雑草(セリエ) 1
さあ、御伽噺を始めよう。
これは、優しい《花》の物語。
◇
遠い、遠い、昔のお話。
創世の神エトが、《影》ばかり蔓延る世界を嘆き、荒野へ最初に齎したのは、一面の色鮮やかな百花繚乱に咲き誇る様々な花達。
色彩豊かに、甘やかに咲き誇る花達は、猛り狂う《影》の心を鎮め、ゆっくりと癒した。
やがて《影》は《光》となり、《光》から鳥や動物が生まれ、草や樹が生まれ。
――最後に、神は百花繚乱の花々から人を成したという。
もう誰も真偽は分からない。
けれど、昔話が今でも語り継がれているのには、理由がある。
◇
「ごめんね、ルナ!明日からちょっと、エラノスへ行って来るわ」
「え……あ、そっか。 そろそろあっちに戻る時期なのね」
今日、まだ陽が昇ったばかりの森で摘んだ野苺で作ったジャムと、野苺の束を籐籠に入れて何時もの待ち合わせ場所に赴いたルーナリーアを見るなり、ルナと愛称で呼ぶ友人のエリヤは、開口一番うきうきとした声でそう言った。
エリヤのちょっとはいつも長い。以前も日程を聞かずに送り出したら、青葉の季節に出て行ってから雪深い季節まで帰って来なかった。
「ごめんねー」なんて言いながら、全くもって済まなさそうな様子は一切なく、エリヤの顔は緩みっ放しである。なぜなら、ルナとエリヤの住む帝都ルシュタンブルから馬車で一週間程かかる穏やかな気風の港街エラノスは、エリヤの恋人である青年の生まれ故郷なのだ。
小さな頃からの幼馴染が高じての交際を経て、自他共に認める程仲の大変宜しい二人だが、エリヤの恋人はエラノスから王都へ交易品を運ぶ交易商である為、毎日逢瀬を重ねるという訳にはいかない。それ故にか、度々恋人がエラノスへ戻るに合わせ、エリヤも共に付いて行っているのだ。
19歳になっても未だに彼氏の一人も生まれてこの方できた事の無いルナにとって、仲睦まじい二人は大変に微笑ましく、少々羨ましくもあった。三年前に流行り病で死んだ両親への家族愛以外に、ルナは愛というものを知らない。
異性への恋を、巷の少女達が頬を染めて語らう甘い言葉の意味を、何時か知る事があるのだろうか。
いずれにしても、毎日のようにして一緒に花を売るエリヤが暫く不在になってしまうのは些か寂しいが、大輪の花が咲き誇るように笑うエリヤを前にして、言う事ではないだろう。
だから、ルナはいつものように微笑んで見せた。
「いってらっしゃい、エリヤ。 でも、最近は魔物が増えて物騒だって吟遊詩人や旅芸人も言っていたから、気をつけてね…?」
「ありがとう、ルナ! お土産たくさん買ってくるわ!」
「ううん、いいの…エリヤが無事に帰ってきてくれるだけで」
「くうっ…! 相変わらずやさしい子ねえ…やっぱり野苺が《花》なだけあるわ!」
「そんなこ……わっ! え、エリヤ、くるし……」
感動至極といった様子のエリヤが、ルナを絞め殺さんばかりの勢いで抱擁すると、酸素の行き渡らなくなったルナの顔はみるみるうちに青ざめ始めた。
その後、何とか落ち着いたエリヤと共に今日の商品を捌き、明日朝早くに出立するというエリヤの浮き足立った背を見送ると、ルナは空になった籠の中を覗き込み、少しだけ溜息を零してからとぼとぼと自分の家へ――ひとりきりの家へ、ひとりきりで帰路を辿った。
この世界では、人は生まれてくる時に《花》を抱いて生を受ける。
花、というのは文字通り花だ。
道端に咲く花、生花店で売られるような花――《花》
なぜ《花》を抱いて生まれるのか、詳しい事はわかっていない。
だが、御伽噺にもあるように創世の神エトが人々を花々から生み出した名残ではないか、というのが今のところ最も有力な説である。
百花繚乱から、とあるように、赤子が抱いてくる《花》も多種多様だ。
ゆえに、何時の頃からか抱いてきた《花》によって幾つかの分類に分けられ、地位を与えられるようになった。
位の高いものから順に
王花
稀花
貴花
端麗花
普通花
そして、唯一名に《花》の文字を与えられなかった――雑草
数多に存在する《花》を、この五つの区切りが地位を分け、一生を決めるのだ。
