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嵐の海に浮かぶ月影  作者: 柚田縁
第一章
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2. 朝の風景

 夜が明けた。

 私はあれ以来なかなか眠れず、水平線の彼方に朝日が昇る瞬間を目にしてから眠った。そのお陰で、どうも意識と身体のリズムが若干ずれているような気がしている。

 誰も私の事を起こしに来なかったので、目覚めの後もしばらく何もしないで部屋にいた。

 気になる事と言えば、昨夜漂流していた若い男。といっても、二十歳前後ほどに見えた。十一歳の私からしてみれば、『若い男』という表現はおかしいのかもしれない。

 その男は、〝漂流者プレート〟を身に付けていなかった。そのプレートは、万が一漂流してしまった際に、その人の名前や所属船籍などがすぐにわかるようにと、携帯が推奨されていた。

 ただし、実際に漂流している際に無くしてしまう事はよくある。だから、その男がプレートを持っていなかったとしても、さしたる不思議は無かった。とにかく、彼が目覚めない事にはどうにもならない。

 私は時計の針が十時を指す少し前に部屋を出た。

 顔を洗うよりも早く甲板に出て、潮風を受けるのが、私の朝の日課になっていた。冷たくも芳しいあの空気で胸の中を満たすと、どんなにぼやけた心持でも、すっきりと澄んだものに変わるのだ。

 ふと見ると、甲板の隅で釣り糸を垂らしている冬馬の姿が見えた。船は滞りなく、海洋を滑っているというのに。普通、魚が釣れるのは船が停止している間だ。

 私は彼の傍に立ち、両手を腰に当てて言った。

「ねぇ、冬馬。カジキでも釣ろうっていうの?」

「あ、姉ちゃんおはよう。で、カジキって何?」

冬馬は私、冬海の弟。多季さんも随分と紛らわしい名前を付けたものだと思う。

「カジキっていうのはねぇ……鼻の長い、大きな魚よ」

正確には角だけど。

「鼻の長い? 魚に鼻なんてあるんだ」

「じゃあ、どうやって匂いを嗅ぐの?」

「あ、そうか。鼻だ」

納得している。私は噛み殺せない可笑しさを隠すために俯いた。バケツが見えた。数匹の魚が入っていた。

「ウソ。釣れてるじゃないの」

冬馬には聞こえないよう、小さな声で呟いた。

 私がバケツの中を見ているのに気付いた冬馬は、「その魚、持っていってもいいよ」と言った。つまり、料理してくれという意思表示だった。

 言われたとおり、バケツごと魚を調理場へ運んで行く途中、脳裏に例の男の事が浮かんできた。私は彼が未だ眠っている客室へ行く事にした。

 船室は全部で八つ。船尾側から入ると、そこから伸びた廊下伝いに片側それぞれに三部屋ずつが続く。

 向かって右側に面した部屋を手前から見て行くと、最初に調理場、次に書斎、最後に客室となっている。左側は手前から、冬馬、私、父の部屋だ。そして、正面の一番奥にはリビングへと続くドアと、数段の上り階段がある。その先が操舵室となる。

 私は一旦バケツを調理場の床に置くと、奥の客室へ向う。多分眠っているのだろうが、一応ノックだけはしておいた。やはり返事は無かった。

 中に入ると、何故か空気が違っているように感じられた。温度でも湿度でも匂いでもない。では一体何なのか。考えても、さっぱり見当が付かない。

 だけど、私は現実に、その部屋が少し違っているように思ってしまった。予期せぬ客人の持つ、特別な雰囲気なのかもしれない。

 ベッドに眠る彼は、人間離れした静かさで眠っていた。見ているほうが不安になってくるほど、呼吸と呼吸の間が極端に長い。私は彼の顔に耳を近づけ、生きていることを確認した。

 その時に気付いたのは、彼の右頬に走る一筋の傷だった。その傷を水平方向から見ると、ちょうど海底山脈のように盛り上がって見えた。

 首筋に彼の息がかかった。ぞくっとしたものが全身を駆け抜けたが、それは、彼がまだ十分生きていることを表している。

 私はそれだけで満足し、部屋を後にした。

 昼食までには時間があったので、私は書斎へ向かった。

 この部屋には、今となっては珍しい紙の本が多数収められている。それらは全て、多季さんの趣味で集められたものだった。私は時間があればよくここに来て、取り留めなく本を読む。

 この日、私が選んだ本は戯曲の台本のようなものだった。年月の経過と共にかつて白だったと思われる紙は、見事に黄色くなっていたし、紙質自体も潮風の影響でぱりぱりに固まっていた。場合によっては、ページ同士がくっ付いて、破れそうな部分もあった。

 男女同権主義的な物語だったのだが、結局、最後まで読んでしまう前に、昼食を作る時間になってしまった。

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