10. 「伝わってるよ」
次の日の朝早く、アレックスとその家族はアンデス海岸を去った。彼らは私たちよりも一日早くやって来ていたから、その日が期限だったのだ。
だが結局、私たちはアレックスにさよならを言う機会を得られなかった。その日、冬馬は恐る恐るといった風に海へと入った。初めは居心地の悪さを表情に出していたが、そのうちに慣れてきたのか、彼はゆっくりと泳ぎ始めた。
そこに恐怖はもう表れていなかった。冬馬は泳ぐ事が楽しいのか、そうする事でしか寂しさを埋められない為なのか、とにかく一日中泳ぎ続けた。
一つ一つの動作を何かに刻み込んでいるように。
そして、体力が尽きたら、浜辺で休み、時が経てばまた海に入っていった。だから、私もそれに付き合って、ずっと泳ぎ続けた。
夜が近づいた。さすがに疲れたのか、冬馬は海から上がっていた。だけどそれでも、彼は船に戻ろうとはせず、海岸に座ったまま沈みゆく夕日を、虚ろな視線で眺めていた。
私はそんな彼の横に腰を下ろした。言うべきことがあったから。冬馬は私の存在を気にしていないように振舞っていたが、私が、「ねぇ」と声を掛けると、こちらを向いた。
「ゴメン。嘘ついて」
それは、私が言わなければならなかったこと。冬馬は少し眉間に皺を寄せて、こちらをじっと見た。そして、言った。
「昨日、聞いてなかったの?」
「聞いてたわよ。怒ってないから謝られたくないんでしょう?」
「うん、そう」
「でもね、私は謝りたいの。わかる?」
「わかんない」
そう言った冬馬は、いつものすっとぼけた弟のようだった。
「私ね、アレックスが溺れてたとき、近くで見てたんだよ」
「え?」
彼は拍子の外れたような声をあげた。私は彼がそこまで驚くとは思っていなかったので、その先何を言うつもりだったのか、忘れてしまった。
冬馬は言う。
「あの時、お姉ちゃん、いたの?」
「う、うん。いたよ」
「じゃあ、なんで助けなかったの?」
「だってあれは作戦で」
「作戦って、どう見てもあんなの演技じゃなかったじゃないかぁ」
「そりゃ私だって、異常に上手いとは思ってたけど。そもそも、あのお陰で冬馬、泳げるようになったんでしょう?」
自分の口調が、段々とケンカ腰になってきていることを自覚した。
「でも、アレックスはあれで死ぬところだったんだよ?」
そこを突かれると、私は何も言えなくなってしまう。それでも、何かを言わなければという思いから、やっと言葉を見つける事ができた。
「だから、謝ったんじゃない」
という言葉。
しかし、どこかおかしいことに、発した後で気付いた。そのおかしな部分を、僅か六歳の弟に指摘される。
「それ……僕に謝るの、おかしいんじゃない? うん、アレックスに謝る事だよね」
「アレックスになら謝っ……てない! 私、謝ってない!」
そう言ったときの私は、一体どんな顔をしていたのだろう。弟は心配そうな目を向けてこう言ったのだ。
「大丈夫、伝わってるよ」と。
私は瞬間的に、三月を思い起こした。例え、ここにいるのが冬馬ではなく三月だったとしても、同じ言葉を聞いたのではないだろうか。そのように思うのは、私の自分勝手かもしれない。だけど、私はその言葉を受け入れようと思った。
「うん、そうだね」
水平線の彼方は、もう薄っすらと青く染まっていた。昨日も甲板で出会ったあの夜風が、私たちの間を軽く抜けていく。
遠くの方から、灯りの点が近づいてきていた。私たちは立ち上がり、その灯りに向かって大きく両手を振って、叫んだ。