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嵐の海に浮かぶ月影  作者: 柚田縁
第一章
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4. 三月

 夕食の事はさておいて、私はあの男がどうなっているのかが気に掛かったので、そのまま客室へ向かった。部屋のドアを、今度はノック無しにいきなり開けた。

 あの男は普通に目を覚まして、ベッドから上半身を起こしていた。眠っていたのはむしろ、それを見張っているはずの冬馬だった。

 部屋に入った瞬間、私と彼の目は数秒間交差したまま固まっていた。相手はどうか知らないが、少なくとも私は、目の前にいる存在に何かを感じていた。何か、というのをどう表現すればいいのか、私にはよく分からなかったが、もしも誤解を恐れず強引に例えるなら、運命の人にやっと出会えたかのような、奇妙なほどに強い親近感だった。

 私は、ハッと我に返り、男に声を掛けた。

「もう、いいの?」

「あ、うん」

話し掛けられた男の方も、たった今我を取り戻した風だった。

 その短い会話に、冬馬は目覚めた。

「アレ? 起きてる?」

目を擦りながら立ち上がる彼に、私は言った。

「そうよ、冬馬。眠ってたのはあなたよ。さ、父さん呼んできて」

「はーい」

 私は、部屋を後にする冬馬の後ろ姿を目で追い、それが見えなくなると、再び男に目を戻した。どういう訳か、彼の顔は何か恐ろしいものを見たときのように、青ざめていた。

 何故そんな顔をしたのか想像も付かないが、私はそのあまりの表情に、何も話し掛けられなくなってしまった。

 やがて、父がやって来た。彼は早速、素性の知れない男にすべき最初の質問をした。

「まずは名前を訊きたい」

すると男は、少し俯いて答えた。

「思い出せません」と。

「思い出せない? じゃあ、乗っていた船は?」

彼は無言で首を振った。

「まいったなぁ」

と、小さく呟く父。

 その後も、父は次々に質問をしていった。問われた男も、まだ意識の混濁が若干残っているのか、迷いながら少しずつ答えた。

 様々な質問の答えから明らかになったことは一つだけだった。それは、男が記憶喪失であるという事。そのたった一つが、唯一、結果として示された。

「すみません」

本当に済まなそうな顔で、男は言った。

「いや、記憶が無いのはお前の所為じゃねー。気にすんな。そんなことより、俺らの紹介でもしておくか」

そう言って彼は、私たちの方を見た。

「じゃあ、この人も一緒にここで暮らすんだ?」

人見知りであるはずの冬馬が、何故か嬉しくて興奮したように問い返した。

「ああ、そういうことになる」

「僕はねぇ、冬馬! にいみやとうまっ!」

その口調から、冬馬がこの男の人にかなりの好印象を持っている事がわかる。だけど、私の知る限り、こういうことは実に稀だった。

 今度は私の番。

「私、冬の海って書いて、とうみ」

 最後に、父、入日が名乗る。

「俺は、入日。この船の乗員は以上だ」

 男は私たち三人の顔を、改めてという感じでじっくり眺め回していた。その間、誰も口を開くものはいなかった。

 不意に、父が言った。

「それにしても、アンタをどう呼ぶかなぁ。名前がないとやっぱり不便だろう」

アンタとはもちろん、この男の人である。

「何か、特別呼んで欲しい名前とかあるか?」

などと、無茶な事を私の父は言う。

 案の定、男は首を傾げて困り果てていることを表現していた。

「無いみたいだな。しょうがねー、冬海。こいつを最初に見つけたのはお前なんだ。お前が名付け親になってやれよ。な、いいだろ?」

最後の『いいだろ?』は、名付けられる当人に向けられていた。私にではない。私が名付けることは、父の中で既に決定された事なのだ。嫌だと否定することはできない。

「はぁ、構いませんが」

 その場の視線全てが、一瞬のうちに私へ集まった。

「えぇ? うーんと……」

 そんな事になろうとは、全く予想していなかったので、私の頭の中はそのとき真っ白になって、何かが浮かんでくるような様子はなかった。

「そんな、急に言われても」

「じゃあ、俺が付けようか?」

と、父。なんという事を言うのだろうか。

「あ、それはやめて。なんだか嫌な予感がするから」

私は必死で拒否した。

「何だよ、それは」

父はそう不平を口にした。

 私は必死に名前を考えようとイメージを膨らませた。だが、何しろ、これまで何かに名前を付けた経験など全くなかったのだ。そう簡単に思い浮かんでくる筈もない。

 しばらく考えていると、ふと男が漂流しているときの情景が、目の前に蘇ってきた。

 嵐の後に訪れた、嘘のように穏やかな海面。その深く広大なスクリーンに映し出されるのは、現実離れした幻想美を抱いた三日月だった。

「三日月」

私は無意識に口走っていた。

「え?」という声が、周囲から上がった。

 私は決めた

「うううん、三月。みつきにする」

 そうして、彼の名は三月に決定した。


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