豊穣祭 4
舞手の《花》達が姿を見せると、割れんばかりの歓声が広場中へ響き渡った。
だが、王花である小柄な少女を中心に舞手達が舞台の上へ配置に付くと、時代掛かった舞手の乙女達の神秘的なたたずまいに、波が引くようにして驚くほどの静寂が場を支配する。
『――…エ・ウレィメ・リューシュリ・ミルート――…』
(創世の神よ、今あなたの娘達が感謝の舞を捧げます)
シャン、シャンと手首の鈴を鳴らし、聞きなれない言葉で謳を朗々と紡ぐのは王花の少女だ。太古に失われし“古代の言葉”による祝詞の謳を捧げる事が出来るのは、今はもう皇族や北の果てに住むという古代の民の末裔のみである。
耳慣れない言語の筈だというのに、人々の心を揺さぶるような不思議な響きを湛えた謳が一度区切られるに合わせて、《花》の乙女達は優雅に腕を空へと差し伸べた。
――シャン――
呼吸すらも合わせ、僅かにもずれる事の無いその動きに、鈴の音は強い余韻を残して空気に響き渡る。
始まったばかりだというのに、何千と集まった人々は息を忘れて乙女達の舞を目に焼き付けた。
手の動きに合わせて乙女達の身体は翻り、幾重にも重なった衣装がふわりと舞い上がり、円を描く。地面の上を滑る様に移動する足捌きは音も無く優雅で、洗練されている。
手が動き、身体が舞い、足がリズムを刻む度軽やかな鈴の音が響き、祝詞の謳が祈りを捧げる。先程まで広場を吹き抜けていた強い風さえも、風切り音で乙女達の邪魔をする事を恥じるように、吹くのを止めていた。
――シャン――
最初はこの世界を覆っていた闇。王花の乙女が悲し気な謳を口ずさむに合わせて、五人の《花》も嘆き悲しむよう、静かな動きに変わる。それはやがて、創世の神エトが闇の世界に百花繚乱の花を芽吹かせ、動物や植物を生み出した事で世界に満ちる喜びを表す軽快なステップへと移る。
その花々から“最初の二人”が生み出され、光の溢れる世界の美しさとこの世界に生まれた感謝を込めて、《花》の乙女達は優美な舞と謳を捧げ続けた。
◇
花々に彩られた舞台の上で舞い踊る乙女達は、まさに花の化身の如き神々しさを醸している。
五年前にも《薔薇の騎士団》の騎士として、舞手の乙女達を警護した経験があり、どういったものであるのかは理解していた筈だが――気付けば、他の群集と同じように、舞台上から視線を外せない自分がいる。
普段、何があっても表情一つ変えず、職務に忠実であるケインスの意識をこうまでして惹き付けてやまないのは、舞台の上で舞う一人の少女だ。
雲一つ無い晴天の青空に舞う、絹糸のような銀の髪。
足に見えない羽でもあるのかと思うほど、音も無く静かに、それでいて彼女の心を表すように軽やかなリズムを刻む姿はたおやかでいて美しい。他の舞手の乙女達と一糸乱れぬ姿で鈴の音を響かせ舞う姿、多少の距離を隔てていても、陽光に煌く若葉色の瞳はどこか神秘的だった。
「ルナちゃん、すっごいキレイですね」
「…エスト」
横手から突如囁かれる声に、ケインスも普段より声を潜めて静かに返事を返す。
そこにはつい一瞬前まで、銀髪の乙女に向けていた柔らかな光は微塵も存在しない。
広場周辺の見回りに出していた筈の副団長が、舞台近くのこの場所に居るということは、何かがあったと暗に示していた。普段はお調子者のこの部下は、しかして仕事を放り出す事は絶対にしないことをケインスは理解しているし、信頼している。
「…広場の端ですけど、乱入しようとしてた“主義者”を複数発見し拘束してます」
「矢張り来たか」
藍方石色の瞳が不快気に眇められる。
神聖な空気の中で密やかに交わされる声には、物騒な単語が入り混じっていた。
毎年の豊穣祭でも毎度ちらほらと散見されるが、五年に一度の大祭である今年は特に多い――それは、“至上主義者”と呼ばれる者達の些か過激な行動である。
