豊穣祭 2
先程から大通りが何やら騒がしい。
空気を震わせるざわめきは“黄金の林檎亭”店内にも届いており、パンの乗った盆を手に買い物客達は顔を見合わせる――それは、店員であるルーナリーア達も同じだった。
豊穣祭の準備やらで賑やかになるのは毎度の事だが、水面に漣が広がるような静かな喧騒は祭に浮かれた若者達が繰り広げるものとは明らかに異なる。
異変を感じ取り、焼き釜の前でパンの焼き加減を見ている店主と幼馴染の青年も厨房から顔を覗かせた。不思議そうにルーナリーアを見てくる幼馴染には、軽く首を振って少女も事情を知らないのだと言葉無く伝えていたが、几帳面なノックを二回響かせて店内に足を踏み入れる人物に、若葉色の瞳は大きく見開かれた。
「失礼致します。 此方にクドラ・アヴェリン嬢とルーナリーア・ミストレル嬢は居られますか?」
汚れ一つ無い黒銀の甲冑を身に着けた男性の胸部には百合の紋章が刻まれており、店内に入りこそしないが、外で待機している何人かの人物も皆同じ格好だ。
普段なら主に“花皇宮”の警備や、要人の警護に就いている筈の《百合の騎士団》――それも、《薔薇の騎士団》へ菓子を届けに行く際、“花皇宮”へ至る門を護るこの人物にルーナリーアには何度か顔を見合わせた記憶があった。
「なんでぇアンタ? 騎士サマがうちの子達に何の用だ」
幾ら有名な騎士団直々の来訪でも、店主にとっては突然すぎて疑わずにはいられないのだろう。
声を上げようとしていたルーナリーアを背に庇う様にして、ずいと騎士の前に立ちはだかった店主は、丸太のような腕を腕組みし、仁王立ちで騎士を見下ろした。
ともすれば威嚇しているとも取られかねない対応にも関わらず、真っ向から受けた騎士の表情は露とも変わる気配が無く、凛々しい顔立ちを引き締めると、一寸の狂いも無い動作で右手を左胸に宛がう騎士の敬礼を店主へと送った。
「はっ、私は《百合の騎士団》所属のダニエル・ブラントと申します! 今年行われる豊穣祭の大祭に伴いまして、普通花の舞手にアヴェリン嬢、雑草の舞手にミストレル嬢が選定されましたので、ご報告に参りました」
「え?」
「は?」
狼狽したような声を上げたのは、ルーナリーアとクドラの二人同時であった。
“鳩が豆鉄砲を食らったような”顔で若葉色の瞳を激しく瞬かせるのはルーナリーアだ。黒髪の少女といえば、最初こそ黒檀の如き瞳を丸々と見開いていたが、すぐに状況を理解したのか可憐な唇には満腔の笑みが浮かんでいる。
「嘘!舞手になれるだけでも凄いのに、ルナと一緒なんて!」
「…え…?」
未だ状況が掴めず、目を白黒させるルーナリーアとは真逆に、普段冷静でクールな黒髪の少女は頬をばら色に染め上げて、銀髪の少女を抱き締めながら嬉しい悲鳴を上げている。
だが、銀髪の少女が少しばかり表情を曇らせると、それを見た騎士の男性は少々慌てた様子で言葉を続けた。
「あ、お嫌でしたら無理に出て頂かなくとも大丈夫です!その際は又別の方にお願い致しますので」
「いえっ…嫌だなんて、そんな…」
思いがけない言葉にルーナリーアは声をうわずらせた。
それから、黒髪の少女が驚いたように目を瞠っていることに気付いて、再び慌てる――そんなに嫌そうな顔をしていたのかと、狼狽したのだ。
「ルナ、私は折角の機会だから二人で舞を踊りたいけど…ルナが嫌なら無理して出る事は無いよ」
「ち、違うの!嫌なんじゃなくて…その、私でいいのかなって…」
少しばかり残念そうではあるが、本人の意思を尊重し決して無理強いをしない友人は矢張り優しい。ルーナリーアが人の多い場所は余り得意でないと知っているのだ。
そんな心優しい友人と一緒に、五年に一度の大祭でしか選ばれないという舞手になれた事が嬉しくない訳が無い。だが、ルーナリーアが躊躇うのには理由があった。
