輪郭のない想い 3
帝都ルシュタンブルの中で雑草が主に住まう区画は、もっとも端に位置している。その区画の更に端――“鎮めの森”の入り口にひっそりと寄り添う形で、ルーナリーアの両親が遺した家があった。
古い木材と、帝都の石畳に使用されている赤煉瓦を主に作られたその家は、こぢんまりとしたものながらも、見る者にどこかほっとさせるような優しい佇まいを醸している。
「狭い家ですが…どうぞ」
「…失礼します」
家の壁面一杯に生い茂る野苺を眺めて居たケインスは、ルーナリーアのそろりとした声に一つ瞬きをすると、入り口に佇む銀髪の少女へ几帳面な礼を送った。“青騎士”の男性にはやや低い玄関の上部枠に頭を打たぬよう、軽く屈むとゆったりした動きで足を踏み入れた。
入ってすぐ目に入るのは、数センチはありそうな分厚い木板を使用したウッドテーブルだ。テーブルの足はケインスの腕よりも太く、多少の衝撃ではびくともしないであろう事が容易に察せられる。テーブルを挟んで反対側にはキッチンがあり、どちらも少女の性格を表すよう綺麗に片付けられていた。採光と通風の為に設けられている窓から、宵へと差し掛かる前の薄い夕日が差し込み、より一層木の温もりが感じられる。
隣の部屋は、どうやら嘗て家族三人で憩いの時間を楽しんだ空間のようだ。少し大きめのソファと、壁面を飾る赤煉瓦の暖炉は冬になれば柔らかな炎を上げるに違いない。
家具や壁紙等に至るまで、総じて落ち着いており、ケインスにしてみれば派手好きな貴族連中の邸宅よりも、余程安堵感を齎す室内だ。
「良い家だな」
「…ありがとうございます…!」
端的ではあるが、ぐるりと室内を見渡した男性がぽつりと零した言葉に、ルーナリーアは思わず頬をほころばせた。自分が作った訳ではもちろんないが、両親が選び、自分も気に入っている家を褒められるのはお世辞であったとしても良い気分である。
だが、客人を立たせた侭である事に気付くや否や、慌ててテーブルへ手を差し伸べた。
「あ、あの、どうぞお掛けになられてください! 大したものはお出しできませんが、お茶の準備を致しますので…」
「いや…押しかけたのは此方だ。 どうか、お構いなく」
「いいえ! お誘いしたのは私ですから…!少しお待ち下さいね」
微かに眉を下げる様子は遠慮しているのか、申し訳なく思っているらしい。
それに勢い良く首を振ると、ルーナリーアは早速持て成しの準備を始めた。湯を沸かす間に戸棚から準備するのは、とっておきの茶葉と、丁度昨日作っていた焼き菓子だ。アーモンド風味のメレンゲを使って焼き上げた生地に、バタークリームを挟んだダックワーズだけでは少々甘いが、ラム酒を使い甘みを抑えて焼いたカヌレも付ければ大丈夫だろう。
ふわりとしたダックワーズと、もちもちとした触感のカヌレを皿へ盛り付ける合間に水が沸騰すると、小さな手間を忘れずに陶器製のポットとカップを一旦熱湯で温める。湯を捨ててから二人分の茶葉をポットへと投入し、沸騰した湯を勢い良く注ぎ入れて数分蒸らす時間を兼ねてポットとカップ、そして焼き菓子の乗った皿を客人の前へと出したところで、普段は無表情に近い“青騎士”の男性が、明瞭に口角を持ち上げて笑っている事に気付くと、何故笑われているのか分からずにルーナリーアは目を白黒させた。
「いや…以前から思っていたが、随分手際が良いな…と」
以前、というのは、“花皇宮”の敷地内にある《薔薇の騎士団》の詰所へルーナリーアが焼き菓子を届け始めての事だろう。最初こそ菓子を届けるのみであったが、争奪戦を始める騎士達へ持て成しも兼ねて茶を振る舞うようになった為、“青騎士”の男性も少女が給仕をする姿は幾度も見ている筈だ。
当然のようにしていたが、もしかすると妙に映ったのやもしれぬ。恐縮しきり、と言った様子で身を縮こまらせる少女を他所に、ケインスはゆっくりと笑みを深めてルーナリーアの手元へ楽し気な視線を投げやるばかりだ。
「家事などは自分でしていますし…慣れてしまいましたから、良く分かりませんが…」
小さな苦笑を浮かべ、ルーナリーアは自分の手元を見下ろした。会話を続けながらも、手は蒸らしの時間を終えた陶器製のティーポットを持ち上げ、茶漉しに中身を潜らせながらカップへと注ぐ動作を滑らかに行っている。程良い蒸らしに成功した紅茶は、夕日のように澄んだ緋色で白いカップの内側を満たし、何とも言えない良い香りを室内に漂わせ始めている。
カップのうち一つをケインスへ、残りを自分自身の前にそっと移動させると、ルーナリーアは“青騎士”の男性と対面する形で椅子に腰掛けた。
「お待たせしました、どうぞ…。 それに、紅茶を煎れるのも、お菓子や料理も、小さな頃から母に教わっていましたから、ケインス様はそう感じられるのかもしれませんね」
「…ほう、母君譲りか」
「はい。 母は、菓子職人でしたが、料理人でもありましたから」
少しばかり驚いたように見開かれる藍方石色の瞳は、無理からぬものだ。幼い頃は良く分からなかったが、男性でも珍しいというのに、女性でありながら菓子職人と料理人のどちらも携わる事の出来た母は、料理というものに天賦の才を持っていたのだろう。
