の嘶きを供として動き出した馬車は、殆ど揺れる事もなく滑るように石畳の街路を進んで行く。時折下からくる衝撃も、座席と背の間にあるクッションがほとんどを吸収してくれるようで、ルーナリーアが舌を噛む心配は全くない。
数年前、家族で港街エラノスへ旅行に行った時には乗り合いの馬車を利用したが…板を打ち付けただけの、座席とは名ばかりの椅子からは衝撃が直接身体に響き、激しく揺れる馬車での会話は早々に諦めたものだ。
だが、ルーナリーアの眼前で優雅に座席へと腰掛け、窓から外を物憂げに眺める女性は、地上で会話した時と全く変わらないまろやかな声を室内に響かせた。
「折角あなたと会えたのに、魔物だなんて…“鎮めの森”からなのでしょう? あんな森、早々に壁で潰しておかないから、今回の様な事になると思わなくて?」
「…ですが、“鎮めの森”は神聖な場所ですし…本当なら壁も必要ない場所ですから、何かあったのではないでしょうか…」
端麗な顔を胡乱げに歪め、流れてゆく街並みを流し見る女性はどこか不服気だ。
荒れ一つない指先を顎に当て、微かに目元を細めて見せた女性へそれまで沈黙を保ち、女性の言葉に耳を傾けていたルーナリーアは、恐る恐るではあるが口を挟んだ。
帝都ルシュタンブルを守るように聳え立つ城壁が唯一存在しない場所――それは、ルーナリーアが住む場所からすぐ近くの一帯に広がる“鎮めの森”と呼ばれる場所だ。本来、帝都の守りを磐石なものとするなら、当然この森も切り開き、壁を作るべきだというのは誰もが考える事だろう。しかし、この“鎮めの森”はその名が示すとおり不思議な力で満たされている。たとえば、獰猛な魔物がこの森に入り込んだとして、その魔物は忽ちに獰猛性を失い、森から出てくる頃には人懐っこい子犬のような性格に変わってしまう。
人には影響がなく、魔物の獰猛な心にだけ反応するかのような不思議な力があるからこそ、あの森は“鎮めの森”と呼ばれ、壁を作る必要性がないのだ。
物心ついた時から森のすぐ傍で過ごしてきたルーナリーアだからこそ、今回の魔物の件には首を傾げるものがあった。確かに、今まで魔物を見なかった訳ではないが、“鎮めの森”の中で遭遇する魔物は幼い頃に街道で見た獰猛なものとはまるで似て非なるものだ。
壁が無いということも、気にした事はない程に森という存在が魔物から守ってくれていたからこそ、天涯孤独の身となった今も、女身であの家に住む事が出来ているのだから。
「そうね…でも、帝都へ魔物が入ってこれる道なんて、森くらいしかないでしょう? 何かあったのだとしても、こういう事になるのならやっぱり潰しておくべきだわ」
「……」
だが、この女性は森の不思議で神秘的な空気を知らないのだろう。
ルーナリーアの言葉に一度は渋々ながらも同意を見せた女性は、天使を思わせる整った表情を微かに歪め、すぐに反論を返した。それに対して銀髪の少女は静かに微苦笑を刻むのみに留める。
「あら、もう端近くね…この辺りで大丈夫かしら?」
流れる外の景色を視界に入れた女性は、軽く首を傾げて見せた。
言われた通り、窓の外に広がる景色はルーナリーアにも良く見慣れた自宅近くだ。徒歩であれば時計が一回りする程度にはかかる距離を、こうも短時間で移動出来るというのはとても贅沢で、羨ましくもあるが、乗り合いではない専用の馬車など上流階級の《花》にしか出来ない特権である。
微かな嫉ましさが心に澱として沈む前に、それらを顔に出さないようにしてルーナリーアは女性へと深く頭を下げた。
「はい、ここからでしたらすぐですので、もう大丈夫です。 わざわざありがとうございました…いつか、お礼をさせてください」
「いいのよ、お礼なんて……ああ、そうだ」
馬車を走らせた時と一緒で、ルーナリーアの言葉に軽く頷いた女性は御者台と繋がっている小窓を軽く二回程ノックすると、馬の嘶きが微かに鼓膜を揺らし、徐々に速度が落ちてゆく。