いくら舞手に選ばれた六人の女性は《花》の地位が関係ないといっても、矢張り高位になればなるほど、下位の者を蔑むのではないか?物心ついた時にはもう、理由の無い悪意に晒されてきたルーナリーアにとって、同じ舞手に否定され、大衆からも拒絶されてしまったら、きっと耐えられない…。
心中の葛藤を、数年来の付き合いであるクドラは明瞭に読み取ったらしい。
「大丈夫。 だって位の関係ない六人が集まる事なんて、誰でも知ってることよ?もし、私やルナを疎んじる人なら、そもそも参加なんてしないだろうし…できないでしょ?」
そっとルーナリーアの手を包み込み、自信に満ちた顔で笑ってみせた黒髪の少女が直立不動で佇む騎士に視線を向けると、しっかりとした頷きが返ってきた。二人の反応を見て、ようやくルーナリーアの表情にも明るいものが戻ってくる。
一番不安だったものが解消されると、現金にも胸中に沸き上がってくるのは叫び出したい程の嬉しさだ。これがルーナリーア一人であれば少々不安も残るだろうが、大切な友人の一人も一緒に居るとあっては、喜びもひとしおだ。手を包む温かい温度に一度笑みを友人へ向けたルーナリーアは、そっとその手から身体を離すと、騎士の男性へ深く頭を下げた。
「ふつつかものですが、精一杯頑張らせていただきます…!よろしくおねがいします!」
「私も、宜しくお願いします」
二人の声が店内に響いた途端、天井や壁がビリビリと震える程の銅鑼声で歓声を上げたのは“黄金の林檎亭”の店主だった。打ち粉で真っ白の手を息子であるクリスの背中へ盛大に打ちつけ、酷く上機嫌な笑い声を盛大に響かせる。
「おお、こりゃめでてぇ!うちの子達が二人も一緒に舞手とはなあ…店は開けとくつもりだったが、こりゃあちゃーんと見に行ってやんねぇとな!」
「ぐっ、オヤジ!いてえよ!」
幼馴染の青年と言えば、背中に白い手形をくっきりと残され、挙句痛みに顔を顰めてと父親から散々な扱いを受けていた。だが、二人を視界に認めるとターコイズブルーの瞳は我が事のように、嬉しそうに細められる。
「ルナ、クドラ。 二人とも頑張れよ、絶対見に行くからな」
「ありがと、クリス。 ルナと一緒なんだから何も問題ないわ」
「…二人ともありがとう、私、皆の足をひっぱらないように頑張るね」
こんなにも豊穣祭が楽しみなのは、両親が流行り病の熱病で逝ってしまってから初めてだ。
五年に一度の舞手という重要な役割に緊張する一方、わくわくするような楽しさと嬉しさを抑えられず、ルーナリーアは満面の笑みを浮かべて見せた。
楽し気に話す銀髪の少女へ密かにほっとした吐息を零したのは、《百合の騎士団》に所属する騎士だった。“花皇宮”への入宮の際、二言三言言葉を交わすだけではあるが、《薔薇の騎士団》へ差し入れするついでだと何度か焼き菓子を貰ったことがある。
確かこの少女は野苺の《花》だったか――可憐な《花》を体現するように、心優しく笑みを絶やさない少女が舞手の候補になった時には驚いたし、雑草であるが故の不安はもっともだが、偶然にも友人同士らしい黒髪の少女が後押しをした事もあって、曇った顔に笑顔が戻るだけでこんなにも店内は暖かな空気に満ちる事を本人は気付いていまい。
…不思議な人だ。
そんな考えをおくびにも出さず、騎士の男性はパンを買う客も巻き込んで盛り上がる銀髪の少女達へ連絡事項を伝えるべく声を張り上げた。
「それでは!お二人には!舞の練習を受けて頂きますので!日程を――……」
◇
“花皇宮”の内部、やや外殻に近い位置に存在する《薔薇の騎士団》詰め所内の芝生に覆われた広場には、剣戟の交わる激しい金属音と、騎士達の気迫に満ちた声で溢れていた。今は模擬戦にて一対一の打ち合い中だ。