こと、菓子作りや料理になると厳しい母だったが、輝くような瞳で生き生きと動く指先から生み出されてゆく“作品”はとても美しく、あこがれたものだ。
「……貴女の作るものが、私は好きだ」
「え!……あっ、ありがとう、ございます……」
唐突に室内へ響く言葉に、ルーナリーアは慌てて顔を持ち上げた。そこには紅茶のカップを片手に、もう片手にはカヌレを持ったケインスが微かに口角を撓ませている。もしかすると、今は亡き人を想う心境を見透かして、この男性は声を掛けたのかもしれない。
“好き”――それは、少女が作るものに対してだ。そうだと分かっているというのに、かあっと頬が熱くなるのを止める事が出来ずに、ルーナリーアは持ち上げたばかりの顔を伏せて消え入りそうな声を漏らした。
急に喉の渇きを覚え、口に含んだとっておきの紅茶は、何故だろうか…味が分からなかった。
◇
「有難う。 菓子も紅茶も、とても美味かった」
「大したおもてなしもできませんでしたが…そう言っていただけると、嬉しいです」
他愛も無い話を交わし、菓子を幾つか摘んだところで、既に太陽は地平線に沈んでいた。
窓辺から差し込む明かりも乏しく、室内の洋灯に火を入れようとしたところで、一人暮らしの女性宅に長く居座る事を遠慮したケインスは辞去を申し出て――二人は、庭から街路へ続く道で相対していた。
無表情に近い男性の片手には、茶色の小さな紙袋が丁寧に提げ持たれている。中には、食べ切れなかった焼き菓子が入っているのだが、ほんの少し、それを見下ろす男性の碧眼が嬉しそうに揺れたような気がしたのは、単にそう感じて欲しいと思っていたからこその見間違いだろうか?
「土産まで頂いてしまったが……さて、エスト達に見つからんようにしないとな」
「ふふ…もし見付かってしまっても、お気に召して頂けたのでしたらまたお持ち致します」
零れるような金髪と、悪戯っ子のような琥珀色の瞳を輝かせる《薔薇の騎士団》の副団長もまた、甘味は大好物らしい。毎週の争奪戦で誰よりも多く菓子を手に入れては、嬉しそうに頬張っている姿が容易に思い出されて、思わずルーナリーアは薄闇の世界に笑い声を吐き出した。
それに対して、団長である“青騎士”のケインスは微かに目尻を細め、苦笑の様相を呈している。
「エストに見付かったら、全員に知られるようなものだからな…少々困るのだが」
彼の事だ、大いに騒ぎ立てて他の騎士達を集めた挙句、“争奪戦”を開催しかねない。宵が広がり始めた薄闇ですらも、無表情さが際立つ男性の顔にありありと浮かぶ苦い色までは消しきれていない。浅い嘆息を交えながら、ゆっくりと身を翻す男性へ声を掛けようと少女は一、二歩と足を進め――僅かに窪んだ地面に爪先を捕われた。
「きゃ…!………ッ……」
咄嗟に目を瞑り、すぐさま襲うだろう衝撃に身を硬くしたルーナリーアだったが、いつまでたっても痛みは襲ってこない。むしろ、硬くも芯は温かい何かに身体を支えられていることに気付くと、しっかりと瞑った瞼の下から若葉色の瞳が恐る恐ると開かれて、硬直した。
「…大丈夫か?」
「は、はいっ!ありがとうございます…」
何時の間にか少女へ振り返っていたケインスは、紙袋を持っていない片手で少女の腹部に腕を通し、軽々と支えていた。思ったよりも近い位置から気遣わし気な眼差しがルーナリーアへと注がれ、混乱冷めやらぬ侭に瞳が忙しなく瞬く。
別段怪我は無い事を確認した“青騎士”は、ほんの少し吐息を風に逃がすと、体勢を整えた少女の銀髪をサラリと一撫でする。同時にふわ、と芳醇でありながら瑞々しく鼻腔を擽る香りは、男性の《花》と同じ薔薇の香りだ。
「余り無理はせぬようにな。 …では、失礼する。また詰所で」
「はい……おやすみ、なさい…」
幼い子供や、妹にでもするかのような手付きに他意は無いと伺える。それでも、隙の無い動きで街路を進んで行く美丈夫を見送るルーナリーアの顔は、何処か泣き出しそうなものだ。
熱い頬も、身体も、少し触れただけで爆発しそうに鼓動を刻む胸も…そして、《花》の香りも。
きっと、最初から分かっていた事だった。
こんなにも切なくて、苦しくて、嬉しい想いを言葉にするとしたら、一つだけだ。
人は、それを愛と呼ぶのだろう。
◇
宵に沈む街の角から、一人ぽつりと佇む銀髪の少女を見る影が、一つ。
ほんのりと上気した薔薇色の頬に、生命力に満ち溢れた若葉色の瞳が微かに潤む姿は、えもいえぬ美しさを――人を愛する事を知っている者だけが出せる美しさを醸している。
「どうして」
影は囁いた。
銀髪の少女に、或いは先程まで少女と会話していた美丈夫に。
「違う。 違う。 それじゃない…どうして私じゃないの?」
嘆きにも聞こえるその囁きには、やがて明瞭な悪意が滴り始めていく。
「それはいらない。 いらない……そうだ……」
くすくす、くすくす。
影が齎す悪意に、楽しそうな笑い声に宵が翳ってゆく。
時間が停止してしまったかのような、異様な静寂の中で囁かれた声は、酷く楽しそうなものだった。
「こわしちゃえ」