8. 隔てられた世界
それまで忘れていた嵐の存在を再び思い出させるように、船が上下に大きく揺れ、私は壁に叩き付けられた。
そのまま床へと崩れ落ちるそうになるが、それは三月が支えてくれた。
私を支えたままの体勢で、三月は言った。
「僕も最初は驚いた。死んだって聞かされた筈の冬馬が生きていたんだから。それも六歳の冬馬が」
言葉の意味がしばらく理解できず、少し経ってからやっと、私は訊いた。
「それ……どういうこと? 冬馬が、死んだ?」
冬夜はしばらく何も答えないで黙っていた。
静寂の所為か、私はさっきよりも外の嵐を近くに感じていた。そんな時、冬夜は語り始めた。
「僕にも起こったことしか言えないけど。始まりは、ちょうど今みたいな嵐の夜。この日は僕の二十歳の誕生日だった。大学は休みで、僕は偶々自分の船にいた。そう、この船だよ。僕は、父さんに呼ばれて操舵室にやって来た。そこには不安そうな顔の姉ちゃんもいて……。何か嫌な予感がしていたんだ」
そこで彼は言葉を切った。今度は、話す内容を纏めている風ではなく、単にその先を言いたくないだけのようだった。
私には、その先を催促する事なんてできないので、ただ黙って待っていた。
やがて、「僕は」と、彼は語りを再開した。
「僕はこの二十年間ずっと、冬夜として生きてきた。それがついこの間、聞かされたんだ。僕には死んだ弟がいたんだって! それが冬馬という名前だった。僕が生まれる時の事も詳しく聞いたよ。まるで僕たちが母さんを殺したみたいだった。だから……」
「そんな事ない!」
三月の言葉を遮って私は叫んだ。
三月は凍り付いたように動きを止めた。
「そんな事ないよ」
今度は緩やかに言った。
「私は一度もそんな風に思わなかったわ。あなたたち二人が、多季さんを死なせたなんて」
「それ、もう聞いたんだ。向こうの姉ちゃんにも同じ事言われた。でも、その時の僕には、何の意味もない言葉だったんだ。だから僕は、自分がこの世にいてはいけないような気がして、嵐の海に飛び込んだ。その後気が付いたら、この船のベッドの上だったんだ」
私は黙りこくったまま、目の前にいる死んだ筈の、もう一人の弟を見つめた。
冬夜の話を信じるなら、冬馬が先に生まれて育ったこの世界とは別に、冬夜が先に生まれて育った世界が存在するという事になる。
それは単に、朦朧とした夢幻の状態で多季さんが、保育器へと運ばれていく我が子に向かって呼び掛けた名前が違っていただけかもしれない。だけど、彼が冬夜として育ってきたというのなら、彼はやはり冬馬ではないのだ。
再び、目頭がどうしようもなく熱くなり始めた。
あの時、失ったもう一人の弟が、こうして立派な姿で目の前にいる。
ただ嬉しいという言葉だけでは表現しきれないそれは、感動という最早薄っぺらな台詞でしか言い表す術を知らない。
「さ、そろそろ行かないと」
三月が無理に明るい声で言った。
私は今現在、危険に晒されている方の弟を助けにいく為、両目を手で拭い、気持ちを強く切り替えた。