8. 大きな一歩
翌日、朝からずっと泳ぎの練習をしていた例の二人だったが、お昼の後、「気分転換でも」というアレックスの提案で、彼らは二人だけでゴムボートに乗り、沖に出て行った。そんな行動も、実は三月が考えた作戦の一部だ。前もってアレックスは、午後に冬馬を誘い、ボートで沖に出て行く事になっていたのだ。
私はボートがずっと遠くに出て行くのを見送った後、砂の中に隠しておいた水中眼鏡とシュノーケルを掘り返し、波で洗った。
「じゃ、行ってくるね」
「うん。気を付けて」
私は三月の言葉に送られ、波の間に身を沈めた。
私の役割。それは、彼らが乗ったボートを揺らして、ごく自然にアレックスを海に落とすことだった。落っこちた彼は、いつもの泳げない演技を使って、溺れた振りをする。冬馬は、海への恐怖を克服し、海に飛び込んで彼を助ける。以上が、三月によるシナリオだ。
しばらく泳いで沖に出た頃、私は水中眼鏡とシュノーケルを装着した。水中眼鏡は頭を強く締め付け、後頭部の髪を引っ張るので痛い。シュノーケルはというと、ゴムの匂いが口の中に広がって気持ちが悪い。普段泳ぐ時にはこんなもの使わないのだが、水面に顔を出す訳にはいかないので、今回だけは仕方なく着けることにしたのだ。
波の向こうに、時々ボートが見え隠れするようになった。目を凝らしてよく見ると、冬馬がたどたどしくオールを漕いでいた。あまりボートは進まない。
私は一旦大きく息を吸い込み、海中深く潜った。下の方に薄っすらと底が見える。ごつごつした岩場に付着した小ぶりの珊瑚も、そこに集まってくる南国独特のカラフルで大小様々な魚も、水中眼鏡を掛けた今ならはっきりとした像で見ることができた。
そう言えば、この海域のように水の綺麗な海には、いろいろな種類の魚が少しずつ生きていると聞いたことがある。あれは確か、多季さんだった。逆に、あまり水の綺麗でない海には、少しの種類の魚が大群で暮しているのだと、そのようにも言っていた。考えてみると、私は短い間でありながら、多季さんからいろいろなことを聞き、影響を受けてきたのだと知る。
私がよく本を読むのも、間違いなく多季さんの影響だろう。そもそも、あの書斎にある全ての本は、もともと彼女のものなのだから。改めて思い出そうとしても、それほど記憶から引き出せる事は無いのに。
息が苦しくなり、再び水面に顔を出して深呼吸をした。水中眼鏡の内側に、ほんの少しの水滴があった。
感傷的になった心を正すように、私は今自分がすべきことに専念しようと、ボートを波間に探した。距離にして二十メートルくらいに迫っていた。
私は見つからないように、海面に潜り、口にシュノーケルを含んだ。そして、慎重にボートの方を窺った。
よく見ると、冬馬がオールを海に落としたようで、それをアレックスが取ろうと、身体を乗り出していた。その光景を見ながら、私は危ないと思った。だが、冷静に考えてみれば、私がこれからしようとしている事の結果も、同じなのだ。
結局、私の出る幕はなく、アレックスは、見事といった自然さで海に落下した。その後も、迫真の演技で彼は溺れた。
冬馬は顔面を蒼白にし、呆気に取られていたが、すぐに自分のやるべきことに思い至ったらしい。
彼が最初にした事は、波に逆らってボートをアレックスの所に寄せる事だった。しかし、アレックスは、流されたオールを拾おうとして落下したのだ。ボートに残っているオールは、片方だけ。片方のオールだけでは、真っ直ぐ目的の方向に動かすことなんて、私の弟にはできなかった。
もどかしくなったのか、最後には、オールを使わずに素手でボートを漕ぎ始める始末だった。
その間にも、波は二人の距離をさらに広げていく。
冬馬は、はたと動きを止め、遠くなり始めたアレックスを凝視した。私が思わず助けに行きたくなってしまう程、リアルな溺れ方をしているアレックス。さっきから比べると、彼の動きが少し緩慢になっているように見えた。
私は、この瞬間が早く終わる事を祈った。冬馬が、自分の意志で海に飛び込む事によって。それは、海に対する恐怖を自分で打ち消した事の証となる。
冬馬が溺れるアレックスを凝視するように、私は一歩を踏み出せないで苦しんでいる弟を凝視した。何かきっかけが欲しいのかもしれない。だけど、そのきっかけを与えるのは私じゃない。彼自身だ。
やがて、小さく頷くことで、彼はそのきっかけを自分に与えた。冬馬は自らの意志で、海に飛び込んだのだ。
私は海面に身を沈め、静かに大きなガッツポーズをした。