8.真実と決着
肩の肉を切られた。軽傷ではあるが武器をとり落してしまう。
「ちっ……」
ずきずきと疼く痛みに舌打ちするが、その舌打ちですら威勢がない。目の前には血塗られた短刀を構えたエイザムが迫っている。
「最期に恨みごとくらい聞いてやるぜ。お前なら言いきる前に出血多量になりそうだが」
「馬鹿言ってんじゃないわよ。そう簡単に死んでたまるもんですか。あんたに殺される気はないわ」
「……そうだったな。お前が殺されてもいいって思うのはアレクだけだったもんな」
ほろ苦い表情になったエイザムが短刀を握り直す。青い瞳には嫉妬混じりの殺意が宿った。
「終わりにしよう、ミリカ」
出血する肩を押さえ、地面にへたり込んだ少女の上からエイザムは刃を振り下ろす。だが彼の身体は、またしてもその場から弾き飛ばされた。昨日の再現のように。
「ラーイ……?」
『ミリカ!』
魔物の姿で駆け寄ってきたラーイがエイザムを弾き飛ばしたのだ。彼はミリカの傷を見て、反射的にエイザムを振り返る。地面に倒れた彼は気絶したのか動かないが、ラーイは低い唸りを上げて、今にも飛びかかりそうだ。
「いいの……ラーイ、やめて」
『ミリカ、だが』
「痛いけどこれくらいじゃ死にやしないわ。昔から無茶の一つや二つしてればそのぐらいわかるもんよ。それより――」
ミリカが尋ねようと思ったことその人が広場へと駆けつけた。ラーイより遅れて参上したのは、汗みずくで息を乱したアレクだ。
「無事……だったのか」
自分で仕掛けておいて、何を今更――。いつもなら誰が相手であれ皮肉の一つも吐くミリカだったが、この時は違った。
「アレク様」
目の前の背の高い男を、輝くような金髪を、優しげな榛の瞳を、焼きつけるようにしばらくの間無言で見詰めた。
「魔物よ、彼女から離れろ」
「いいえ。アレク様。あたしは自分で、このラーイの傍にいるのです」
アレクは酷く傷ついたような顔をした。次には怒ったように肩を怒らせて言う。
「その魔物は僕の両親の仇だ。そして君の両親を殺した相手だ。それでも許すのか!」
血はすでに止まったようだ。傷ついた肩を手で押さえ、それでも立ちあがるミリカの姿を見ていると、アレクはまるで自分の方が弱い生き物のように感じた。
あの時確かに自分が「助けた」はずの少女はその後もまったく平穏な人生を送れてはいなかった。酒乱の養父に殴られて育ち、その男を殺して人殺しとなってしまった。――それがすべてアレクのせいだと言うのか。
良いことをしたつもりだったのに。
そして彼女は今、アレクではなく、あの時彼女を苦境に追いやったはずの魔物の手をとろうとしている。助けたのはアレクで追い詰めたのが魔物ではなかったのか。逆だったとでも言うのだろうか。
……だったら自分はこれまで何のために、
「その魔物が生きているなら、何のために僕の十年はあったんだ!」
何のために生きていたのか。
「離れろ! 離れてくれ、ミリカ!」
ここで引いてしまったら、彼女は二度と戻らないだろう。引きとめるためと言うよりはもはや形をつけがたい激情のままに、アレクは自分の中の想いを吐きだしていた。
「こいつさえあの時死んでいれば、僕は死んでも良かったのに。何故あの時、僕を両親と一緒に死なせてくれなかった!」
欲しかったのは死に場所だ。盗賊として以外の生き方は知らず、十になる前に罪人と呼ばれることになった。一人の少女を救ったことで自らも善人になれた気がしたが、所詮は受刑中の人間の人生は、楽ではなかった。
「アレク様……」
ミリカはゆっくりとアレクに歩み寄った。先程は散々アレクのことを嫌いだと吐いた魔物も、今のアレクにミリカに対する敵意がないことを感じ取ってか、牙を剥いては来ない。
「それでもあたしは……あなたに助けてもらって嬉しかった。ありがとう、アレク様。あなたはあたしの救いでした……あたしは、あなたに生きていてほしい」
「もう……生きている意味は、ないのに」
「それでも」
その時、ラーイが顔を上げた。警告するように叫ぶ。
『ミリカ!』
ラーイに弾き飛ばされ気絶したはずのエイザムが、いつの間にか立ちあがっている。その手には短刀が握られていた。
「死ね! ミリカ!」
警告した瞬間ラーイも彼に飛びかかったが、一歩遅い。死に物狂いの人間の攻撃は当たれば何でもいいとばかりに少女を狙う。
腹部を裂かれ、ミリカが崩れ落ちた。次に場を支配したのは絶叫だ。ラーイに片足を噛みちぎられたエイザムがのたうちまわる。
『ミリカ!』
「エイザム!」
ラーイは風のような速さでミリカを背に乗せ、門を飛び越えて去っていった。アレクは重症のエイザムに駆け寄る。
夜の闇に血臭が広がり始めた。
◆◆◆◆◆
『ミリカ、ミリカ』
街の外に広がるのはエンディアの森と言った。ここは奇しくもラーイが生まれた場所だ。
