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嵐の海に浮かぶ月影  作者: 柚田縁
第六章
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5. 安息の場所

 夕食時。

 辺りには忍び寄る闇夜とは別の暗さが立ち込めていた。

 食卓には父、弟、私の三人。みんな黙り込んでいる。

 まだ具合が良くないというグレータスは、客室でおかゆという名のディナーを食べているところだろう。その事自体は、私をほっとさせた。グレータスと父をできれば合わせたくなかったからだ。

 三月はというと、後で後でと言いながら、結局まだエンジンルームから来ない。

 彼はずっと修理に精を出しているのだが、それが無駄に思えて仕方なかった。例え今すぐエンジンが直ったとしても、嵐から逃れる事はできないのだから。

 馬鹿な三月、とか口の中で呟いてみた時、それまで一言も発しなかった父が言った。

「冬海。あの客人の具合はどうなんだ?」

私は我に返って、父の方に顔を向けた。

「まあまあかな。ただ、すごく眠いらしいから、一人にしてあげようかなと思ったんだけど」

「そうか。これからもっと揺れるだろうからな。眠っていられる場合じゃないだろうが」

父なりの気遣いのつもりだったのだろう。

「ごちそうさま」

冬馬が席を立った。

 机の上の食器には、まだ食べ残しがあった。ただし、それはニンジンに限ったことではなく、全体的に。

 普段なら、私も注意しただろう。しかし、今回は多目に見てあげることにした。私だって本当は、喉が細いゴムホースに変わってしまったみたいな感じで、食べ物を無理やり流し込むように食べていたのだから。味などしないに等しかった。

「冬馬」

私は部屋を出て行こうとした弟を呼び止めた。

「グレータスさんの所に行って、食事が終わっていたら、食器を持ってきてくれる?」

「う、うん。わかった」

 冬馬が去った後、すぐに父も私も食事を終えた。

「冬海、三月の食事は持っていってやれよ」

父が去り際にそう言った。

 窓の外ではひたすらに強い風が吹き荒れていた。

「これじゃあ、持っていくのも大変だな」

私は呟き、三月の分に残しておいたご飯やおかずを、仕方無しに弁当箱へ詰め始めた。

 こんなに近いのに、なぜ弁当を持っていってやらなければならないのだろうか。そんな疑問を抱きつつ、私は外に出た。

 エンジンルームのある床扉を開け、鉄の階段をカンカンと冷たげな音を立てながら降りると、そこに重たそうな鉄扉がある。私はその扉を強く叩いて、彼の名を叫ぶように呼んだ。

「みぃーつきぃー! ご飯よぉー!」

その声が辺りに強く反響して、奥歯に鋭くて小さな痛みが走って、私は顔をしかめた。

 しばらくすると、扉がやはり重たそうに開けられた。

「冬海、何だい?」

聞いてなかったのか、と私は少し怒った顔をして、無言のまま持ってきた弁当箱を突き出した。

「あ、ご飯……だね?」

「そうよ!」

「エンジンルームじゃ食べる気がしないなぁ」

そう言って、三月はエンジンルームから外に出てくると、階段に座って食べ始めた。

 鉄扉がひとりでに閉じられ、巨大な音を響かせた。

 私は三月の横に座って、彼が食べている様子をじっと見ていた。彼に対して言いたい事があったのだ。

 それは昼間に父が言った言葉と関係している。

『さぁな。監獄船から逃げてきた囚人じゃない事だけは確かだろうな』という。

 正直、私だって彼が監獄船から逃げてきた囚人なんかじゃないと確信している。だけど、それを本人の口から聞かない事には、やっぱり安心できなかったのだ。だからと言って、直接それを訊くような無神経さを、私は持っていない。

「ねぇ」

黙々と食べていた三月の横顔に、そう呼び掛けてみた。一瞬動きが止まり、こちらを向いたその顔は、『何?』と訊いていた。

「なんで三月はエンジンの修理なんてできるの?」

三月は噛むのを一時止めた。

「エンジニアだったの? それとも、まだ思い出せないの? ねぇ! もしかして、もう思い出してるんじゃないの?」

その時私は、自分がどのような顔でそう尋ねていたのか知らなかったが、多分ほとんど泣きそうな、酷い顔になっていたのだろう。それは、三月が今浮かべている、優しく包み込むような表情が物語っている。

 三月は口の中のものを飲み込んでしまった後でも、口を開かなかった。

 強い雨が降ってきた。階段の上から降り込んできている。

 彼の答えを待っていた私は、それをきっかけに諦め、立ち上がった。

「ごめん、今の忘れて」

そう言って去ろうとした右手を、三月がしっかりと掴んだ。

 振り返ると、真剣な目をした三月がこちらにまっすぐ視線を向けていた。彼は、鉄扉のように重たそうに結ばれた口許を開けた。

「もう少しここにいて欲しいんだ」

 私にそれを拒むような理由は何も無かった。ただ頷いて、もう一度もとの場所に腰を下ろした。

 さっきの質問に答えてくれるものとばかり思っていたが、そんな事はなく、三月は相変わらず黙ったまま、夕食を口に運び続けるばかりだった。

 それでも私は、少しも不快な気持ちにならなかった。

 普段ならば、二人でこんな狭い場所で何も話さずに座っていたなら、逃げ出したい衝動に駆られるか、意味も無い話題で沈黙を埋めるかしていただろう。

 だが、私は少しの居心地の悪さも感じなかった。それどころか、三月が隣にいるということで、言葉では表せない種類の安心感を得ていたのだ。

 三月と初めて出会った時に感じた感覚。それは親近感であり、まるで小説の中に出てくるような展開で、運命の人に巡り会えた時のような、とにかくそんな感じだった。

 だけど、その表現が今は、少しずれていたと実感できる。依然として、この感じをはっきりと言い表す事などできないのだけど。

 私はどのような種類であれ、この人がもの凄く好きなのだと、その時初めてはっきりと思った。

 三月が食事を終えた。雨は先程より強く振り込んできており、今では階段を伝って、小さな滝のように流れてきていた。

 それでも私たちは、天井の扉を閉じに動こうとはしなかった。そんな事をしなくても、絶対的な安心感がそこにはあったのだから。

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