豊穣祭 1
「いつ見ても、ここはとても綺麗ですね…」
雲一つ無い青空の下、欅の梢に守られて咲き誇る幾百もの美しい花々を見渡して、ルーナリーアは溜息にも似た呟きを落とした。帝都ルシュタンブルの中央に鎮座する“花皇宮”――その敷地内は何時来ても、本来であれば咲く時期も異なる花達がそれぞれの春を高らかに謳歌している。
《薔薇の騎士団》の騎士達へ、ルーナリーアが菓子を届けに行くようになって約一月。“花皇宮”の中にある騎士達の詰め所に赴くのも既に五回を数えているというのに、何度見ても溜息が出る程に皇宮の中は美しい。
特に、“花皇宮”敷地内の至る場所に設置されている東屋の周辺には、東屋の中に微風が吹き込むだけで噎せ返る程の花香に包まれる程、色も種類も様々な花が咲いているのだ。
自宅のすぐ傍にある森の中に咲く花達は、四季折々の花を咲かせて元気に咲くが、ここの花達は何処か神秘的な雰囲気を醸し出していた。
噂ではユルドゥーズ帝国の皇帝を始めとする王花は全ての《花》から愛されているが為に、“花皇宮”には通年を通して様々な花で埋め尽くされているという話だが……いずれにしても、普通ではまず見る事のできないこの風景は、ルーナリーアの楽しみの一つである。
「……楽しそうだな」
「あっ、申し訳ありません…!」
鼓膜を震わせる低く、じわりと胸に染み渡るような深い声がルーナリーアの意識を引き上げると、少女は慌てて東屋の外に向けていた視線をテーブルを挟んで対面に座る男性へと向けなおし、背筋を伸ばした。
そこに座るのは、座っていても分かる程に上背の高い男性だ。
光の加減で黒にも、青にも見える濃い藍色の短髪と、藍方石を思わせる切れ長の鮮やかでありながら深い海の底を思わせる落ち着いた瞳。精悍な顔付きと、引き締まった体躯から武芸に秀でた人物だと誰しもが思うが、仕草の一つ一つが洗練されている為かそこに鈍重さは露ほども感じられず、まさに美丈夫といった男性だ。
この男性こそ、帝国が誇る《薔薇の騎士団》の頂点に立つ団長にして、“青騎士”の別名を持つ人である。
騎士団に入団する事を許されているのは、端麗花以上の《花》のみ。
そしてこの“青騎士”たる男性は、青薔薇の希少な稀花だ。本来であれば、位としては最下層に位置する雑草のルーナリーアがこうして会話をする事すらおこがましいのだが…何の因果か、毎週こうして東屋で菓子を摘む間柄になってしまった。
「いや…“花皇宮”の花は美しい。 毎日見ている我々ですら足を止めるのだから……それに、貴女の菓子を頂きながらだと尚そう感じる」
“青騎士”――ケインスは余り大きく表情を変えない為、一見すると無表情で近寄りがたくも思ってしまうが、そうでない事をルーナリーアは知っている。寧ろ、誰よりも心優しい人だということも。
今も、一定の低い声色で話すケインスに笑みは見当たらない。だが、僅かに細められた目尻とたゆたう美しい碧眼には柔らかなものを感じさせて、思わずルーナリーアは頬を綻ばせた。
「そう言って頂けると、とても嬉しいです。 今日は洋梨と林檎のタルトですが…お口に合いましたか?」
「ああ、…とても美味い」
ケインスの前に置かれている皿の上には、半分程食べ進められたタルトが差し込む陽光に艶を反射している。幼馴染から貰った洋梨が良い塩梅に熟した為、林檎と一緒にコンポートにしたものを中にたっぷり入れ、表面には林檎の薄切りを綺麗に並べて焼いたタルトである。
砂糖の配合を少しだけ少なめにはしたが、果物の甘みで十分な筈だ。タルトへ視線を落としたケインスの口元がほんの微かにではあるが弧を描くと、それを見たルーナリーアは益々嬉しそうに笑った。
「…今日は誰がコレを食べられるだろうか」
「ええと、今日は確か……チェス、でしたね…」
「ああ、何処からか引っ張り出してきたようだ」
菓子を持って行って早々に始まった今週の争奪戦は、白黒の駒と盤で雌雄を付けるものだった。
