3. サルベージャーの仕事
結局、読みながら常に去来する記憶に意識を取られ、読書はほとんど進まないまま、私は私の役目を果たさなければならない時間となってしまった。
私はクレーンの操作室へと入り、先端にフックの付いた鎖を海底へ沈め始めた。
昨日までは動かなかったクレーン。それは、三月の手によって既に修理されていた。その事を考えて、今日は一度も三月に会っていない事に気が付いた。どこへ行ったのだろうか。
その時、昨夜見た彼の表情を思い出した。瞼の裏に焼き付いたその顔は、彼に近づこうとするもの全てを拒絶するような気配を放っていた。
何故あんな顔をしていたのだろう。もしも、ナビの仕事さえなければ、私は探しに出ていた筈だ。
やがて、父からの合図があった。無線機の一つから、海底にいる父の声が聞こえてきたのだ。
「フックはもう引っ掛けてある。あとは無線で他の二隻に引っ張り始めるタイミングを伝えるだけだ。任せたぞ、冬海」
「ハーイ」
私はもう一つある無線のスイッチを入れて、周波数帯を他の二隻と合わせた。
三月の事は、これが終わった後にしよう。
「A船からB、C船へ。引き上げの準備が整いました。チーフからのタイミングを伝えます」
AだのBだのというのは、この仕事をする上での便宜的な名前だ。ちなみに私たちの船は、A船。
「こちらB船、了解」
「C船も了解した」
続いて父から。
「準備はいいか? テン・カウントだ十、九、八……」
父の声で、カウントが減少していく。私もそれと同じタイミングで、他の船に向けたカウント・ダウンをし始めた。七、六、五、四、三、二……。
「一」
そう聞こえ、同時に言った瞬間、私はB船とC船に通じている無線に向かって、「どうぞ!」と大声で言った。そして、それと共に、私はクレーンを引き上げ始めた。その他の二隻でも同様の動きがあった。
弛んでいた鎖が、獲物を捉えた時にピンと張った。それを受けて、船が前後に揺れた。再び父から。
「少しC船のクレーンが速すぎる。逆にA船は遅れ気味だ。もっと速くならないのか?」
「無理よ。これで全速。油、注したの?」
「三月が注してくれたんじゃねーかな」
「人任せ? もう、しょうがないわね」
呆れた声をわざと無線機に向けた。そして、私はもう一つの無線機に向かって言った。
「C船はもう少しゆっくりお願いします。B船はこちらに合わせる程度に」
仕方が無いので、他の船にクレーンの巻き上げ速度を遅めにしてもらう事にした。
「了解」と、二回聞こえた。
再び船が前後に揺れた。
「よし、いい調子だな」
父の無線機がそう口を利いた。次第に、三隻の船がそれぞれある一点に吸い寄せられるように動き始めた。ようにと言ったが、実はその通りだった。鎖の長さが短くなるに連れて、三隻の船は中央の付近に引き寄せられる。
お互いの船に乗っている人の顔が確認でき始める頃まで近づいたとき、B船から無線が入った。
「こちらB船! A船の近くで誰かが溺れています!」
え?
その時、すぐに冬馬の事が頭の中を過ぎった。この船の中で泳げないと言えば、彼しかいない。
考えるよりも先に身体が動いていた。気が付くと私は、持ち場を離れて甲板後方へと走っていた。途中浮かんだのは、舷に腰掛けている冬馬が、船の揺れで海に落下するという光景だった。
船室の外壁を回って視界が開けると、穏やかな海面に立つ白波が見えた。私は未だに考える事が後になっていた。全て、反射的な行動だったのだ。
私は躊躇うことなく海に飛び込むと、白波の立つ辺りへ向かって、必死に泳ぎ始めた。
波は穏やかで、水温もやや高め。泳ぐのに障害となるようなものは特になかった。
やがて、冬馬のすぐ近くまで泳ぎ着いた。彼は相当錯乱していたのか、すぐ側まで迫った私という救出者の存在にさえ気が付かず、必死になってばたばたと海面を叩き続けていた。
「こら、しっかりしなさい! 冬馬!」
私はでたらめに動くその両手をやっとの事で掴まえると、自分の両肩に巻き付け、遠くなっていく船の方へ泳ぎ始めた。
この時になって私は思い出した。クレーンの鎖が短くなるに連れて、徐々に一点へ引き寄せられる船。
既にクレーンを止めておかなければ、他の船や引き上げたものに衝突してしまう距離を通り過ぎてしまっていた。
「どうしよう。間に合わない」
そうとわかってもいても、私は急がずにはいられなかった。
だけど、人一人を背負って泳ぐのはとても難しかった。いつも以上に沈むのが早いし、いくら手を動かしても、足をばたつかせても、進んだような気がしない。目標にした船が常に遠ざかっていたことも原因だったのだろう。
そうやって泳ぐ私の視線は、船の先端、クレーンの長さだけに注がれていた。その時、不意にクレーンは止まった。それが一体何故起こったのか、その時の私にはわからなかった。ただ、そうなって喜ぶべきなのにもかかわらず、あり得ないとか、おかしいとか、そんな思いばかりが頭の中を巡っていた。
けれど、安心したのも事実で、それを見た私の泳ぐ動作は、知らないうちに止まっていた。私と冬馬の身体は水の中に一旦沈んでいった。