輪郭のない想い 2
帝都であるルシュタンブルは、“麗しの都”と他国からも絶賛される程に景観の美しい都だ。帝都中の街路は同じ素材で作られた赤煉瓦で統一され、“花皇宮”を中心として、放射状に伸びる六本の大通り沿いに立ち並ぶ店や家々も基本は同じ素材で作られて、より一層の瀟洒さを醸している。
朝靄の中に浮かぶ帝都も美しいが、吟遊詩人たちがこぞって詩に刻むのは、斜陽に沈む夕刻の帝都――丁度、今の時間帯だ。
“黄金の林檎亭”の裏庭から、ぐるりと半周する形で店舗の入口近くへと足を踏み入れたルーナリーアは、燃えるような夕日を背にし、静かに佇む影を見付けて目を丸くした。
シンプルながらも上質な衣服を纏う男性は、一目で良い出自だと分かる。
巨躯と表現して良さそうな体格は、しかしながら良く鍛えられている事が衣服越しでも容易に判じられ、何処か俊敏な肉食獣を彷彿とさせる。それは、きりりと弧を描く眉と切れ長の瞳から、より一層感じるものだ。
店の入り口に掛けられた“本日閉店”の札を、静かに見下ろす藍方石色の深くも鮮やかな青が、今ばかりは夕日の光を取り入れて、黄金を垂らしたかのような輝きを放つ。それを見て、ルーナリーアは酷く自分の心がざわつく奇妙な感覚を覚えた。
「……」
つい先程まで、友人達と交わしていた内容が内容だからだろうか?
話題の渦中に存在していた人物の思わぬ訪問に、瞳に映るその姿に、言葉では上手く言えない想いが膨れ上がる。同時に、服の下で苦しいほどに脈打つ鼓動を抑えようと、少女はそっと手を胸元に添え置いた。
こうやって、幾分か離れた場所から見ていると良く分かる。ただ立っているだけだというのに、洗練された優雅さと武人の持つしなやかな雰囲気に、例え今日は白銀の甲冑を身に着けていなくとも、道行く人々の視線は常にあの男性へと向けられていた。
例えば、あの男性の隣に親戚だというテレーゼが並べば…きっと、とても絵になるに違いない。遠い人――ふと、胸を締め付ける気持ちに違う何かが混ざった気がして、ルーナリーアは瞳を瞬かせた。
我知らず、深い溜息を零しそうになる事に今更ながらうろたえ、そんな自分へさらに混乱する。
まるで、そんな懊悩している少女を見越したかのように、スイ、と持ち上がった青い瞳がルーナリーアを真っ直ぐに射抜いた。夕日の金色を含んで輝くその瞳に、その視界に自分が映っている。
それだけで、どうしてこんなにも心が躍るのだろう。
「ルーナリーア」
優しい声。
成人男性特有の少し掠れた低音が、自分の名を呼ぶ。
「ケインス様……どうして、こちらに?」
“青騎士”の男性へ近付きながら、以前も同じような会話を交えた気がしてルーナリーアは記憶を辿る――“花皇宮”の中にある“瑠璃の間”。その、テラスで。
「午後から非番だった。 エストが、とても美味いパン屋があるので行ってみろと煩くてな……貴女と、アヴェリン嬢がいらっしゃったのだな」
「エストさんが…」
子供のように輝く琥珀色の瞳を思い出して、思わずくすりと笑みが零れた。
きっと彼の事だ、ルーナリーアやクドラが“黄金の林檎亭”で働いていると知っていて、上司であるケインスへ持ちかけたに違いない。やや呆れた様子で微かに肩を竦める“青騎士”の男性は、部下であるエストが多少の事をしても驚かなくなったようだ。淡い苦笑を湛えたその相貌に、怒りの色はない。
「だが…本当に人気店のようだ。 まだ営業時間だと思っていたのだが…侮っていた」
「材料が無くなってしまいまして…早目に閉店させていただいたのです。 折角来て頂いたのに、申し訳ありません…」
青い瞳が少女ではなく、店舗の入り口に掲げられた札へ向けられると、自分のせいではないと分かっていてもいたたまれなさに視線が落ちる。普段は無表情である事が多い男性が、微かに見せた残念そうな雰囲気を感じるとなれば、余計の事であろう。
