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嵐の海に浮かぶ月影  作者: 柚田縁
第三章
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9. ノーサイドの笛

 父が海に潜っていった。動けるA、B船は入日が決定した付近に停泊した。それから、私にとってはとてつもなく長い時間が始まった。

 海底の様子を知る事はできない。なのに、そこでは父が重大なことを一人で決定しようとしているのだ。

 何もできないでただ時を過ごすしかできない自分がもどかしく、無力だと思った。

 冬馬がいつの間にかやって来ていた。彼は何も知らない筈だが、不安そうな目をしていた。私は自分を落ち着ける為に、口を開いた。

「今日は釣りしないの?」

「そっちこそ、本は読まないの?」

お互いの視線が固まった。

 そこに流れた緊張感はやがて、間の抜けた雰囲気へと移ろい、お互い少しだけ笑った。

「冬馬、今疲れてるでしょ? 少し休んだら?」

「僕は何もしていないよ。姉ちゃんこそ疲れてるでしょ?」

否定はしない。確かに疲れてはいたが、今休んでしまうと、全ての糸が切れてしまいそうだった。

「うん、疲れてる。だけど、休めないの」

 それから、どれくらいの時間が経っただろうか。とにかく長く感じていたが、実際にはそんなに経っていなかったのに違いない。

 海底にいる父から、クレーンの引き上げが指示された。

 ただでさえ力学的に不安定なのだから、いつも以上に引き上げるタイミングや速度を揃えなければ、あっという間にターゲットからフックが外れ、再び海底に沈んでしまうことになる。

 ここだけは、私一人に委ねられているのだと思うと、私は今までに感じた事の無い程の強い圧迫感を覚えた。胸が苦しくなって、呼吸が速くなる。

 その時、父の声がスピーカーから聞こえてきた。

「落ち着け、冬海。お前は俺の優秀なパートナーなんだぞ」

放たれた当初、その言葉は私に何の意味も持たず、耳の奥の鼓膜を振るわせただけだった。

 やがて、遅れてその意味が全身にゆっくりと浸透し始めると、さっきまで感じていた緊張感が、水に溶ける糖衣のように消えてしまった。私はいつもどおりにB船へ合図を送り、クレーンを引き上げ始めた。

 少しして、「よし、順調だ」と、父が言った。

 安堵の息を吐いて、視界を遠くの海へ移した時、やがて最悪の事態へと繋がる要素が目に映った。

「なんで? なんで上手くいかないの」

信じられなかった私は、運命を司る神様でなければ答えられないような問いを口にしていた。

「どうしたんだ? 冬海」

スピーカーが尋ねる。

「鉄鋼が……来る!」

 ポイントを移動し、何やら時間を掛けて引き上げようとしているものがある。それに気付いた鉄鋼が、今、私達の作業しているポイントへ、大挙して押し寄せていた。

「くそ! 全部持っていくつもりか、アイツら!」

父が海中で悪態をついている間にも、鉄鋼の船は接近し続けていた。

「冬海、最大出力で引っ張れ!」

「あ……了解!」

 B線と連絡を取り、同時に速度を最大まで上げた。ここ数日の激務のためか、クレーンの動力部から聞こえてくる騒音は、いつにも増していた。

「これが終わったら、嫌って程グリスを差してあげるから、今は頑張って」

そうクレーンに懇願した。だが、その切なる願いは、残念な事に通じなかった。運命の神様は、性根が腐っているのだと思った。

「おい、どうした! A船の速度が落ちているぞ! このままじゃ、バランスが……ああ、もう崩れ始めている!」

「え?」

一瞬、何が起きたのか、何をするべきなのかわからなくなった。

「B船!」

ゆっくり? いや、そんな時間はない。

「A船? どうすればいいの?」

B船のナビゲーターから、指示を仰ぐ問い掛けがあったが、私にはほとんど届いていなかった。

 私はクレーンの操作室を出ると、全速力で船室へ入っていった。そして、一番奥の操舵室へ行き、エンジンをエンジンをかけた。何分古い船なので、かかりは良くなかったが、一旦かかると、後は前方に向かって船を進ませた。