貴花以上の《花》持ちを至上とし、それよりも下位にあたる《花》を疎んじる“至上主義者”達は、地位を越えて乙女達が舞を捧げるこの舞踊がお気に召さないらしい。曰く、『身の程を弁えぬ無礼者には何をしても構わぬ』とか。それを本気で言って、実行しているのだからうそ寒い。
更に、貴花以上をとの言からも分かるように、主義者達には貴花のものが大半を占めている。中にはそれよりも下位の《花》も存在するらしいが、ごく一部だ。
幾ら王花が含まれるといっても、《薔薇の騎士団》の精鋭騎士が全員駆り出されてまで舞手達の護衛をしているのには、こうした裏があった。
「どうします?」
「豊穣祭の期間中に諍いは法度だ。 罰は必要だが…一週間程、牢に放り込んでおけ」
「了解」
白銀の鎧を身に纏う騎士、それも団長と副団長が共に長く行動しいていては、大衆にあらぬ心配を掛けてしまう。周囲には決して漏れないよう、低く取り交わされるやりとりは迅速なものだ。
素早く身を翻した金髪の騎士は、一度だけ肩越しに舞台上のルーナリーアを見ると、どこか悪戯っぽい琥珀色の瞳を“青騎士”へと向けた。
「ルナちゃんばっか見てないで、仕事してくださいネ?」
「……お前に言われたくない」
たちまち、眉間の皺を深くして目を細める上司に対し、懲りた様子は無い。
それどころか、にひひ、とやや下卑た笑みを密やかに漏らし、エストは群衆の合間に身を滑り込ませていった。
浅い嘆息を空気に逃がし、舞台の上へ視線を向けたまま見惚れる民へと視線を向ける。
どうやらこの周辺には居ないようだが、いつ何事が起きても対処できるようにケインスの左手は腰に佩いた剣の鞘へ軽く添えられている。暴力や流血沙汰は法度――子供でも理解している祭の決まりすら遵守できないものが居た場合、拘束あるいはそれ以上の事も騎士達には許されている。
勿論、民が皆知者である事を願ってはいるのだが。
鳴り響く鈴の音が心を震わせるようで、深く青い色の瞳が舞台上に注がれた。
騎士としての職務があるのだと分かっていても、もう少しだけ、あの美しく可憐な《花》を愛でたいという誘惑に抗えなかったのだ。
奉納の舞も佳境に差し掛かっている。
宙に浮き上がった五つの身体が、タンッと軽やかに王花のすぐ傍へ着地すると、祈りを捧げるように跪く。それを見下ろす小柄な少女が、深い慈しみの微笑みを浮かべ両腕を広げると、それぞれの祈りに応えて五人の花冠と同じ花達が舞台上の土部分から一斉に芽を付け、花開く。
――シャンッ――
ため息のような、沈黙は僅かの間。
舞手の乙女達がゆっくりと立ち上がると、広場中が割れんばかりの拍手と喝采に包まれた。
◇
ウィンザー通りの広場で一度目、レジクス通りの広場で二度目。
そして最後に、このジェイル通りで披露した舞も全てが沢山の人から惜しみない拍手を送られた。
舞が終わったらすぐ移動し、また舞を――と短時間で進められる時間割はめまぐるしく、常時気を張ってばかりの舞手達は、大きな拍手に笑顔を返しながらも疲労の色が滲み出ている。
だがそれはとても心地の良いものだ。疲労の中にも大事をやり遂げた達成感に表情を輝かせており、ルーナリーアも例外ではなかった。
六人全員で顔を見合わせ、微笑む。そのまま、第三皇女を中心に佇んでいた配置から一列に並び、舞を見届けてくれた民達へ深々と頭を下げると、再び広場には拍手が響き渡った。
だが、まだ“最後の舞”が待っている。
五人の《花》で埋め尽くされている舞台を囲むようにして現れたのは、民族衣装を身に着けた楽士達だ。ヴァイオリン、手持ちハープ、アコーディオン、フルートなどを手にした彼等が奏でるのは、素朴だが陽気で、思わず皆が自然と口ずさみステップを踏みたくなるメロディーだった。