上流階級の女性には珍しく、雑草であるルーナリーアにも対等に接してくれる女性は、最初お礼の言葉に首を振っていたが、何か思いついたように両手を軽く合わせると、甘やかな極上の微笑みを浮かべた。
「野苺のジャムを作っていると聞いたわ。 いつか、それを食べさせて頂戴?」
「……!は、はいっ!もちろんです!」
最初、驚いたように見開かれていた若葉色の瞳は、どこか泣き出しそうに緩く細められる。少女は顔をほころばせると、満腔の笑みを湛えて頷いてみせた。
◇
「最悪だあああぁ……」
普段は琥珀色の瞳を楽し気に瞬かせているエストも、今ばかりは普段のほほんとした顔を不服気に歪め、嘆息を吐き出していた。白銀の甲冑を身に纏い、騎馬に颯爽と跨る《薔薇の騎士団》もまた、唐突に降って湧いたような魔物の話題に、帝都を警邏している最中である。
「何もさあ、週に一度のお楽しみな日に…」
帝都中へ触れが出ている為、大通りを歩く者は普段に比べると驚く程少ない。それらの人々も、どこか不安気な様子で周囲を見渡しては足早に歩き去って行くのだから、“麗しの都”として名高い帝都ルシュタンブルは陽光高く昇る時刻にもかかわらず、どこか陰気な雰囲気で満たされていた。
にも関わらず、帝都や人々を守護するべき人物といえば、本来であれば今頃甘い“戦利品”を巡っての争奪戦を楽しんでいたはずの楽しい一時が、なぜだといわんばかりに唇を尖らせている。エストの愛馬である栗色の騎馬も乗り手の心情を敏感に察知しているらしく、普段大人しい筈の雌馬はどこか苛々と足踏みを繰り返していた。
「そっすねえ…今週こそ、ミストレルさんの焼き菓子ゲットするつもりだったんすけど…」
上官の機嫌の悪さを多少なりと和らげさせようと殊更のんびりとした声を上げたのは、共に警邏を行っている《薔薇の騎士団》の中でも若手の青年だ。未だ幼さが完全には抜け切っていない、凛々しくもどこか幼さを僅かに残した人懐っこそうな顔で微苦笑してみせると、自分の背後で同じく苦笑いを浮かべている騎士達へ、同意を得るように振り返る。
それぞれの表情は違えど、皆が皆、副団長の言葉に半分同意、半分苦笑いといった面持ちであった。だが、どうやら上官の男性は不服らしい。ムスリと唇を尖らせて、半眼気味の眼差しを周囲に振りまく姿といったら、誰がどう柔らかく見積もっても不機嫌というものを体現している。
「早めに触れを出してるから、“花皇宮”にルナちゃんは来てないと思うケドさあ……ああ、来週までおあずけなんて俺やる気でない」
「副団長ー、そこはちゃんと出して下さいよお…今だって、我々は魔物から人々を守る重要な役が」
「あー聞きたくないー! だんちょーと同じ事言うのやめろよー」
これではまるで、幼い子供が駄々をこねているようにしか見えない。甲冑を着込み、なおかつ帯剣した状態にも関わらず、騎馬上で落馬する事無くぐでんぐでんと身体をのた打ち回らせる動き自体は感嘆に値するものではあるが、もっとマシな事にその平衡感覚を使って貰いたいものだと、副団長の機嫌を直す事に失敗した年若き青年は密かな溜息を零した。
「副団長!」
「…ん?あれ、ガーディ?」
少しばかり急いた声でエストを呼んだのは、やや掠れた男性の声だった。
エスト達と同じく白銀の甲冑に身を纏い、黒毛の騎馬に跨る姿は凛としていて、騎士そのものではあるが、彼の顔を見るなりつい数瞬前まで愚痴を吐き出していた人物と同一に見えない程、琥珀色の瞳は鋭く細められた。
なぜなら、一騎にて近付いてくる部下は、本来一本隣の大通りを警邏している筈だからだ。与えられた持ち場を離れる際は緊急事態か、何かの伝令か――どちらにしても、部下の表情を見る限りで余り良い内容ではなさそうだ。
「アイヴァーン団長は何処にいらっしゃいますか?」
「団長なら、もうちょっと先の普通花の区画あたりにいるはずだけど。 何?何かあったの?」