運んできた少女の身体を地面に横たえ、ラーイはただただ彼女の名を呼びかける。人の傷に詳しくはない彼が見てもわかる――ミリカの傷は致命傷だ。
ここには医療道具も何もないが、例え街で医者に見せることができたとしても同じことだったろう。――いや、一つだけ方法はある。
『ミリカ』
「……ラーイ」
少しの間気を失っていたらしいミリカが目を開いた。ラーイの名を呼んで微笑む。
紅く濡れた手で魔物の青い毛皮を撫でた。べっとりと痕がつき、毛が絡む。
「わかっていたから。あたし絶対……ろくな死に方しないって。だからいいんだよ。あんたがそんな顔しないで」
『ミリカ』
「エイザムにやられたってのが腹立つけど……これもまあ自業自得だからさ……。アレク様のことが気になったのは、あの人もあたしと同じだったからなのね……ずっと自分の人生が不満で、思う通りに生きながら死に場所を探していた……」
鬼子と呼ばれても自分を貫いた代わりに、最後まで人並の幸せは得られなかった。明日に、未来に、夢も希望もないから何も、死すらも怖がらずにただ無茶ができた。
それでもいいのだと、今なら確かに思える。独りではない。自分を看取ってくれる存在がいるなど思ってもいなかったから。
「ラーイ……」
『ミリカ、ミリカ』
「あんたがあたしの両親殺したんだとしても……あたしはあんたを憎めない。ラーイ、元気でね」
『ミリカ、我の血を呑め』
別れの言葉を告げたミリカに、ラーイは焦りそのままに早口で告げる。
『我の血を呑めば、お前は魔物となる。魔物となって、我と同じ永きを生きる』
そう口にした瞬間、ラーイは忘れていたことを思い出した。
それは人の暦で数えれば十二年も前のこと、この森の近くで魔物退治の盗賊に追われ逃げる途中、事故に遭った馬車を見かけた。
すでに死した男の亡骸の傍ら、それだけは庇いきったのか無傷の少女を胸に抱き、瀕死の女が一人いた。通りがかったラーイは女に声をかけた。
『女、この血を飲めばお前だけは助かるぞ』
瀕死の女は自らに話しかけてきた魔物を不思議そうな顔で見上げ、しばししてゆっくりと断りの言葉を口にした。
「……ごめんなさい。優しい魔物よ。どうかあなたを拒むから断るのだとお思いにならないで。私は最後まで、夫と共にいたいのです。その代わり、一つだけお願いをしていいかしら?」
『なんだ?』
「この子には……私たちの娘には、どうか幸せを……」
女の髪は珍しい、燃えるような赤毛だった。
血に濡れた白い頬を、ラーイは慰めるように獣の舌でぺろりと舐める。
死に絶えた女の傍らでラーイが幼子をどうしようかと考えている間に、やがて金髪の少年が現れた。ラーイが姿を消すと、幼い日のアレクがミリカを抱きかかえ、付近の村に預けられないかと連れていく。結局幼子を少年にとられてしまったラーイは、その近くのドーラの森でずっと待っていたのだ。何の理由であそこにいるのかも忘れるほどに。
ただ覚えているのは、女の頬を舐めた際に味わった一滴の血の味だけ。ラーイが自らの巣穴に持ち帰った箱は、ミリカの母の持物だ。
あの時の女のようにミリカが自ら死を選ぶのではないかと思いながらも、ラーイは自らの腕を噛み、溢れた血をミリカの口元に零す。
『生きろ。死ぬな。我を独りにするな……』
孤独と言う言葉すら知らなかった魔物に、それが寂しいことだという感情を植え付けたのは彼女なのだ。
「ラーイ……」
彼岸を覗くミリカがほんの少しだけ意識を戻し、獣の目に光る涙を見遣る。
ラーイが言うのは不老不死の法だ。呪われた禁忌の術。
躊躇う必要はなかった。
その罪の源である赤い血を、こく、と彼女は自らの意思で呑みこんだ。
『ミリカ……』
「ラーイ、なんで泣くの」
魔物の血はすぐに効果を表し始めた。ミリカの傷はふさがり始め、顔色も格段に良くなっている。それとは対照的に、ラーイはいかにも悪いことをしたかのようにぽろぽろと四つの瞳から涙を零し続ける。
『生きていればまた苦難があるやも知れぬ。あの男に我ともども狩られるかもしれぬ。それでも』
「ああ、そうね……。生きていれば、また会うものね……アレク様……」
生きることは幸せなばかりではない。けれど生きていれば。これからも会える人がいる。その時はきっと敵同士だけれど。
それでも。
「愛しているわ、ラーイ。一緒に生きていこう」
『ミリカ』
初恋の人でもなく、皮肉屋仲間の幼馴染でもなく、ミリカはこの不器用で人の感情に疎い魔物を唯一の相棒に選んだのだ。
人の世に疲れて無感情な獣との交流に逃げただけ? 悪魔と呼ばれた女だから、人喰い魔物と呼ばれた獣こそがお似合い? 何とでも言える。何とでも言えばいい。
死んでしまってもいいと思っていた人生の中、ミリカがどんな形となっても生きることを決めたのはこの魔物のため。
東の空が白く明け始めていた。