輪郭のない想い 1
「やばいわね」
「うん、そろそろ死ぬかも」
「二人とも、物騒…だけど、うん…」
ひけも切らない客の対応に追われる、ほんの僅かな合間。
カウンターに立っていたクドラとフリーアが零した愚痴に、ルーナリーアも酷く珍しく弱気な面持ちで小さく頷いた。
麗らかな日差しの下、ルスリア大通りに面した“黄金の林檎亭”は繁盛していた。
否、繁盛という言葉では些か生ぬるいかもしれない。元々から毎日賑わっている店内は今や身動きがとれない程で、これでは目的のパンを取ることも難しいのではなかろうか?
五つ設けられているカウンターには絶える事なく客の列が並び、焼き窯は普段よりも更に早いスピードで焼きたてのパンを生み出しているというのに、足りている様子は全くない。“黄金の林檎亭”の店主である筋骨逞しい中年男性は全身を汗だくにしながらも嬉々として動き回っているが、彼の息子であり、ルーナリーアの幼馴染であるクリスはといえば、半分魂が抜けかけた顔で、それでもきちんと動いている事は賞賛に値するのだが…早朝からずっとこの調子だ、そろそろ休まないと本当に倒れてしまいそうで、気が気ではない。
元々人気のあるパン屋ではあるが、ここまで一気に来客が増えた原因は、ルーナリーアとクドラにある。豊穣祭…それも、五年に一度の大祭で舞を披露した《花》の舞手二人が、同じパン屋で働いているという噂がどこからか広まったらしい。
豊穣祭の終わった次の日から、連日二人の顔を覗きに来るがてら、良い匂いを漂わせているパンにもついつい手が伸びて、といった状態である。店主であるジェライトは豪快に喜んでいるが、流石に毎日休憩も取れず朝から働きっ放しの皆はそろそろ限界に近い顔付きをしていた。
「あ、いた!あの二人でしょ?」
「そうそう、豊穣祭で舞を…」
「へえー…」
弾んだ複数の声が喧騒の中でも聞こえ、ルーナリーアとクドラはそちらへにこやかな笑みを向けたが、それが引きつったものであると気付かれない事を祈るばかりだ。
◇
“黄金の林檎亭”が閉店したのは、通常の営業時間よりも一時間半早い時間だった。
用意していた材料が底をついてしまい、パンを作る事が出来なくなってしまったのだ。楽しみに来店した客達のがっかりしたような顔は少々申し訳無いが、限界に近かったルーナリーアは指定席である“黄金の林檎亭”裏庭に置かれたテーブルに腰掛けて、深々と吐息を吐き出した。
同じく、撃沈してテーブルに突っ伏している二人へ良く冷えたレモン水のグラスを差し出すと、枯れかけた花が水分を得ようとするかのように、一気に飲み干される。
「あーーーー…生き返る…!」
「さすがに、飲まず食わずはこたえるわ」
「二人とも、お疲れ様。 おかわりは?」
「ルナもお疲れ。 自分で飲むから、ルナも飲みな」
「うん、ありがとう」
空になった二人のグラスへ追加のレモン水を注ごうとした手は、クドラに遮られた。そのまま、水の入った瓶の代わりにグラスを差し出されると、今更ながらに喉が干乾びる寸前である事に思い至り、ルーナリーアはありがたくグラスを受け取った。
一口、嚥下すると疲れた身体に清涼な水分が染み渡るようで、思わずほっとした吐息が漏れる。夕方特有の、昼間に比べて涼しさを増した風が裏庭の芝生を揺らし、テーブルに影を作る梢をさわさわと悪戯に擽ってゆく。茉莉花のふんわりとした匂いが風に乗って、疲れた身体を癒すようだ。