舞台上から見る六対の瞳にも、うずうずとしている皆の姿が映っている。誰かが先導のステップを鈴の音に合わせて踏みだすと先程までの神聖さはどこへやら、俄かに広場は明るい掛け声で賑やかさを取り戻す。
創世の神へ三度の舞を捧げ、最後は誰もが知る民謡の調べに合わせて踊るのが例年の流れだ。
今年もその例年に漏れず、神聖な舞とは又違った軽やかで明るいリズムを刻む乙女達――それに合わせて広場で沢山の人達が踊り、それに笑い声や陽気な野次が飛ぶ様は、これから一週間に及ぶ豊穣祭の始まりを告げるには素晴らしいほどの笑顔で満ち溢れていた。
陽気な一曲目が終わり、一息ついたルーナリーアの視界へ白銀が掠める。
楽しそうに踊る人々の中で、静かに青い瞳を注ぐケインスと視線が合い、思わず若葉色の瞳は嬉しそうな色を湛えた。三度に渡る舞の間、“青騎士”の男性は見守ってくれていた。
それが例え騎士としての職務であったとしても、静かながらも穏やかな眼差しがあったからこそ、ルーナリーアは終始落ち着いていられたのだ。
少女の視線が意味するものに、言葉が無くとも気付いたのだろうか?大きくは変わらないが、目が細められた事から肯定のようなものを感じ、ルーナリーアは余計に嬉しくなった。
いつの間にか、クドラは舞台の上から広場へと降り立ち、店主や幼馴染を含め“黄金の林檎亭”で働く仲間達と楽しげなステップを踏んでいる。エミリエンヌやリーゼロッテもそれに続こうとしており、ルーナリーアへ大きく手を振るクドラと幼馴染のクリスへ軽く手を振り返し、ルーナリーアも舞台から広場へ行こうとしていた動きが、ふと、停止した。
「―――…、………!…!」
賑やかな音楽と、歓声に包まれた広場の中では人波に隔てられて、ルーナリーアがその声を聞く事は叶わない。
身なりは良い事からして、裕福な家系の人物らしいが……恐らく酒に酷く酔っているらしき赤ら顔の中年男性と、同じく酒の毒に浮かされてる数人の男性達が何やら此方を指差し、わめいていた。
その男性達を中心にして、どうやら言葉が聞こえているらしき人々の足が止まっている。不安そうに顔を見合わせ、困惑している姿からして褒め言葉を言った訳ではないらしい。
異常に気付いた《薔薇の騎士団》に所属する騎士が二人、騒ぎを止めようと近付いていたが、喚き声を聞くなりサッと顔色を変えた。そのまま厳しい面持ちで男性達を引き離そうと動きにかかる。酒に酔った喧嘩にしては、仲間内で言い争う様子ではないし、一体どうしたというのだろうか?
同じ舞台近くとはいえ、真逆の位置であるクドラや、エミリエンヌとリーゼロッテは気付いていないようだが、広場を良く見渡せる舞台上に立っていたソフィアとテレーゼもどうやら異変に気付いたらしい。二人で顔を見合わせる姿を視線の端に留め、動向を見守ろうと若葉色の瞳を瞬かせたその目に映りこんだのは――
「――ルーナリーア!!」
喧騒の中においても聞こえる程、酷く切迫した声が鼓膜を揺らす。
いつも落ち着いて、穏やかな低い声が心地良い“青騎士”の男性が、こんなに急いた声を発したのを聞くのは初めてだった。今ならきっと、とても焦った顔をしているのかもしれない。それとも、普段と余り変わらないのか。
瞬き程の刹那に、酷く暢気な思考を巡らせたルーナリーアだったが、硬直した身体は咄嗟に動かない。見開かれた若葉色の瞳には眼前に迫るモノの姿がくっきりと刻まれて、みるみる大きさを増す。
酒瓶が。
咄嗟に身を強張らせ、強く目を閉じたルーナリーアに襲い掛かったのは、頭を槌で殴りつけられたような強い衝撃と、誰かの小さな悲鳴。
それが、酒瓶を投げつけられた自分自身の声だと気付いた時には、銀髪の少女は衝撃に耐えられず舞台上へ倒れ伏していた。




