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嵐の海に浮かぶ月影  作者: 柚田縁
エピローグ
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エピローグ

 警告は気象情報センターから送られてきたもので、嵐の接近を知らせるものだった。

 この瞬間を、私と父はその場でずっと待ち続けていた。

 少し身を固くした父が言った。

「来たな。冬海、これだと思うか?」

私は頷きながら答える。

「うん。この前の嵐とよく似てるから、多分間違いないと思う」

「そうだな、よく似ている」

冬夜が海に消えてしまってから既に三日も経過していた。その間中ずっと、私達二人は現実の世界を生きている気が全くしていなかった。お互い上の空で、会話という会話が成り立たなかった。

 父は嵐についての情報を収集し、それを元に今後の船の進路を検討し始めた。センターから送られてくる嵐の進路予測は、年々その的中率を上げていた。確実ではないにしても、十四年前よりは確実に当たるようになっていた。

 私達の船から見て現在、嵐は南東に位置している。進路予測によると、このまま北上するということになっていた。

 それに対する船の進路は、真東。嵐の進行方向にぶつかるように進む事となる。

 常人から見れば、血迷った行為と見られるに違いない。

 だけど、この嵐に乗って大切な人が帰って来る筈なのだ。私たちはそれを迎えてあげなければならない。

 風に軋む船の音や、下から突き上げてきては去っていく波の感触は、十四年前の記憶をはっきりと蘇らせてくれる。同時に、私を安心させる。この嵐が、間違いなく冬夜を連れて来てくれるのだと。

 気象情報センターから警告は尚も送られ、けたたましいが、私達はその場を動こうとはせず、頑なに無視し続けていた。

 風や波がいっそう強くなり、警告が退去勧告に変わった。

 父がゆっくりと立ち上がり、退去勧告を発令し続けるモニターへ向かった。

「こんな状態になってから、退去って言われてもなぁ。見てみろよ、冬海」

私も不安定な足取りで立ち上がると、モニターへ向かった。

 リアルタイムの天気図によると、今私たちの船はちょうど嵐の只中にいるらしかった。

「確かに、こんな状態になって退去って、無理よね」

「まあ、無視し続けるとさすがに不味いし、船の故障という事にしておくか」

「この嵐で、本当に故障しそうだけどね」


 嵐が去った後の静かな海。

 空には千切れ雲と青白い月が浮かんでいて、静かに海面を照らしていた。

 船の甲板に出て、その月で明るくなった海面を眺めている私は、波間を漂う人影を見つけた。

 十四年前に、海で三月を発見した時とよく似た状況だった。ただ、あの時、この場に父はいなかった。

「父さん、あれ!」と、私は指差した。

 冬夜が無事に帰って来る事は信じていたが、波の向こうに船影が見えるまでの間、全く心配していなかったと言えば嘘になる。

 実際、私と父は十四年もの間、この時のことを心配していたのだ。それはもう、飽きるほど。

 嵐の中をくぐってきた割に、彼が乗っていた小さなボートは、ほとんど傷付く事無く、さらに迷う事も無く、導かれるようにこの船に向かってきた。

 まず初めに、冬夜をボートから下ろし、その後クレーンでボートを回収した。意識を失っていた冬夜は、父によって船内に連れて行かれた。

 私はというと、ボートを良く調べ始めた。ボートは間違いなく、以前冬馬に貸してあげたものと全く同じだった。

 しかし本当は、向こうの世界にいる私が、冬夜に貸したボートという事になるのだろう。

 私はその事を確認すると、冬夜の部屋へ走った。

 冬夜はもうベッドの上に寝かされていた。それを、見下ろす父。

「どうなの?」

私は訊いた。

 父は、冬夜から目を離すことなく、答えた。

「息はあるし、目立った外傷もない」

「じゃあ」

私は安堵を込めた声を発したが、それを遮るように父は言った。

「意識が戻るまでは何も言えねーよ」

私は冬夜の傍らへ移動すると、ゆっくりと弱々しく上下する胸を見つめた。それが彼の生を裏付けるという訳ではないのだと、実感した。彼はこのまま、命を絶えてしまうかもしれないのだから。

 怖くて見ていられないのだが、目を離した途端に、呼吸さえも止まってしまうような恐怖の方が勝っていて、結局見つめ続ける事となった。

 父も同じなのだろうか、微動だにせず、冬夜を見下ろし続けていた。

 そのまま、日が昇るまでずっと。


 日が高く昇っていた。甲板の上は熱帯性の湿った風と、強い日差しとでもの凄い事になっていた。

 依然として冬夜は眠り続けていた。

 父はもうこの場から離れていた。

 つい今し方、連合の船がやって来たので、その相手をしていた。昨夜、退去勧告に、船の故障で動かないなどという後先考えない理由を返した所為で、親切にも様子を見に来てくれたのだった。

 私は椅子に座って、小さなメモ帳に思い付いた事を取り留め無い状態で書き付けていた。手帳に記されている文章は、もともと取り留めの無いものではあったが、今はそれに輪をかけた取り留めの無さだ。それというのも、常に冬夜のことが気にかかっていたからだ。

 ベッドに眠る彼は、人間離れした静かさで眠っていた。見ている方が不安になってくるほど、呼吸と呼吸の間が極端に長い。

 私は時々、彼の顔に耳を近づけ、生きていることを確認しなければならなかった。

 その時、彼の右頬に浮かんだ海底山脈のような傷に目がいった。これは、あの日グレータスによって刻まれたものだった。

 あの日以来、彼は鏡を見るたびにこの忌々しい記憶を思い出し、苦しんだ筈だ。

 この傷を付けることになった狂人グレータスの行方を、私は思い返した。

 彼はあの嵐の夜が明けるとともに遭遇した連合の巡視船に引き渡された。

 やがては、この広い海のどこかを彷徨っている監獄船へ収容される事となる筈だった。

 だが、グレータスはその後、しばらくしてから巡視船から逃げ遂せてしまったという話を耳にした。

 私は密かに、彼がこの船へ戻ってくるのではないかと恐れたが、幸い今もって再開した事はなかった。

 私は思考の海から帰還し、冬夜に目を戻して、顔の傷痕を指先でなぞった。

 人間の肌だとは思えないほど、硬くて乾いていた。

 と、その時だった。私が待ち望んでいた瞬間が訪れたのは。

 彼の目覚めは本当に唐突で、最初から何事も無かったのだという風に、むっくりと上体を起こした。

 余りのことに私は、しばらく動けなかった。

 ここはどこだと言わんばかりに、彼がきょろきょろと部屋中を見回し、私の視線とその視線とが交差したとき、冬夜はうっすらとではなく、はっきりと笑顔を見せた。

 その瞬間、私は思わず涙を流しそうになった。けれど、泣いたら冬夜は困り果てるだろうから、必死で抑え隠した。

「姉ちゃん……」

冬夜が掠れた声で言った。

「お帰り、三月」

冬夜が無事に帰ってきた時には、そう言ってやろうと十四年間考えていた。

 彼は聞いた瞬間、きょとんとしていたが、笑顔に戻ってこう言ったのだ。

「ただいま。姉ちゃん、ちょっと老けたんじゃない?」と。


(了)

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