3.自由の謳歌と忘れ物
ミリカとラーイの二人(?)はアダル村から南に行った街の一つに辿り着いた。街ではまず真っ先に地図を買い、現在地を確認する。何せここ数日しばらく森の中と街道を行ったり来たりする羽目になったのだ。ミリカもラーイもあの森と村の外に出たことはほとんどない。
「えーと、これをこう見ればいいのね。ふーん。あたし地図なんて初めて見たよ。村の近くってこんなにいっぱい色々なものがあったんだね」
「ふむ。我も地図なるものは初めて知った。人間は獣や花の匂いではなく、こんなぺらぺらした紙とやらで行き先を決めるのか?」
「情報ってのは無形の贅沢品で、それを制する者が世界を制するのよ。本来無形のものを持ち運びできるよう形を与えた人間の知恵を讃えてほしいわね」
「形がない? 山も川も村もちゃんと形があるぞ? どういう意味だ?」
「……ちょっと黙っててくれる?」
人間世界の常識を中途半端に知っていたり知らなかったりするラーイの口を封じて、しばしミリカは熱心に地図に見入る。道具屋の中、読めない文字やよくわからない記号があるたびに店の主人に尋ねた。
幾ばくかの情報料はとられたが、これでその分この先の行程が楽になるはずだ。
「とにかく村から離れなきゃ。遠くへ遠くへ。――どこか、遠くへ行かないと」
店を出て地図を片手に歩きながら、独り言のつもりでミリカは呟く。
「どうした?」
「ううん。なんでも」
「何処か行きたい場所でもあるのか?」
「ないわよ。行きたい場所も帰る場所もどこにもない。あたしには待っていてくれる人もいないし、だから生贄に出されたのよ」
「そうだったな。だがこれからは我が一緒だぞ。我はお前を守ってやる」
「――え?」
「道案内がいなくては困る。我にはこの紙は読めぬ」
「……そうね」
見た目は道行く人々が揃って振り返る美少女と美少年の二人組なのだが、本性は気の強い鬼っ子と鷹揚過ぎる天然獣なので色気のある話になどなるはずもない。思わせぶりな台詞に一瞬驚いたミリカは、すぐに付け加えられた台詞とともに鼻の頭に皺を寄せて地図を指でつつくラーイの様子にがっくりと肩を落とした。
ミリカが五歳の時、事故に遭って亡くなった両親の遺体の傍から彼女を抱きあげて村へと連れてきてくれた金髪の少年は、素性も名前も知らないがミリカにとっては王子様だった。若干ミリカの想像が入っているとはいえ初恋の王子様の顔でそんなことをされては美しい思い出が台無しだ。
「無事に道具も揃ったし、地図も買った。まだ換金してない宝石もあるから路銀は十分だし、とりあえず今日のところは宿をとろう」
「宿。それは何だ?」
「雨露を凌ぐ寝床を提供してくれる商売よ」
「商売ということは、金を取るのだろう? 人間は金を大事にするのではなかったか? ならば外の森で寝ればいいではないか。ここの街の外にも我らが来たのとは別の森があった。あそこならば金も何もいらない。他の獣からなら、我が守ってやるぞ」
「……いざお金がなくなったらそれはお願いするけど、今のあたしは柔らかいベッドに入りたいのよ」
「我の毛皮は柔らかくないと言うのか」
「あー、はいはい。これまで道中十分お世話になりました。どーもありがとー。でもあたしは人生で一度くらい、柔らかいベッドに入ってみたいのよ。今まで木の床に布敷いて寝ていたんだから。土の上よりマシだけど」
「そんなにべっどというのは楽しいのか」
「楽しいらしいわよ。だから行くわよ」
「ふぅむ」
楽しい、の一言に釣られてラーイは大人しくミリカの後をついてくる。そのままミリカは街で宿をとった。そこそこ大きな街なので人々の行き来も活発、宿屋に困ることはないらしい。こういった街の宿は定食屋を兼ねていることも多い。
安宿の一室に入り、ミリカは思わず頬を緩めた。酒乱の養父の下では、ベッドが一つだけあるような部屋さえ夢のまた夢だったのだ。早速古びたシーツの上に腰掛ける。