 それは、クレーンの向きとは反対になる。私は、クレーンの巻き上げ速度の遅れを、船自体が前進することで補えると考えたのだ。

 海底に下ろしていた錨を全部巻き上げないで、前進したものだから、その速度はやはり遅い。けれども、この速度が偶然にも、クレーンの遅れを補完するのに絶妙だったらしい。それがわかったのは、背後の扉が冬馬によって勢いよく開かれた時だった。

「お姉ちゃん。お父さんが、グッジョブって言ってたよ」

私は大きく息を吐いた。鎖は次第に張りを持ち始めた。私は船を停止させ、急いでクレーンの操作室へ戻った。

「ごめんなさい、急にいなくなって」

まずはB船のナビゲーターに謝った。

「うん、大丈夫。何があったのか、わかるから」

それ以上は何も言わずとも、B船のクレーンもゆっくりとした速度へ変わった。ターゲットが海面すれすれで止まった。

「よし、次の作業だ」

海底からの指示があった。

「B船のクレーンを再び伸ばす。それと同時に、A船のクレーンをさらに巻き上げるんだ。わかったな? 俺もすぐに戻る。待たずに始めろよ」

「了解」

言われた通りの指示を、B船にも伝えた。

 やがて、ゆっくりとした速度で、B船側の鎖が緩み始めた。それに合わせて、こちらのクレーンを巻き上げる。再び鎖に緩みがなくなり、海面の僅か下をターゲットがゆっくり、こちらへ向かって移動し始めた。

 しかし、ここに来て次なる障害が発生した。直接の原因は、私にあった。私が船を動かした所為で、ターゲットからの距離がかなり離れてしまっていたのだ。これでは最大出力で引き上げた事に由来する時間の余裕が、差し引きゼロか、或はそれ以下に減少してしまう。

 鉄鋼との距離は、注意を逸らしていた間に、ずっと縮まっていた。

「どうしよう……どうしよう!」

私は咄嗟に、父へ繋がるスピーカーに向かって、そう叫んでいた。だが、返事は返ってこなかった。何かを考えているとか、そういう沈黙ではなく、もっと根本的に繋がっていなかったのだ。

 どういう事なのか全く理解できなくなって、私は錯乱状態に陥ってしまった。意味もなく、「お父さん」と、スピーカーに向かって叫びまくった。

「落ち着けよ」

やっと返ってきた返事は、スピーカーからではなく、すぐ後ろからだった。振り向くと、前身から水を滴らせている父の精悍な体躯があった。

「どうしよう」

話が通じたら、こんな事が言いたかった訳じゃないのに、そう口が言っていた。

 父は、「さあ、どうするかな」と、抑揚のない不気味な声で言った。

 ターゲットは少しずつこちらに向かって移動してはいたが、既に鉄鋼との距離の方が近かった。

 鉄鋼たちはどうしてくるだろう。そう思っていると、船から数人のダイバーが海に飛び込んでいった。その手には、超振動ブレードが握られていた。彼らのうちの何人かは、二隻の船とターゲットとを繋ぐ鎖に、残りの何人かは、ターゲット自体に近寄っていった。

 もう、彼らがやろうとしている事は決まっていた。彼らは鎖を切断しながら、ターゲットを細かく切り裂こうとしているのだ。その事がその場にいる全員の脳裏に過ぎった。

 思わず、私は叫んでいた。

「やめてー!」

けれども、その声は同時に発せられた父の、「やめろー!」という言葉に霞んでしまい、そんなに響かなかった。

 鎖から火花が散った。ターゲットに取り付いた鉄鋼たちが、ブレードを作動し始めた。喩え声が届いたとしても、彼らの心には届かない。そう知りつつも、私はもう一度叫ぼうと、大きく息を吸い込んだ。そうして発せられた声は、またしても響かなかった。

 一瞬にして、その海域全体が静まり返った。海鳥さえも鳴いていなかったし、波さえも形を潜めてしまったようだった。

 私の叫びを遮り、辺り一面を静寂に変えたのは、あまりにも大きな汽笛だった。

 サルベージャーも鉄鋼も、音のする方へ目を遣った。そこには連合の視察艇が数隻と、この海域から旅立っていったあの研究船の姿が、ぼんやりと浮かんでいた。

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