流石に剣の刃は潰しているが、全力での打ち合いである。油断していれば運が良くて青痣打撲か、運が悪ければ骨折くらいは覚悟しなければならないだろう。
幾種もの花香を含んだ強い風が芝生を揺らし、藍色の短髪を悪戯に搔き回したとて、“青騎士”たる男性は瞬きすらもせず、一定の距離を保ち佇む対戦相手へ深く青い瞳を向けていた。向かいに佇むのは納まりの悪い金髪を風に靡かせ、そこから覗く琥珀色の瞳をきらきらと輝かせている副団長だ。
剣を片手に持ちながら緊張とは無縁の佇まいで剣先を地面に向け、温和な顔のままであるエストと、巨躯を静かに佇ませて石の如く佇むケインスは余りに対照的である。
「団長ー、そういえば知ってます?」
「……む」
稽古中とはいえ、余りに気の抜けた声を出すエストに流石のケインスも眉を軽く寄せる。だが、短く声を発した事から続きを促されていると感じたエストは変わらない口調で、明日の天気でも話すように衝撃発言を中庭に響かせた。
「今年の豊穣祭…奉納の舞に、ルナちゃん出るんだってー」
「…な…!」
「あ、スキあ…――りッ!!」
一体何処から仕入れてくる情報なのか偶に疑いたくなるが、エストの情報網は確かだ。
思わぬ事実に稽古中である事を一瞬忘れ、青い瞳を瞠目させたケインスへ口元を大きく撓めた笑みに形作ったエストは、次の瞬間に芝生を強く蹴って飛び出していた。
瞬きの合間で間合いの外から一気に踏み込んだ時には、やる気無く下を向いていた剣先が不吉な輝きを孕んでケインスへと襲い掛かる。普段は誰よりものんびりとしていて緩いこの男こそ、猛者の集まる《薔薇の騎士団》内で“斬り込み隊長”“瞬光”と呼ばれている事を改めて思い出させる一瞬だ。
「……エスト、公正にと言っているだろう…」
「むー、こうでもしなきゃ団長に勝てないもんー」
唇を尖らせるエストの手に、稽古用の剣は無い。
“瞬光”をも凌ぐ速さで繰り出された白刃が、エストの剣を弾き飛ばし芝生の上へと落としていたのだ。一瞬前まで、確かにこの“青騎士”は思いもよらない情報で動揺したのは確かだが、全力で踏み込んだエストをそれでもここまで近づけさせない技量は数年来に渡り“青騎士”の座に在り続ける者の実力といったところか。
白刃を鞘に戻しながら、妙に疲れたような吐息を微かに漏らしたケインスへ向けられたのは、全く反省の色が伺えない至極のほほんとしたものであった。
今度こそ大きくため息をついた“青騎士”に対して、至極楽しそうなエストはといえば、弾き飛ばされた白刃を拾って鞘に納めながら、琥珀色の瞳を悪戯っ子のように輝かせている。
「にしても、団長があそこまで動揺するとは思わなかったなー…」
「全く知らぬ人間ならともかく、知人が舞手になったと知るなら当然だろう」
「え、…本当にそれだけ?」
「……お前は、私に何を期待しているんだ…」
普段は無表情を貫く上司が、頭痛を堪えるように額へ軽く掌を当てて呻く様子が可笑しいのか、金髪の騎士はにんまりと微笑んだ。
「創世の神エトに舞を捧げる麗しの乙女――を、護る薔薇の騎士とか、ちょー絵になりません?」
「絵になる、ならんで仕事をするな、馬鹿者」
全く、頭の痛くなる部下だ。帝都を警邏している時、その容姿と凛々しさに頬を染めている少女達へ今の姿を見せてやりたいものだ、と珍しくケインスは心中で毒付き、顔を顰めた。
だが――記憶に残る少女を思い浮かべる。
月の雫を一滴零したかの如き銀髪と、控えめな微笑を彩る若葉の生気に満ち溢れた瞳。折れそうなほど華奢に見えて、実のところしっかりとした芯を持つあの少女が舞踊する姿はさぞ美しい事だろう。
お調子者の部下へ言葉にして賛同すると、忽ち有頂天になる事を知っているケインスは決して口にしないが、部下達と共に何やら盛り上がる姿を見遣る青い瞳には穏やかな色がたゆたっていた。




