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嵐の海に浮かぶ月影  作者: 柚田縁
第六章
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10. 嵐に終わる

 ふと気が付くと、その場に二人の男が倒れている。

 一人は冬馬。傷口の痛みの所為なのか、気を失っている。グレータスの手からすり抜けたのは、彼の意思ではなく、単に支えを失っただけに過ぎなかったらしい。

 そして、もう一人はグレータス。

 その近くに転がっている椅子を見て、私は自分の行動を思い出した。

 あの時、船は再び大波に捕まって揺れた。私はその揺れで近くに滑ってきた椅子を持ち上げ、グレータス目掛けて思い切り振り下ろしたのだ。

 あの瞬間、彼の意識にあったのは唯一つで、三月の体に深い傷跡を刻み付けるという快楽だった。だから、私の単純過ぎる一撃を、避けるなり防ぐなりできなかった。

 父は何も言わずに、グレータスをせっせと縄で縛り上げ始めた。

 私は冬馬の傍にしゃがみ、頬を軽く叩いてみた。目覚めは来なかった。

 すると、冬馬を別の角度で見下ろしていた三月が、何も言わずに冬馬を抱え上げた。そして、弟の部屋まで運んで行った。

 私もその後を無言で着いて行った。

 ベッドに冬馬が横たえられると、私はその顔に付いた血を自分のTシャツの裾で拭き取った。

 後で洗うのが大変だなと、本当にどうでもいい事が頭に浮かんだ。

 すっかり綺麗になった訳ではないが、私は拭くのをやめて、ベッドの隅に腰掛けた。

 それから、椅子に座って休んでいた三月を、本当の名前で呼んだ。

「冬夜」

「何? 姉ちゃん」

少しの空白の後、私は声も出さずに笑った。

 それをきょとんとした顔で見ている冬夜がさらに可笑しくて、もっと笑った。

 笑いの潮が引くと、冬夜が私に尋ねる。

「姉ちゃん、何がそんなに可笑しいのさ?」

「どう見ても年上の弟に、姉ちゃんなんて呼ばれるのが可笑しいのよ」

「ああ、そういう事か」

「それより、話してくれない? これからどうするのか」

「帰るんだよ。元の世界に」

「どうやって?」

「この嵐に乗っていくんだ。幾つかの世界を行ったり来たりしている嵐の話、聞いた事無い?」

「あんなの、お伽話じゃない」

「でも、僕はその嵐に乗ってこの世界にやって来たんだ。だから、多分帰れると思う」

「だけど、仮にその嵐がホントにあったとしても、また同じ場所と時間に帰れるとは限らないんじゃないの?」

「うん、そうだね。でも、この嵐は僕を元の世界に返すために起きたものだと思うんだ。この世界では、僕は死んだ人だからね。要するに、異物なんだよ。それに、確信もある」

「確信?」

「そう。嵐の進路だよ」

 私はハッとした。彼の言うことは尤もだ。実際に嵐が進んでいる進路は、気象学上あり得ないようなものだったのだから。

「僕は思うんだ。この嵐は、この船を追い掛けているんじゃないかって」

「それは、冬夜が乗っているから?」

「うん。異物である僕を、元の世界に戻す為に、この嵐は僕を追い掛けている」

 自信に満ちたその顔。おそらく、彼の言うことは正しいのだ。

「じゃあ、どうしても行っちゃうんだ?」

「うん。向こうにも待ってる人はいるからね」

「それって、私と父さん?」

「うん」

 私は考え込んだ。冬夜の事、冬夜がこれから帰るという世界の事を。

 私のいるこの世界では、冬夜は既に死に、冬馬が生きている。だが、冬夜のいた世界では、冬馬が死んで冬夜が生きている。

 つまり、多季さんが二人を出産するあの時、どちらが生き延びたのか。もっと言うなら、どちらが先に生まれたのかという事に対する答えが、それぞれの世界で異なっているだけ。