一番初めの殴り合いに比べれば随分と可愛らしく紳士的なものだが、盤を挟んで対峙する騎士達の目は獲物を前にして飛び掛る寸前のような、鋭い眼光を携えていた事を思い出す。
毎週、ルーナリーアが菓子を届ける度に何かしらの勝負事で騎士達が菓子を争奪するのは、『様々な事柄に柔軟に対応し、欲しいものは自分で手に入れる力を養う為』などと尤もらしい事を誰かが言っていたが、単に騎士団の人数に対して、ルーナリーアが持参できる量が足りていない事が原因だろう。
幾ら朝早くから作り出したとて、腕は二本しかないし、何よりもルーナリーアの自宅がある帝都の端から、この“花皇宮”までは徒歩で一時間近くかかる道程だ。女の細腕で人数分を抱えて持ってゆくには、とてもではないが遠い距離である。
馬車や迎えの話も出たが、これには流石のルーナリーアも遠慮した。元々好意だった事が、ただでさえ過ぎる程の報酬を頂いている身であるし、これ以上の迷惑を掛ける事は憚られた。
その為、自然と争奪戦が起こるようになったのだが、毎週趣向を変えた争奪戦をするあたり、どうやら騎士団の皆も楽しんでいるらしい。
「まあ、エストは必ず食べているだろうが」
「そういえば…エストさんは、とてもお強いですが、チェスもお得意なのですか?」
骨ばった指先はともすれば武骨に感じられるが、この男性からは全くそれを感じる事はない。優雅、と言って差し支えない所作でタルトを口に運ぶ合間、決定事項を話すような声色で淡々と話すケインスにルーナリーアは若葉色の瞳を一度瞬かせた。
そういえば、毎週のように様々な種類の争奪戦が行われているが、必ず何かしらの戦利品を手にして満足そうにしている姿があった気がする。金髪に琥珀色の瞳を何時も楽しそうに輝かせている男性が《薔薇の騎士団》副団長その人なのだから、武芸に秀でている事は勿論分かるが――。そんな疑問が顔に出ていたのだろう、ルーナリーアを見る青い瞳がふと笑うように撓められて笑みを形作ると、途端に少女の鼓動は大きく跳ねあがった。
「他の者達が劣っている訳では決してないが……エストは、勝負事にめっぽう強い」
「勝負事…」
「ああ、運が良いというか、勘が利くというのか…。 武芸にも天賦の才を持つし、元々伯爵家の男だからな。当然、政も…チェスなど、得意中の得意だろう」
「そんなに凄い方だったのですね…」
部下の話題が出る時、“青騎士”の男性はとても優しい目をする。
それは長い時間を共に過ごし、時には命をすら預けあう者同士の目に見えない絆のようなものだ。他者に対してそこまで深い想いを抱いた事のないルーナリーアにとっては、少し羨ましい眼差しだった。
「――今頃気付いてくれたー?俺って、超すっごいんだよん」
「きゃあ!」
「……」
のほほんとした温い声が響いたのは、ルーナリーアとケインスが腰を下ろす東屋のすぐ傍だ。可憐な黄色い小花の咲く生垣から、零れるような輝きの金髪を覗かせ、琥珀色の瞳を輝かせたエストが悪戯の成功した子供のような満面の笑みを湛えていた。
気配などというものを感じる術のない、至って一般人のルーナリーアは突如金髪の騎士が現れて椅子から飛び上がらんばかりに驚いたが、対する“青騎士”は表情筋の一つも動かさず黙然とした視線を送るだけである。
「でもね、ルナちゃん?俺なんて可愛いモンだよ?」
「は、はあ…」
未だ驚きに心臓の鼓動が治まらないルーナリーアを他所に、盛大に葉擦れを起こしながら東屋へと入ってきたエストの手には、薄紙に包まれた戦利品が顔を覗かせている。
東屋に椅子は二つしか無い為、柱へ背を預けて立ったままタルトを食べ始める金髪の騎士は、先程の会話に不満があるのか、唇を尖らせながら琥珀色の瞳を“青騎士”へと向けた。当然ながらルーナリーアには真意が分からず首を傾げるだけだが、エストは実に不満タラタラと言った様子で愚痴を零した。
