5. 再会
今まで歩いてきた道を戻り、もう一度私達の船が停泊している場所の近くへ戻ってきた。
父や三月と別れた金物屋で、私はアシュが持っていたメモに従がって品物を買った。
買い終えてから、ふと気が付く。これはまるでお使いだな、と。いや、全くもってお使いそのものなのだ。
中華鍋はアシュにはまだ少し重すぎるようだったので、私が持ってあげる事にした。
そうだ、と思う。どうしてこんな小さな子供に、このような買い物をさせたのだろうか。
というか、この瞬間にも、アシュの母親は何をやっているのだろうか。
疑問はやがて非難へと変わり、小さな怒りの感情を連れてきた。
「アシュのママ、今、何してるんだろうね」
感情が口調に乗り移っていて、少し乱暴な口調になった。
けれども、アシュは気付かないのか、気にも留めないのか、淡々と思ったことだけを口にした。
「ママは、多分今も、紙に穴を開けてるんだと思う」
仕事という事だ。
しかし、この仕事は一体何の意味があるというのだろう。
「その仕事って、どんな意味があるの?」
アシュは小首を傾げた。
「穴が字になるんだって。よくわかんない」
(穴が字?)
その時、頭の中でびっしりと穴の開けられた、真っ白な紙のイメージが結ばれた。
これは何かに似ている。一体何だったろうか。
私は歩きながら、今思い浮かべたイメージと記憶とを照らし合わせる、内なる旅に出た。
やがて、思い当たるものがあった。
それは点字だ。
私はこの時、全てを理解したような気がした。アシュの母が、まだ幼い我が子をお使いに行かせたのは、自分自身がこの場所を歩けないからだ。考えるに、彼女は視覚障害なのだ。
「ねぇアシュ、あなたのママ、その……目が見えないんじゃない?」
「うん、そうだよ」
私は見当違いな事をしていた。探すべきはアシュの母親ではなく、アシュの乗ってきた船だったのだ。
視覚障害である彼の母は、買い物をしたくても出来ないのだ。特にこのような大規模な商業海域となると、人は多いし、店も多い。下手をすると、海に落ちてしまう事だって十分あり得る。
「ごめん、アシュ。すぐにママに会わせてあげるからね」
アシュは嬉しそうに「うん」と、頷いた。
私はまず路傍の案内板を見た。
「現在地はここで、大体西の方といったら……こっちね」
私が捜索の条件として的を絞ったのは、船の停泊場。それも、アシュが最初に指差した西方にある停泊場だ。
合致しそうな場所が二箇所あった。その両方に行ってみるつもりだ。
アシュが小走りになってしまうくらい、私は速くその足を動かして進んだ。
一つだけ、私の中に不安があったからだ。
「ねぇ、もしかして、ママは一人で船の中にいるんじゃないの?」
「そうだよ。パパはね、今、ご用事でいないの」
そうなると、やはり可能性はあるのだ。
アシュと会ってからどれくらいの時間が流れただろう。それ以前から、アシュがお使いに出ていたとしたら、もう相当な時間が経過しているはず。
「このお使いって、ママが頼んだの?」
「僕がやるって言ったんだよ。パパがね、お母さんの事を助けてあげなくちゃいけないって、いつも言ったから」
可能性は更に上昇した。
私が不安に思っている事。それは、母親がアシュを探しに、船から出てしまう事だった。
アシュの母親は、アシュがお使いに行く事を、それはもうもの凄く心配しているに違いない。増して、出て行ったきり、何時間も帰って来ないのでは、それも一入だろう。
例え目が見えなくても、子供の為なら、探しに出てしまう。母親とはそういうものだ。
そう。私は思い出していた。多季さんもあの時、学会で発表しなければならなかったというのに、それを放り出してまで、私を探しに来てくれたのだった。仕事のこととなれば、それ以外のことが何も目に入ってこなくなるような、あの多季さんが。
もう既に、私の歩調は走るという動作に変わっていた。
必死に着いて来るアシュだったが、不平は言わなかった。
やがて、西側にある最初の停泊場にやって来た。
私は立ち止まり、振り返った。
「アシュ、この場所に見覚えない?」
私の語気に含まれていた強い焦燥感が、彼にも伝わったのか、以前同じような質問をした時のように、「分からない」などと言うことはなく、真剣に思い出そうとしているようだった。
だが、そこは本当に見覚えが無かったらしい。彼はこう言った。
「ここじゃない」と。
「じゃあ、もう一つの方だね」
再び走り始めた。時間の所為か、人々の数は徐々に減少し、幾分走り易くなっていた。
海域の中央だと語る看板の前を通り過ぎ、更に進む。
イネスという女性と出会ったイベント会場では、既にイベントが始まっている様子で、局所的に人口密度が高くなっていた。
遠くの方から音楽が聴こえてくるが、それを聴いている場合ではない。
西へ西へ。
そうして、私たちは目的の停泊場へと着いた。
一際長い橋を渡ろうとすると、その橋の向こう側に手摺りにもたれかかって、ゆっくりと一歩一歩足場を確かめるように進んでくる人がいた。
直感が告げると同時に、背後でアシュが叫んだ。
「ママだ!」
私の不安は大体当たっていた。
彼女は息子を送り出した後、帰りがあまりにも遅いのに心配し、自分に降りかかるであろう危険を顧みず、船から出て、手摺りに掴まりながら少しずつ進んで、停泊場から出ようとしていたのだった。
その時、背後からやって来た数人の男たちの内一人が、彼女を押し退けながら言った。
「ちょっと、邪魔だよ」
彼らは何も知らない。知らないとはいえ、私は歯を強く食い縛るほど、憤りを感じていた。
男たちが私たちの横を通り過ぎようとした時は、さすがに何か言ってやろうかとも思ったが、彼女自身はそれを望まないだろうと思い、やめた。