3. 迷子
時間がリープしたように感じた。
私にとってその事は、脳が一瞬機能不全に陥ってしまう程意外な現象だった。
まず、冬馬がいない。
次に、この見上げている男の子は一体誰なのか。
平静を取り戻した後で現状を纏めてみると、こんなに単純化されることができた。
だが、これは大きな問題だ。一体いつから冬馬はいないのか。もっと言えば、後ろから私のシャツを引っ張っていた人物が入れ替わったのは、いつの事だったのか。
様々な事を頭の中で巡らせている間に、小さな男の子は言った。
「ねえ、ぇぐ……ママ……は?」
押し寄せる波のような不安感が、男の子の顔を歪めている。その目からは、微かに光る滴が溢れ出していた。
こんな所で大声を出して泣かれたのでは大変だ。
その瞬間、私の中で、最優先事項が決定した。
「ね、あなたのお名前は?」
私はしゃがんで彼と視線を同じ高さにして、尋ねた。
「アシュ」
「アシュね。どこから来たの?」
「あっち」
アシュの指差す方向は、多分西の方だった。手掛かりとしては極めて希薄だ。
「ママとはどこではぐれたの?」
「はぐれるって何?」
難しかったらしい。
「うーんとねぇ、ママがいなくなったのはどこ?」
「あっち」
さっき指差したのと同じ方角。
もうこの子からこれ以上の情報を引き出すのは、難しいだろうと思われた。
取り敢えず、アシュを連れて、彼が指差した方に向かってみる事にした。
「あっち、行ってみようか」
アシュはコクリと頷いた。
私は彼の手を引いて、人込みの中を縫うように歩き始めた。
こんな時、揺れる地面はやけに頼りなかった。
こんな事をしていていいのだろうか。そう考えた。
冬馬の方は大丈夫なのだろうか。大丈夫でなかったとしても、今の私には何もできないのだけれど。
血を分けた弟よりも、見知らぬ子供の方を優先的に考えている。この選択が正しかったのかどうなのか、私には判断できない。
はっきりしているのは、アシュよりも冬馬の方がやや年上で、少しくらいはしっかりしているという事と、この小さな男の子が私を必要としているという事だった。
ふと、私の手を握るアシュの手に、力が込められた。小さな力だったが、私が今まですっかり忘れていた記憶を蘇らせるだけの力を持っていた。
私の眼前には、幼い日の情景が上映され始めた。
あれは私がこのアシュと同じくらいか、もっと小さかった頃の事。
正直、自分がどんなだったのか余り覚えていないが、出来事だけを鮮明に記憶している。
起こった事だけを言えば、凄く単純だ。私は多季さんとどこか人の多い所に出かけていって、はぐれた。
しかし、それだけでは片付けてしまえないのは、そのときの私の心情だ。
これは当事者になってみないとわかってもらえないだろう。言葉では言い表せないくらい、私は不安だった。
よく覚えていないが、私は泣いていただろう。
唐突に、アシュの今の気持ちが理解できた。
どれほど不安か、どれほど寂しいか。
結局、あの時、孤独の中から私を救い出してくれたのは、やはり多季さんだった。彼女は、血相を変えて私の事を探してくれていたらしい。
私の姿を捉えた途端、周囲の人の波に逆らい、彼女は私をその広い両腕で強く抱き締めた。その時の痛み、まだ覚えている。痛みが、私は一人じゃないと強烈に訴え掛けてきたのだ。
そう言えば、多季さんが私の母親であることを実感させたのも、この痛みだった。
今、私が感じていると同時にアシュも感じているこの互いの手の温もりが、途方もなく大切なものであると、改めて気が付いた。
広大なだけの海に、こんなにも人がたくさんいるのに、私達はたった二人しかいないのだと。