1. 漂流者
嵐が過ぎ去った後の夜、私は一人外へ出た。風も波も、それまでの事が全て冗談であったかのように静かで、穏やかだった。空を見上げると残り雲も無く、星の一つ一つをはっきりと見分けることができる程だった。
本当に、嵐は嘘のようだったのだ。
三日月が浮かんでいた。新月から数えて月齢三日目。正真正銘の三日月。僅かな月明かりが、周囲の星を淡い光の向こうに掻き消している。
私はそれを見上げながら、甲板の縁まで歩いた。静かな波音だけが、その時その空間の中に存在している唯一の音だった。
そんな時に私は、声を出すような無粋な事はしない。ただ、黙って見惚れるだけだった。
首が疲れてきたので、一旦顔を水平に向けた。静かな波の間を縫って、月はその細長い姿を揺れる水面に映していた。
その時、偶然私は鏡の中の月を横切っていく影を見た。月明かりから逸れた所へ、その影は滑っていった。私は少し長く目を閉じ、夜目を利かせて再び海面を観察した。影は人の形をしていた。
「大変!」
私はとっくに眠っている筈の父親を目覚めさせるため、まずキッチンへ行った後、彼の船室に向かっていった。
部屋に着くと、予想どおり父は高いびきをかいて眠っていた。こういう時の父は目覚めが悪いのがわかっていたため、初めから呼び掛けで起こす気などなかった。
私は、水の入ったコップを持っていた。その水を、大きく開けられた口に流し込む。二、三度大きな泡がぼこぼこと湧いてきたが、すぐに水は彼の気管へと流れ込んでいったらしく、一瞬後、激しい咳と共に彼は起き上がった。
しばらく起こった出来事を判断できず、目をテーブルに並べられた皿のように丸くしてキョロキョロと辺りを見回していた。
「おはよう、父さん」
「冬海。っ! てめっ……俺を殺す気か!」
私の存在に気が付いた彼は、そう叫んだ。
「緊急事態。ゴメン、時間ないから、取り敢えず来て」
何か言いたそうな父の視線を背後に、私は船室を後にした。
波間に漂っていた人影は、船のすぐ近くまで来ていた。遅れて甲板に出た私の父、入日は、漂流者に向かって大声を張り上げた。
「おーい! 大丈夫かぁ!」
返事は無かった。見ると、漂流者は大きな流木に上半身を乗せているだけだった。意識を失っているらしい。もし、彼に意識とほんの僅かな体力があったなら、船上から浮き輪でも投げてやれば十分だったかもしれない。
結局、父は自分で浮き輪を抱え、海に入っていかなければならなくなった。
数分後、父が一人の男を連れて戻ってきた。
「冬海、お前はもう寝ててもいいぞ」
意識のない漂流者をベッドに寝かせるために客室へ向かっている途中、私の部屋を通る時に父は言った。
「大丈夫、起きてられるから」
そう言い返すと、彼は溜め息を吐いた。
「あのなぁ、今何時だと思ってるんだ? 夜の二時だぞ。もうとっくに眠ってる時間じゃねーか。大体、なんでこんな時間に海なんて見てたんだ?」
「そ、そんな事いいじゃない。ほら、そのお陰でこの人、助かったんだから」
それでも父の顔は渋いままだった。これはもう大人しく部屋に入るしかない。
私は、「おやすみ」と、いつもより低い声で言うと、すぐそこの自室へ入っていった。