「そうそう、ルナ。 この前の夜会の時…団長さんとはどうなったのよ?」
「ぐっ…!?」
心地良い疲労感と、優しい風に心底リラックスしていたルーナリーアは、少しばかり悪戯気な面持ちで問い掛けるクドラに息を詰まらせた。それに対して、やや過剰反応したのはフリーアだ。
豊穣祭の舞手になれなかった事を最初こそふて腐れていた彼女だったが、舞手の友人が二人も居る事を誇りに思い始めたらしく、今では良く話を聞きたがる。そんなフリーアの前で、クドラが例の質問など取り上げれば、大きな鳶色の瞳が輝き出すのは最早必然だろう。
「えー!なになに!団長さんって、噂の“青騎士”?」
「そうそう、夜会の時にね…いつの間にかいなくなってると思ったら、二人っきりで夜会抜け出して散歩デートしてたのよ。 あの時の幸せそうな顔ったら…」
「うそー! 本物の騎士にエスコートなんて…ルナってば、お姫様みたい…素敵」
ひょっとしなくとも、夜会の時にクドラ一人にした事を恨まれているのやもしれぬ。
挑戦的な黒瞳がルーナリーアにちらりと注がれると、嫌でも認識しない訳にはいなかさそうだ。クドラの言葉に益々目を輝かせたフリーアは、両手を組み合わせ、視線を何処かへ飛ばして夢見心地状態である。
「で、デートとかじゃなくて…ケインス様も夜会が苦手だって仰られてたから、その、気分転換でご一緒させていただいただけ、で…」
忙しなく若葉色の瞳をしばたたかせ、しどろもどろながらも何とか少女は反論を試みた。だが、二人の友人が浮かべる表情からして、疑念が払拭されたとは到底思えない。祖母が孫の色恋沙汰を応援しているとしたら、きっとこんな表情を浮かべるに違いない。
同い年の筈である二人は、長き年月を閲した者のような表情で笑みを湛えていた。
「で?どうなのよ? ルナの作ったお菓子を持っていくようになって、二ヶ月は経ってるでしょ?」
「どうって……」
黒髪の少女が手中のグラスを軽く回すと、カラリと耳に心地良い氷と硝子の触れ合う音が色を添える。クドラの言う通り、豊穣祭の後も週に一度、“花皇宮”にある《薔薇の騎士団》詰め所へと菓子を届けているのは現在進行形だ。
それでも、夜会以降別段いつもと変わらない“青騎士”の男性と、副団長である金髪の男性、そして騎士団の騎士達と言葉を交わし、時には純白の小鳥も交えての一時は、今やルーナリーアにとって癒しともいえる時間だ――ただ一つ、鮮やかな藍方石色の瞳が少女を見る度に、言い知れぬ気持ちが胸中を占める事を除けば。
「…みなさん、とても良い人達よ」
二人が何を聞きたいのかは、流石にルーナリーアでも分かる。分かるのだが、自分でも良く理解出来ない感情を上手く他人に説明できる筈もなく、曖昧に吐かれた言葉は至極頼りないものだった。
当然ながら、友人の二人に浮かぶのは納得いかないといった表情だ。眉を寄せるクドラに対して、普段可憐な笑顔ばかりを見せているフリーアは、鳶色の瞳を細めて不服気な様子を醸している。
「ルナ。 ルナはもう分かってるんじゃない?例えば、例えばだけど、“青騎士”さんが他の人と付き合うとか…結婚するとか、もしそうなったら、ルナはどう思う?」
「結婚…」
その時、ルーナリーアの心中を渦巻いたのは、決して綺麗な感情ではなかった。
感情表現が明瞭な人ではないが、低くて居心地のよい声がルーナリーアの名を呼び、僅かに目元が細められる――それが、違う誰かの名を呼ぶ?誰かの手を取る?
