書生とペルシャ猫
「ただいま帰りました」
扉を開けるとふわっと甘い香りが混じる空気が肺を満たす。
あぁ、あの方の香りだ。
異国の香りを楽しみながら外套と帽子を脱ぎ、ハンカチで手を入念に拭く。
あの方に触れるのなら、綺麗な私でないとならない。
指の一本一本を丁寧に拭く。
汚れや外の空気や匂いがついた手で触るなど、あり得ない。
綺麗な私でないと、恥ずかしい。
下宿させてもらって、同じ一つ屋根の下で暮らしていることすら気恥ずかしいというのに。
異国の血の色が濃く出ている青い、大きな、しっとりと濡れた瞳。
陶器のように白い滑らかな肌。
薔薇色のふっくらとした頬
柔らかく空気を含んだ薄い色素の髪。
長い、美しい手足。
その異国の天使と呼ばれる容姿とは逆に、話す言葉は私と同じ言葉。
着ているものは私が仕立てたあの方に似合う、群青色の着物。
「昌司さん、お帰りなさい」
小鳥が囀るような、小さな鈴が鳴るような美しい声が鼓膜を揺らす。
なんて美しく、愛おしいのだろう。
「マリーさん、お薬はちゃんと飲まれましたか?」
紅茶を入れる準備をしながら問うと、彼女は少し俯いて黙り込んでしまった。
風邪のせいもあるのか、今日は少し儚い感じがする。
まるで、触れると壊れてしまいそうだ。
「いけませんねェ。風邪は万病のもとと言います。ここのところ微熱続きでしょう? いけません。いけませんよゥ」
お湯を注ぎながら諭すと、ますます縮こまってしまった。
嗚呼、別に怒っているわけではないのに。
私は貴方が心配なのだ。
最近よく真夜中に足音がするのだ。きっと熱を持った体がだるく、よく眠れないのだろう。
かぁいそうに。今日はよく眠れるよう、特別なお砂糖を入れてあげよう。
袖に入れた薬包紙を取り出し、そっと入れてよく混ぜる。
うん、これでいいだろう。
「ごめんなさい、でも…」
不服そうに顔を上げ、何かを言い出そうと動く口を指を押し付け制す。
「言い訳は感心しませんねェ。まぁいいや。私は貴方が元気になってくれればいいんですよゥ。ささ、紅茶を淹れましたからそこに座ってください」
何か言いたそうに訴える目をしながらも、素直に籐椅子に腰掛けてくれた。
うん、いい子だなァ。
はい、どうぞ。とティーカップを差し出すとふんわり笑う彼女。
彼女は私の淹れる紅茶を気に入ってくれているようだ。
いつも特別なものを入れているかしらん。
マリーさんはどちらかというと社交的な方なので元気だといつも外に飛び出し軟派な男に絡まれるから風邪を長引かせないと…。
書生である私なぞ、すぐに追い出されるだろう。
風邪が長引くマリーさんはしんどそうでかぁいそうだけれど、こうすれば少しの間は私だけを見てくれるだろう。
紅茶を4口、5口飲んだあたりで彼女は眠たくなってきたのか、大きな目を細めた。いつか絵で見た、異国の猫のようだ。
「マリーさん、眠たいんですか?」
「はい…私…眠たい…」
「温かい紅茶で体がほかほかしてきたんでしょう。寝室、運びますね」
するっと帯を解き、長襦袢の衿を緩めると首に手があたってくすぐったいのか少し呻く声。
紅茶を飲み、いつもより赤い頬、潤んだ瞳を見ると理性が弾け飛びそうになる。
懸命にこらえ、彼女を両腕にかかえる。
柔らかい肌と温かい体温を感じながら階段を登り、寝室をそっと開ける。
彼女の香りが全身を包むのを感じ、五感がビリビリと刺激される。
「ベッドに降ろしますよ」
一言声をかけ、そっとベッドに降ろす。
ギシリ、と軋むベッドの音に少し邪な想いが浮かぶ。
いけないいけない。私はこの方の深くまでは入り込んではいけない。
今は、ただ貴方の側にいれるだけで幸せなのだ。
今は。
「では、おやすみなさい」
いつか、貴方を私のものに。
閉じられた瞼に少しハイカラにキスを一つ。