想い
樫木さん視点
「でね、私もうどうしようかと思ったんですよ」
コーヒーを飲みながらにこにこと楽しそうに昨日のうさぎの着ぐるみを着た変人の話をする安東 真紀ちゃん。
いつもご贔屓にしてくれるお客さんだ。
いや、彼女は俺の中で一番大切な人なんだけどね。
真紀ちゃんは覚えていないかもしれないけど、ちょうど10年前、俺達は会ってるんだよ。
旧姓、佐賀原 真紀ちゃん。
「頭なでられた時にはもうね、驚きすぎて…」
知ってる?真紀ちゃん。
昨日のうさぎ、俺なんだよ。
最近真紀ちゃん、図書館から出るの遅いから心配だったんだよ。
新しく図書館で勤務するようになったあの男。
一日何回真紀ちゃんのことジロジロ見てると思ってるの。
気づいてないの?
ねぇ真紀ちゃん、毎回ここにくる度に真紀ちゃんが使ってるそのマグカップ、俺のなんだよ。
俺、それでコーヒー飲む時が一番幸せなんだよ。
世の中には、気づかない、知らないほうがいい事がたくさんある。
俺は真紀ちゃんが好きだ。
正樹の家に遊びに行くたび、無邪気な笑顔で出迎えて、もみじのような手をいっぱいに広げて抱きついてきた幼い頃の真紀ちゃん。
たぶん。その頃から俺は恋心を抱いていたんだろう。
10歳も年の離れた、しかも親友の妹に。
正樹が真紀ちゃんと一つ屋根の下で暮らしている。
正樹が真紀ちゃんと同じものを飲み食いする。
兄妹なら当たり前のことだろうけれど、俺は当時、正樹に激しい嫉妬を抱いていた。
だから、正樹がトラックに轢かれて死んだ時は正直、悲しいよりも真紀ちゃんが俺のものになるという気持ちのほうが強かった。
最低だ。
激しい自己嫌悪に襲われながらも、それでも真紀ちゃんのことが頭から離れなかった。
お経と佐賀原家の親戚が囁く下卑た噂、お香の匂いがこもる葬式。
まさか、あんなことが起こるなんて。
真紀ちゃんの母、佐賀原 郁代さんが真紀ちゃんに手をあげていたのだ。
あの時のことはよく覚えている。
普段のおとなしい姿からは想像もつかない、理性を失ったように真紀ちゃんに何度も平手打ちをする郁代さん。
力無く泣き続け、されるがままになっている真紀ちゃん。
畳に散らばる無数の鉱物。
異様な光景だった。
そして郁代さんから発せられた言葉。
糸が切れたようにゆっくりと大きく傾く真紀ちゃんの体。慌てて手を伸ばし、支える。
早鐘のように動く心臓の音、頭に血がのぼる。
俺は知っていた。
郁代さんは真紀ちゃんより正樹のことを愛していた。
いや、溺愛していたのだ。
だからいつも正樹にくっついている真紀ちゃんが憎かったのだろう。
けれど、二人とも郁代さんの子だろう。お腹を痛めて産んだ可愛い子じゃないか。なんてことを口走るのだ。
「この馬鹿が!!!真紀ちゃんに謝れ!馬鹿が!」
気づけばそんなことを喚いていた。
思えばあれが初めてキレた時だったのだろう。
その後は、あまり覚えていない。ぼんやりと、とにかく大変だったということしか。
親子の縁を切り、親戚に引き取られた真紀ちゃんとは一切接点がなくなり、9年間、虚無感を抱えたままただ淡々と日々を過ごしてきた。
頭の中はいつも真紀ちゃん真紀ちゃん真紀ちゃん真紀ちゃん真紀ちゃん。
俺の世界はいつも真紀ちゃんが中心だった。
親父の会社の支店を切り盛りしながら生活していたそんなある日。
真紀ちゃんと再開した。
ちょうど梅雨に入った季節だった。
牛乳の入ったビニール袋を片手に俺は支店兼自宅へと歩いていた。
雨だからかひと気はない。信号がちょうど赤信号に変わったそんな時だった。
傘もささず、ずぶ濡れになった女の子が道端でうずくまっていた。
なんだろう?体調が悪いのだろうか?それとも浮浪者か?
こんな雨の中ならたとえ気温が高くても体温が奪われる。
見兼ねて、声をかけた。
顔を見て驚いた。
ぱっちりした目、ふっくらした頬、少し開かれた形の良い唇。
手にはいっぱいの鉱物。
「樫木さーん?」
あぁ、物思いにふけりすぎたようだ。
心配そうに顔を覗き込む真紀ちゃん。
居る。側にいる。たまらず、手を伸ばし肩に触れる。
手のひらにじんわりと温かい体温が広がる。
「樫木さん?」
「ふふっ」
駄目だ。にやけてしまう。
あーあ、こんな時間がずーっと続けばいいんだけどなぁ。