「いくら俺でも、団の何人かで挑んでも、団長には勝てないからね。 何やらせても破格の強さって反則だと思いまーす!ぶーぶー!セコイー!」
「…人がイカサマで勝っているような物言いをするな」
今まで黙々とフォークを動かしていたケインスだったが、部下の抗議には反論すべきものを得たらしい。微かに目を細めて淡々とした言葉を吐く姿は、先程までとさして変わらないようでいて非難の響きを帯びている。とん、とん、と指先がテーブルの上を軽く叩く様子から、結構にご立腹のようだ。
そういえば、騎士団の皆は勝利する事で菓子にありつけている状態だが、団長であるケインスだけは争奪戦に参加せず菓子を食している。それは、一番最初の流れでなんとなく続いている事でもあったが、騎士団の皆が団長だけ、と非難しないのはエストの言う理由が裏にあったのやもしれぬ。
こうしてゆったりとした時間を過ごしている時、いつも忘れてしまいそうになるが、目の前で部下である金髪の男性と応酬しあう男性は、帝国の中でも精鋭が集まる《薔薇の騎士団》の騎士達を纏める存在だ。
何とも不思議な縁があってこそ、この賑やかな輪の中に入れている事を密かにルーナリーアは感謝した。だが、“青騎士”の男性と楽し気に話していたエストがルーナリーアへ前屈みになって琥珀色の瞳が近付くと、少女は若葉色の目を大きく瞠った。瞳に映るのは子供のように笑う金髪の男性だ。
「そういえば、ルナちゃん。 そろそろ豊穣祭の時期だけど、誰かと行くの?」
「豊穣祭……ああ、そういえば。 今のところ、予定はありませんが…」
豊穣祭とは、一年の豊穣と安寧を創世の神エトに感謝する祭のことだ。
祭は毎年各都市で行われ、噂によると海を隔てた異国の地でも行われているのだとか。当然ながら帝国の首都であるルシュタンブルでも毎年盛大な祭が催され、日程は一週間にも及ぶ。
この期間ばかりは皆仕事を休み、上流階級や皇族達が無償で振舞う酒や食べ物を大いに楽しむのだ。
帝都だけでなく近隣の街からも祭に合わせて訪れる者が多く、帝都を走る大通りは人、人、人だ。
開催期間中、一日くらいは繰り出すかもしれないが、元々沢山の人の中に居る事が余り得意でないルーナリーアは曖昧な笑みを浮かべた。それを見て、ぽつりと呟いたケインスに大きく頷いたのはエストだ。
「…今年は、大祭ではなかったか?」
「そうそう!今年は大祭だから舞もあるじゃん?絶対見たいよねー」
豊穣祭の歴史は古く、一千年以上も前の文献にも記されている程だ。その豊穣祭にいつの頃か“大祭”というものが五年に一度催されるようになった。
文献によれば、特に豊穣に恵まれたある年、より一層の感謝を込めて六人の女性達が舞を奉納した事が起源になっているらしい。それは現代でも続いており、五年に一度の大祭時には、それぞれの地位である《花》持ちの女性六人が舞を捧げている。
この時ばかりは稀花や普通花など、《花》の地位を問わず、協力して手に手を取り合い神秘的な舞を踊る六人の花姫達に誰もが賞賛や賛美、或いは感嘆を送るのだ。
「舞があるのでしたら是非私も、見てみたいです。 五年前の大祭では見られませんでしたし…」
余りに楽しみで前日眠れず、朝方になって熟睡してしまったせいで一番見たかった舞を見逃した五年前を思い起こすと、ルーナリーアの唇には微かに苦笑が浮かぶ。がっかりする娘を慰める両親の優しい面影も同時に思い出し、思わず零れた自嘲を含んだ声色に“青騎士”の男性は小さく片眉を動かしただけだった。
「えー!じゃあ俺が一緒に見に行ってあげよっか」
「…エスト。 我々は街中の警備と、舞を踊る《花》達の警護だろう」
にへらっと表情を緩めて、自分を指差すエストへ無常な声が降り注いだいのは抜群のタイミングだ。
忽ち「鬼!」やら「むっつり!」やらと喚き出す金髪の男性が早々に沈黙してくれる事を、ルーナリーアは切実に願った。
目の前に座るケインスの眉間の皺がこれ以上深くなると、あとが残ってしまいそうだ。