通常、《薔薇の騎士団》に所属する騎士は、“花皇宮”の敷地内にある詰め所と併設された建物内で、殆どの者が寝起きを共にしているという。勿論、元々全員が貴族の地位を持つ《花》である以上、自分達の屋敷に帰る事も可能だそうだが――まず、見た事が無い。
そんな“花皇宮”から、この“黄金の林檎亭”は徒歩で約三十分程。折角の休みを、手ぶらで返す羽目になってしまった、と、落ち込んだ胸中が顔に出ていたに違いない。
「今回は買う事が出来なかったが…次の楽しみになった」
「ええ、是非来てください! 焼きたてのパンは、どれも本当に美味しいんです」
気にするな、と言っても気にしてしまう少女の性格を把握してきているようだ。
ゆったりと告げながら、僅かに持ち上がる口角が男性なりの微笑である事を知っているルーナリーアは、ただそれだけで酷く心が穏やかになる心地につられて、自身も口許を綻ばせた。
「分かった。 話しかけてくれたあの青年にも、感謝を。それでは、また……菓子を楽しみにしている」
だが、目的を達成できなかった“青騎士”の男性がこれ以上この場所に留まる意味は無い。多少緩慢な動きながらも、身を翻して“黄金の林檎亭”から離れて行こうとする背中を見て、気付けばルーナリーアは赤煉瓦の石畳を小走りで進み、男性の衣服を摘んでいた。
決して痛みは与えていない筈だが、やや驚いたように見開かれる青い瞳が少女を見下ろすと、今更ながらに酷く大胆な行動をした自覚が沸き起こった。夕日に照る中でも分かる程、ルーナリーアの頬は真っ赤に染まっている。
普段であれば急いで手を離し、非礼を詫びる少女だが、今日は違っていた。
ともすれば悶死しかねない程、思い詰めた顔で沈黙を挟み、珍しくも“青騎士”の瞳に戸惑いが揺らいだ頃。漸く意を決したかの如く、若葉色の瞳にケインスを映し出した。
「あの、ケインス様………!」
◇
西に沈む太陽が、最後の煌きを残して地平線へと消えるか、否か。狭間の時刻で、既に薄闇の迫る帝都は、しかしながら最後の活気に満ち溢れていた。すなわち、帰路を急ぐものと、夜の街へくり出す者達の賑わいだ。
足早に石畳を進む者は真っ直ぐに前を見詰めており、きっと迎えてくれる家族や大切な者を思い浮かべているのだろう。対して、数人で酒場や宿屋の方向へ陽気な足取りで進む者は、これから他愛も無い会話やあるいは共に熱中できる何かで酒を片手に盛り上がる筈だ。
そんな人々の合間を縫うように進む足取りは、二つ。
「…驚いた。 この区画は、この時間帯でも賑やかなのだな」
「ちょうど、自宅へ帰る方と飲みに出かける方で混雑する時間帯なんです。 もうしばらくすれば、大分静かになりますよ」
二つのうちの一つ、長躯の男性が周囲へぐるりと視線を巡らせ、吐き出した感想に対し、小柄な少女はややぎこちなくも笑ってみせた。しかしながら、笑みとは裏腹にルーナリーアの心臓は爆発せんばかりと脈打っていた。二人の歩先が向いているのは、帝都の中心から最も離れた場所である雑草の住まう区画――ルーナリーアの自宅方角だ。
何故、二人が共に歩いているかといえば単純だ。「よければ茶を」との誘いに、何ともあっさりと“青騎士”の男性が頷いたからであった。自ら誘ったというのに、先程から軽く俯きがちな少女の顔が仄かに赤いのは、決して夕日のせいだけではあるまい。
それには気付いているのか、気付いていない振りをしているのか。ざあ、と一陣の風が衣服を揺らし、片手でそれを押さえながら、ケインスはやや眉を顰めた。
「…だが、この時間帯に帰るとなれば、少々明かりも乏しい。 ご両親も心配ではないだろうか」
「あ、いえ…」
何と言えば良いか分からず、ルーナリーアは酷く歯切れの悪い声で言葉を濁した。
「……父と母は三年前に、“枯れ”ました」
