6. もう一つの再会
アシュは母親のもとへ駆けて行った。そして、何年もの間離れ離れになっていたかのように、大袈裟と思えるようなしがみ付き方をした。
母親の方も、同様に抱き上げて再会を喜んだ。
少しの間その様子を離れた所から眺めていた私に、アシュが手招きをした。
お互いに紹介をし合うと、私は持っていた事さえ忘れかけていた中華鍋を、アシュの母親へ手渡した。
アシュの母親は、ヘザー・キンバリーといい、その職業は点字作家だった。ちなみに、アシュはアシュレー・キンバリーというのが本当の名前だった。
ヘザーは点字で物語を書く。それは翻訳家が活字へと訳して、やがて紙の本として出版されるのだ。
私が驚いたのは、今の時代になっても、本をそうやって書いている人がいるという事だった。
海の上で、紙の本は劣化が激しいのと、紙自体が貴重である為、今ではほとんど電子媒体が主流となっている。
ヘザーの事や、彼女の仕事については、個人的に強い興味をそそられたが、私はすぐに彼らのもとを去らなければならなかった。
私にはもう一つ、やらなければならない事がある。彼らに簡単な別れを言って、すぐにその場を小走りで離れた。
その時の素っ気ない言葉は、あの親子に悪い印象を与えてしまったかもしれない。
気が付くと、辺りは薄暗くなりかかっていて、すれ違う人の顔すらよくわからない。こんな中でたった一人の弟を探すのは、至難の業だ。
何よりも、冬馬がどこにいるのか、私は全く知らないのだから。
はぐれてしまった辺りへ行ったとしても、あれから何時間も経っているのだから、同じ場所にいるとは考えにくかった。
いっそのこと、泣いていてくれたら探しやすいかもしれない。ただでさえ、人見知りの冬馬。こんな大勢の人の中で、たった一人にされてしまえば、泣き叫んでいても不思議じゃない。
だけど、複雑な心境だ。
泣くほど彼を不安にさせてしまうというのは、とても辛い。できれば、そんな思いなどして欲しくない。
泣いていなかったとしても、私が悪いことに違いはない。あの人混みの中、私は彼にシャツから手を離させてしまった。だから、はぐれた。本当は、手を離させるべきではなかったのに。
走るような速さで歩きながら、私は周囲に目を配った。人々の隙間、柱の影、暗がり。どこにも私の求める姿は無い。
(どこにいるの、冬馬!)
心の中で何度も呼びかける。
募る苛立ちが、顔中を熱くさせた。焦りが私の足の運びを更に速める。
ポツリポツリと落ちてきた雨滴は、すぐに強く降り始めた。
雨が熱い。顔が硬直しているのを感じる。
私は泣きそうになっていた。今の私の顔は、出会った頃にアシュがしていた表情と同じだ。まるで、置いていかれたのは、私のようだ。
脳裏に、多季さんが浮かんでいた。多季さんが私を探して、探して、そして見つけて、息が止まるほど強く抱きしめてくれる。痛い、痛いよ、と私は口にする。
(ゴメン、冬馬)
気が付くと、私は案山子みたいに人の流れの中、立ち止まっていた。
(どうしよう、どうしたらいいの)
その時不意に、私は名前を呼ばれた。
その声の響きに、私は安堵と共に無力感にも似た思いを感じた。
声の方に向くと、三月が一人で立っていた。彼も突然降り出し雨に、どうしようもなく濡れていた。
「冬海、どうしたの? それに、冬馬は?」
私は全力で走った。人の群れも関係なく、三月に向かって飛び込んでいった。そうして、彼にしがみ付いた様子は、ついさっき目にしたアシュのそれと同じだった。
三月の、どこまでも優しい手が、軽く私を包んだ。そこから流れ込んでくる正体のわからない温かさに、私はそれまで平静を留めていた力を呆気無く失った。
私は安心感に包まれて、涙していた。声も無く、流れ出す涙を三月の身を包む衣服に染み込ませていった。
私の精神が落ち着きを取り戻すまで、彼は何も言わず、ただその状態のまま、動かなかった。
雨はさっきよりもずっと弱まっていて、もうすぐやむように思われた。
「冬馬がいなくなった」
私は三月にそう言った。
その後の三月の反応は、私が予想していたものとはかなり違っていた。
「そうか」
彼は全く慌てる様子も無く、淡々とした口調でそう言った。
私はそれが不思議というか、むしろ腹立たしく思った。
「それだけなの? 冬馬がいなくなったんだよ」
「ごめん。だけど、大丈夫。見つかるよ」
一体どんな自信がそんな事を言わせるのか。
「なんで、そんな事が言えるの?」
三月は黙り込んだ。深刻な表情で、考えごとをしていた彼は、やがて答えた。しかし、その答えは、脈絡のない唐突なものだった。