王族に連なるものだけが抱く王花は別枠として、多少なりと両親の影響はあるといえど、普通花の両親から、稀花の子供が生まれる事も、ある。勿論、その逆も。
ルーナリーアは、端麗花の母と普通花の父から生まれた。
だが、ルナはどちらかの《花》を引き継ぐ地位ではなく、地位の中では最も下位に値する雑草の花――春の野に咲く、野苺の白い花を抱いて生まれてきた。
ある程度の地位たる《花》を持つ両親から、それ以下の《花》持ちが生まれた場合、育児放棄されてしまう事も悲しいかな実際良く聞く事ではある。
だが、幸いな事にルナ――ルーナリーアの両親は自分達の一人娘をとても愛し、育ててくれた。
地位的に最も低い雑草は高等教育までしか認められておらず、楽しそうに大学や専門機関へと進学してゆく同級生達を尻目にして、王都でもそこそこ人気のあるパン屋へと就職した。
客の中には、ルナが雑草だと分かるや否や汚らわしいとばかりに受け取ったパンを捨てたり、罵声を浴びせる者も居たが、ここでも幸いな事に普通花の店主や同僚達は皆、ルナを庇ってくれた。
時折辛いこともあるが、雑草の人生としては幸福な日々――だった。
三年前、大陸中を襲った謎の熱病が、ルナの両親を襲うまでは。
美しい花達が枯れてゆくようにして、みるみると衰弱してゆく両親を必死に看病した。
けれど、二つの花は枯れてしまい、ルナは一人残されてしまった。
最下位である雑草は一定以上の職業に就く事を許されていない。その為、両親は娘が金銭面で困る事のないようにと貯蓄を怠らず、それは莫大な金額になっていた。
王都の端に位置する“鎮めの森”が目と鼻の先にある小さな一軒屋と、残された遺産。
失意の底に落ち、パン屋の仕事も休みがちで自宅へ引きこもりがちになったルナをその時救ってくれたのが、同じパン屋で働いていたエリヤである。
といっても、ある日突然自宅の扉を蹴破り、ルナの首根っこを捕まえて外に無理やり引きずられ、懇々と説教された事はある意味トラウマに近いものとして、ルナの記憶に刻まれているのだが。
どちらにしてもエリヤのおかげで澱んだ気持ちが払拭されたルナは、休みがちだったパン屋にも出勤するようになり、折角両親が残してくれた遺産を少しでも使わなくて良いようにと、新しい事も始めてみた。
ルーナリーアの《花》は野苺の白い花。
花は、同じ《花》持ちを愛す習性がある。
すなわち、野苺の《花》持ちであるルーナリーアが望み、根を張る地面さえあれば、たちどころに野苺の蔦が伸び、葉を茂らせ、白い花が咲いて――真っ赤で甘い苺が真冬であっても実るのである。
自宅の壁一面に咲き誇る白い花と、葉っぱの間からあちこちに覗く瑞々しい野苺を見て、ルナはそれらをジャムとして加工し、売る事にした。これが大成功。
一人で作っているので、一日の量には限りがあるし余り日持ちもしない為最初こそ不安だったが、ありがたい事に売れ残った事はほとんどない。ついでに“鎮めの森”で見つけた野花を切花として一緒に売っているが、こちらもまずまずの売上である。
一人でやるには大変だろう、と、エリヤが手伝ってくれるようになってからは益々人気が出るくらいで――エリヤに謝礼をしようとしたら「ルナが作ったお菓子とジャムを食べさせてくれればいいのよ」と言ってくれる。ありがたい事だ。
だからこそ、とても大切な友人であるエリヤには、幸せになってほしい。
今回、エリヤが王都をどれくらいの期間離れるのかは分からないが、いつまでも友人に頼ってばかりではいけない。一人でもきちんと出来る事を見せなければ、あの大切な友人はいつまでたっても彼と結婚しない気がするのだ。
一人きりの室内は少々物悲しいが、空になっていた籠へ自宅の壁に実る野苺を溢れんばかりと摘んできて、早速大鍋でジャムを作り始めたルナの表情は明るいものだった。
きっと、今日よりもずっと美味しいジャムにしよう。
誰かが少しでも、これを食べて幸せな気持ちになってくれますように――。
明日はどんな人と出会えるだろうか、そんな期待を抱いて。