「…エーリヒの悲劇か……すまない、失礼なことを伺ってしまった」
困ったような笑みに、ケインスは思い当たる節がすぐに浮かんだらしい。
“エーリヒの悲劇”は、大陸中に蔓延した熱病の事だ。最初の犠牲者が出た場所が、帝国から西にあるエーリヒと呼ばれる地方だった事から、“エーリヒの悲劇”と呼ばれている。ルーナリーアの両親を奪ったその熱病では、帝国でも倒れ、枯れた者は多数に及んだ。当時は毎日のように喪に服す黒布が玄関先で揺れている姿を見て、至る場所からすすり泣く声が聞こえて――大切な人達の死を、世界が慟哭しているようだった。
微かに表情を引き締めたケインスが声色を落とすと、ルーナリーアは慌てて首を振る。
「いいえ! 失礼だなんてそんな…!今は私一人で暮らしていますので、綺麗ではありませんが…」
「急に伺う此方が悪いのだ、貴女は気になさらないで欲しい。 よければ…貴女のご両親の事を伺っても?」
神でもなければ、古の力を受け継ぐという一族でもないルーナリーアは、未来を見通す力などあるはずもない。それゆえに、少々散らかしたままの室内をそのままにして出掛けてしまった午前中の自分自身を、今すぐ正座させたい気分になった。“青騎士”の男性が来る事を数日前から把握していれば、念入りに掃除をしていたものだが…今更言ったところで、どうにもなるまい。
それよりも、この“青騎士”の男性が少女に多少なりと興味を持ってくれた事が嬉しくて、愛した両親の事を聞かれた事が嬉しくて、ルーナリーアの頬は自然に綻んでいた。
「私の父と母は…普通花と端麗花でした」
「…珍しいな」
「はい。 両親のどちらかの《花》に近しいものを受け継ぐ事が多いようですが、私はそのどちらでもありませんでした」
そう。《花》は遺伝ではない。だが、遺伝に近い。
生まれくる子供は、両親どちらかの《花》を受け継ぐか、どちらかの《花》の性質と似た《花》を抱いて生まれるものが殆どだ。だが、ルーナリーアのように、たまにそのどちらも受け継がない《花》を持つ者も生まれる。
これが、両親よりも上位の《花》であれば諸手を挙げて歓迎され、慈しみを持って育てられるのだが、両親より下位の《花》だった場合――拒絶されるか、育児放棄か、どちらにしても子を子として見ない者が多いのだという。
「…でも、お父さんもお母さんも、私を愛してくれました」
元々、両親は普通花と端麗花の住む境付近に住んでいたという。いくら子供が雑草だといっても、ほんの赤子を両親から引き離す法などなく、ルーナリーアが成人して家を出るまでは望めばその場所で家族三人暮らす事も出来たはずだ。
しかし、両親は自分達の子供が他の子供達から無邪気な悪意を向けられている事に気付き、あっさりと家を手放して今の場所へと引っ越したのだという。すべての悪意を無くすことはできないけれど、少しでも、と。
想い起こせば、両親との思い出は笑顔だった事しか記憶に無い。つらいこともあった筈だが、それを凌駕する程の幸せに包まれていたから、辛い記憶は残り難いのかもしれぬ。
もうこの世界には居ない人達を想い、目を細めて語る少女は、誰が見ても幸福そうに満ちていた。
それを見詰める藍方石色の鮮やかな碧眼がゆるりと細まり、僅かに口角が持ち上がる。そ、と吐き出す低い声には故人を偲ぶ響きが込められていた。
「素晴らしいご両親だったのだな」
「はい! 両親と、友達と…大切な人が沢山いてくれたから、私は笑っていられます」
「そうか……貴女は、強い人だな」
「……?そう、でしょうか?」
てっきり、両親についての話が続くかと思っていたルーナリーアは若葉色の瞳をしばたたかせた。
薄闇迫る空の下、眩しいものなどない筈だというのに、“青騎士”の男性は何故か酷く眩しそうな面持ちで、少女を見下ろして居た。
「…貴女は、強い女性だ」