「ねぇ、耳を澄ましてごらん? 何か聴こえない?」
「こんな時に何を……」
そう答えながらも、耳を澄ます。
全ての思考が中断されるような音が耳に届いた。
全神経が、耳に集結していくのが自覚できた。
熱くなっていた私の気持ちは、徐々にその熱を失っていった。
周囲の人混みの中からも、音は聞こえなかった。それは、私の気の所為などではなく、現実に人々が黙り込んでいたのだ。その訳は、私が聴こうとしているのと同じ音に、耳を傾ける為。
「この音、一体何?」
胸を締め付けるような、懐かしさ。何かを喚起させる音。
微風を越えてやって来るこの音は、一体何だろう。
「行ってみたら?」と、三月。
「うん」
誘われるように、私はふらふらと音の方へ歩き出した。
その時は、何も疑うものが無かった。音に導かれるように辿り着いたのは、例のイベント会場だった。
そこには呆れ返る程、大勢の人々が集まっていて、前方から聞こえてくる音に耳のみならず、意識の全てを傾けていた。
私は小さな身体を生かして、人々の隙間を縫って、前へ前へと移動した。
私が懐かしいと感じていた音は、見たこともないような楽器から奏でられている音楽だった。
ひょうたんを平らにしたような木の箱に弦が張られていて、それを男性が滑らかな動きで、手にした棒を擦り合わせている。
中央に立っていた女性が、大きく息を吸い込んだのがわかった。
薄いガラスを指で軽く弾くような、深い霧の中から聴こえてくるような、穏やかな凪の時の波音であるような、喩えようとするなら無限にイメージできる、そんな声が大気のように辺りを満たした。
何だかよくわからないが、私はもの凄く気持ち良かった。
全てを忘れさせてくれるようで、いろんなことを想起させてくれる。相反するようだが、確かにそれらは同居していた。
曲調はどこか哀しげで、歌い手の女性はスポットライトの中、悲壮感に耐えようとするような強さをその表情に湛えていた。
やがて、最良の時間は短くも終わった。
雨はすっかりやんでいて、水平線の向こうに浮かんだ雲の間から、弱い光が差し込んでいた。少し冷たい風が吹き抜けて、哀しげだった歌の余韻と同化した。
その場には、途方もなく綺麗な静謐が広がっていた。拍手さえ起こらない。この場では、それさえ無粋だと皆が感じていた。
私は人混みの中に、冬馬の姿を見つけた。私は驚きもせず、さも当然の事のように思った。
私は、身動きしない人混みの中を掻き分けて、冬馬が放心したように立ち尽くす側へ、そっと並んだ。
冬馬は私に気が付いたようだったが、言葉はお互いに出さなかった。ただ顔を合わせ、視線を交差させるだけ。
そうしている間に、周囲からパラパラと拍手が起こり、それはやがて盛大な歓声の波へと移り変わっていった。冬馬も私もその時は拍手をした。
ステージ上には、もう誰も立っていない。拍手が引き潮のように、静かに、自然に退いていった。
人々は三々五々、その場を離れていく。そうなっても、私たちは動かなかった。
しばらくして、周囲に人が全くいなくなった。もう、お互いの視線をぶつけ合うことさえできないほど、辺りは暗くなってしまっていた。
私は、何故かそのタイミングで口を開いた。
「ごめんなさい、冬馬」
私は彼に謝りたかったのだ。
「何が?」
彼は怪訝そうに、そう言った。
「一人にしてしまって。寂しくなかった? 不安じゃなかった?」
少しの間をおいて、彼は答えた。
「少し。でも大丈夫だったよ」
「そう。良かった」
どちらからという事もなく、私たち二人は歩き出した。歩きながら、私は感じ取った。
冬馬は、私が思っているよりも、ずっと大人だという事を。
私たちは、最初に降り立った停泊場へとやって来た。
自分等の船を見つけると、船内には既に明かりが灯っていた。乗り込むとまず、三月が出迎えた。
「お帰り、冬海、冬馬」
「ただいま」
「ただいま」
そこへ、父が。
「おい、随分遅かったじゃねーか」
その言葉に、冬馬が答える。
「コンサートがあって、それを見てたら遅くなったんだ」
「コンサートって、あれか。アーヴィング・ファミリーのコンサートか?」
「へぇ、アーヴィング・ファミリーっていうんだ」と、私。
「そんなことより、冬海。飯、作れよ」
「はいはい……」
しょうがないなぁという風に呟く。
と、私は気付いた。
「あれ? って、ちょっと待って。食材、買い忘れちゃった!」
父は、「はぁーあ……」こっちこそしょうがないという風に呟く。
そして、続けた。
「お前、今日は何しに来たんだ?」
後には、父二度目となる溜め息が大きく響いた。