「…いえ、何かが起こった訳ではないのですが…」
いつもなら凛々しく引き締められている部下の顔は、どこか困惑気味に歪んでいる。エストの言葉にも、短い沈黙を隔てて言いよどむ姿などそうそう見れるものではない。
「申し訳ありません、副団長。 警邏中の隊より抜け出て来たことは、全て私の一存です。ですが…その、“花皇宮”を警備する《百合の騎士団》の同期から、ミストレル嬢が菓子を届けに来たと話を聞きまして…団長の耳にもお入れしていた方が良いかと思い…」
「はっ!? …もしかして、そのまま帰した…とか?」
早々に触れを出していたはずだから、安心かと思っていたが、どうやらそう上手くはいかなかったらしい。丸々と目を見開くエストは、嫌な予感が湧き上がるままに問い掛けると、部下の苦々しい頷きに口元を引き締めた。
「“花皇宮”の中には入れないだろうけど、門のとこで保護しておくことくらいできるだろうにねえ…ガーディ、ちょっとそのまま団長に報告してきてくれる? 大丈夫だと思うけどさ、ルナちゃんの家は森に近いから様子見に行ったほうがいいかも」
「了解致しました!」
きびきびと馬首を巡らせ、《薔薇の騎士団》の団長へ伝令を届けに行く部下の姿を見送りながら、エストは納まりの悪い金髪をぐしゃぐしゃと片手でかき回した。
私情を挟む事は宜しく無いことくらい、自分達とて重々承知である。だが、本人達がお互いをどう思っているかは知る由もないが、週に一度、焼き菓子を届けに来る少女を門の辺りまで毎回迎えに行き、東屋で茶を楽しみ、夕刻には門の前で《花》の青薔薇を手折り、送り出す――そんな姿を見ていれば、少なくとも騎士団を統べる団長が一人の少女を大切に想っている事など、今更とでも言える周知の事実だ。
だからこそ、後々何かしらの罰があると分かっていても、あの騎士は独断で隊から外れたのだろう。まあ、普通なら同じ警邏の騎士が止めるはずなので、今ここに居るという事は誰も止めなかったに違いない。
「いやあ、俺達ってさあ…ちょー上官想いだよね」
「……副団長、軽いです」
「えーそう?」
しみじみとした顔をする上官に対し、部下の青年達は呆れたような溜息を零した。
◇
「……魔物だなんて」
絹のように整った肌。薔薇色の朱が差す頬は天使の如き美しさを醸している。微笑みを湛えれば、さぞかし世の男性を虜にするだろう女性は、気怠げな眼差しで窓の外を見やった。
透明な硝子窓の向こうは、ゆっくりと帝都の街並みが流れている。雑草や普通花が多く住まうこの地区に専用馬車というのは元々珍しくもあるが、魔物の件が帝都中を覆い尽くしてからはほとんど人気がなくなってしまった。赤煉瓦の街路を進む馬車といえば、自分の乗っているものだけ。あとは、まばらな人影が足早に去って行く姿が時折見られるだけだ。
「人気がないなんて、何て好都合かしら? 森があるのだもの、魔物だって大した事ないでしょうに…丁度良かったわ……うふふ」
一人ではいささか広すぎる馬車の中で、女性は同性から見てもうっとりするような微笑を花開かせた。だが、天使の如き微笑に似合わず、桃色の唇から吐き出されるのは怨嗟と聞き間違うばかりの毒が滴っている。
「雑草の分際で、身の程を弁えないアレが悪いのよね。 けれど…少ぅし、怖くて、痛い思いをすれば…良く分かるでしょう」
口調だけはおっとりとしながら、天使の如き微笑みをたたえた女性は、暗く濁る瞳を悪魔さながらに細めて上機嫌な笑みを零した。
硝子窓越しにそれを聞いた御者は、ひっそりと顔を曇らせる。たとえ、主の命令であったとしても、とても嬉しそうに何度も頭を下げていた少女がこれから辿るだろう未来を想うと、御者は胃がキリキリと痛み出すのを堪える事ができなかった。不吉を払うためのまじないである印を小さく切ると、御者の男は祈りの言葉を呟いた。
「…おお、我ら《花》の神セトよ…どうぞ、あの少女をお守りください…」