 私の世界では、冬馬が先に生まれ、冬夜の世界では、冬夜が先に生まれた。それだけの違いが、二つの世界を分けてしまった。

 私は頭を左右に揺さぶり、溜め息だけを残して、これ以上考えるのをやめてしまった。

「姉ちゃん」

「あ、何?」

冬夜の呼びかけは、あまりにも突然過ぎたので、私は変な返しをしてしまった。

「冬馬のことで、一つ言っておきたい事があるんだけど」

「冬馬の? うん、一つと言わず、いくらでも言って」

「冬馬と僕。名前こそ違うけど、生まれてからずっと、同じ経験をしてきている。ここで経験したこの一ヶ月ほど、僕はずっと昔、今の冬馬が立っている視点で、同じ経験した。だからわかるんだ。冬馬が泳げなくなった本当の理由が」

 私は思わず息を詰めた。

 冬馬が泳げなくなった理由、私が考えているあの北海での出来事ではないと、彼は言うのだろうか。

「確かに、冷たい海で溺れた出来事がきっかけなんだけど、それで直接海が怖くなった訳じゃない」

「じゃあ、何なの? その、あなた達が海を怖くなった理由って」

「姉ちゃん」

「何?」

「だから、僕たちが泳げなくなった理由は冬海姉ちゃんだ」

私は少しの間、思考がストップした。

 綺麗に漂白された意識の中で、おぼろげになりゆく自分だけを感じた。

 しばらくすると、白い世界そのものがスクリーンであるかのように、冬馬が海で溺れたあの寒い海がそこに現れた。

 ふと我に帰り、思わず辺りを見回す。風のゴーゴーという唸り声が全体を包んでいた。

 冬夜に目を向ける。彼は私の方をずっと見ていたらしい。

「私が……原因なの?」

そう言った私の声は、明らかに震えていた。

「別に、責めてる訳じゃないよ。多分、仕方無い事だったんだ」

「ねぇ、私がどういう風に関わってるの?」

 冬夜は少し顔を上に向け、遠くを見つめるような目をして、そのまま語り始めた。

「僕たちがあの日、海で溺れたことで、姉ちゃんは変わってしまったんだ。その時の事を僕は、はっきりと思い出せる」

「私が変わった?」

「うん。あの日から急に、姉ちゃんは大人みたいになった。確かに、姉ちゃんが今まで以上にしっかりしてくれるのは心強かった。でも僕は、何となく寂しかった。だから、姉ちゃんをあんな風に変えてしまった海が怖くなったんだ」

「そう……だったの?」

冬夜の言葉が私の意識の中核まで浸透するには、少し時間が掛かったので、私の返答は、随分ゆっくりとしていた。

「うん。冬馬は忘れてしまっているけど、後で突然思い出すと思う。僕みたいに」

「でも私は……そう、あの時、本当に私は冬馬を死なせてしまうところだった! だから、もうあんな事が絶対に無いように、言われた事だけはきっちりやろうと……責任を……」

 自分でも何を言おうとしているのか、形にならないまま頭の中をグルグルと回転している。

 そんな中で、ただ一つだけ言えることがある。冬夜の言うとおり、私はその日を境に変わろうとしたという事だ。

「今、十一歳だよ、姉ちゃん。そんなに背伸びする事なんて無いんだよ」

 私は正直言って、かなりショックを受けていた。今は、それが地になっているが、私が無理やり自分を変えようとしたのは、ひとえに冬馬の為だった。

 しかしながら、それが単なる自己満足だったという。

 私は少し遅れて返した。

「うん。じゃあ、がんばってみる。もっと十一歳らしく……もちろん、急には無理だと思うけど……あれ、冬夜! あなたならそれが私にできるのかどうか、わかってるんじゃないの?」

 だけど、冬夜は僅かな笑みを浮かべて、「さあね」と言った。

 その表情からは、役目を全て終えてしまい、束縛から解放された人がするような、清々しさが感じられた。

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