「あー…ごめん、ルナ。 もういいよ!」
鬱々としてきた思考を引き上げたのは、些か急いた様子のフリーアだ。その隣では、クドラがレモン水に口を付けながら、なにやら苦笑している。
まだ何も言っていない筈だというのに、何故か二人は悟ったかの如き笑みで笑い合っていた。
「エリヤも居てくれたら、参考になったかもしれないんだけどねー」
帝都からは、馬車で一週間程かかる港街エラノス。恋人である青年と、ふた月程前からエラノスに居るだろう一番の友人をルーナリーアは思い浮かべた。恋人の話となると、普段は快活な親友が微かに頬を染め、とても嬉しそうに笑うあの姿は、何時見ても眩しいものだ。
「今はエラノスかあ…本当に仲が良いよねえ。 まあ…何せあの二人は――…」
「お、おい! ルナ!」
フリーアの言葉を遮るように裏庭に広がった声には、狼狽した響きが含まれていた。
三対の瞳が声の主を追い、持ち上がる。裏庭と、店内への出入り口を隔てる境界に佇んでいたのは、幼馴染である青年だった。怒涛の一日であった仕事の疲れを残し、ぼさぼさになったキャラメル色の短髪をそのままに、ターコイズブルーの瞳には困惑が浮かんでいる。
「クリス? どうしたの?」
なにやらただ事ではなさそうな雰囲気を感じ取ったルーナリーアは、椅子から立ち上がると幼馴染の傍へ駆け寄った。間近で見上げた青年の顔は、父親と似た精悍な顔ながら、所労の色が濃く残っている。
だが、今の幼馴染が気をもんでいるのは、そういった疲れとは又別のもののようだ。
ほんの少し、逡巡するように瞳を伏せたクリスだったが、何処か困ったような苦笑を湛えると店の入口方向を指で指し示した。
「お客さん」
「私に?」
「……うん」
クリスは、苦虫を噛み潰したかのような顔で来客の存在を肯定した。
豊穣祭の後から、“黄金の林檎亭”にルーナリーアとクドラ目当ての客が増えはしたが、同時に何の思惑あってか直々に話をしたい、という人も増えた。もちろん、それを許すような店主ではないので、爽やかな笑顔ながら言外に「ちょっかい出すな」オーラを振り撒いてくれているお陰か、二人とも至って普通の接客ばかりをしていたのだが。
この幼馴染も、見知らぬ者に面通しをさせる程無警戒ではないので、本当にルーナリーア宛の来客なのだろう。そこまで思案を巡らせると、若葉色の瞳を緩く細め、幼馴染へ笑い掛けた。
「わかった。 ありがとう、クリス。フリーア、クドラ。ちょっと行ってくるね」
「ごゆっくりー」
「そのまま帰っちゃっていいよー」
来客というのなら、余り待たせるのも失礼にあたるだろう。
幼馴染への礼もそこそこに、クリスの隣をすり抜けたルーナリーアの鼓膜に友人二人の声が響く。了承の意を込め、軽く手を振ってから店舗の入口を目指して裏庭から少女が姿を消すと、クリスはキャラメル色の短髪を両手でわしわしと盛大に掻き乱し、その場にしゃがみ込んだ。
「あー!くっそ……あんなやつ、無視すりゃ良かった…」
「…まあ、アンタは無理ね。 ライバルでも、卑怯な手は使えないスポーツマンなんだし」
「裏表ないって素敵だと思うよー?」
テーブルに座ったままの少女二人は、青年の後悔に満ち溢れた声に苦笑を返した。
銀髪の少女に、この青年が懸想している事は本人達を除いて周知の事実である。少女の前では爽やかな幼馴染を必死に演じているようだが、彼女がいなくなるとこの有様なのだから、無理も無いといえばそれまでだが。
“来客”とやらが女性であったり、知己の者であれば、ここまで悔しがる事は無い筈だ――となれば、導かれる予想は一つしかあるまい。
本気で悔しがりながらも、わざわざ来訪した者を追い返す事なく幼馴染を行かせるのは彼の持ち得る生まれ持っての徳だろう。報われぬ姿に顔を見合わせて苦笑したクドラとフリーアは、少しばかり優しい声でクリスの名を呼んだ。
「…お疲れさま。 こっちきて、一緒に休憩しましょ」
「お水、おいしいよー」
「……さんきゅ…」