「これが楽しいのか? 人間とは不思議だな」
「別にいいでしょ。どうせ後の方になれば切り詰めざるを得なくなるんだから。今くらい贅沢したって」
ラーイは大人しくミリカの横に腰掛けた。
一息ついたところで、ミリカは先程道具屋で買った地図を再び取り出した。
「貴様は先程も地図とやらを睨んでいたな。何故そうもその紙を睨む」
「別に睨んでいるわけじゃないわよ。見てただけ。あたしの手の届かない世界ってやつを。今まで小さな村にいたからわからなかったけれど、あたしって本当に狭い世界で生きてたんだなーって、実感してるだけ」
整えてもいないのに形良い桃色の爪の先でミリカは地図をなぞった。黄ばんだ紙の上で、細い線で書かれた知らない街の名前が優雅に踊っている。
それは彼女の手に届かないもの。
狭い世界の狭い生き方しか知らない。その生き方にすら馴染めなかった彼女にとって、見たこともない街の名前は永遠の憧れだ。
「ミリカ?」
「ねぇ、ラーイ。あたしは性格が悪くて、好きで性格が悪くなって好きで人に恨まれるようなことしてるけど、でもその報いがまったくないと思うほどお気楽な性格はしてないの。――あたしが死んだら次の案内人見つけなよ」
「何故そんな先の話をする? お前はまだ若い。人間の寿命はそれほど短くはなかったと思っていたが?」
「そりゃあ寿命で死ねるならまだ五十年以上は先でしょうね。でもさ、あたしらってお尋ね者なわけ。あんたの正体がバレたりしちゃったら一大事だし、きっと村の連中は何らかの方法であたしを始末したいはず。お国に魔物と逃げた女がいると通報するのか、それとも村の連中が自力で追ってくるのかわからないけど、このまま何もないとは思えない」
少女は愛おしげな眼差しで、地図の上の未知の土地の名前をなぞる。全てなぞり終えると、地図の縁に指を滑らせた。
「それに村の連中に追われなくたって、あたしはこの性格でこの経歴だからね。きっとろくな死に方しやしないわよ。積極的に死ぬ気はないけど自分はどこかであんまり幸せじゃない死に方するんだろうって覚悟はしてる」 今は手元に金があるが、では明日は? 明後日は? いつまでもこうして生きられるわけはない。
森の魔物に生贄として喰い殺されなかったのは僥倖だったが、これから先たいしていいことがあるとも思えない。
人に罵られ貶められ、その返礼として十分罵ったし貶めた。美貌を鼻にかけ他人の容貌を嘲笑った。他人に平気で死ねと吐ける女だから、いずれは自分もそのように罵られて死ぬだろう。
「あたしは好きでヤな人間やってるの。でもラーイ、あんたはそうじゃない。あんた、魔物のくせにいい奴だからさ、いざとなったらあたし見捨てて、逃げなよ。野生の獣には言うまでもないことかも知れないけど」
「貴様は死なないぞ。我が守る」
「あっそ。そりゃどうも」
「我の実力を信用していないのか?」
「してるよ。村ぶっ壊す時に十分見せてもらったしね。でもたぶんあんたは、人間の小狡さには太刀打ちできないと思うよ」
良く言えば純粋無垢、悪く言えば何も考えていない魔物にミリカはそう言った。
「さて、この話はおしまい――痛っ」
「どうした?」
「紙で指切っちゃったみたい」
地図の縁をなぞっていた指にツキンと痛みが走り赤い線ができた。紙など滅多に触ることがないので油断していた。
「ふむ、どれどれ」
「ちょ」
傷口を見つめて顔をしかめていたミリカの指を、不意にラーイが自らのもとへ引き寄せる。文句を言わせる隙もなく、パクリとその指を口に入れた。
「なっ――何してんのよ!」
「何と言っても。傷口は普通舐めるだろう。森の獣はみんなそうだぞ」
「あのね……」
ミリカは脱力した。ラーイの見た目は美少年となっても、獣はやはり獣である。
「はいはいありがと。さっさと離しなさいよ」
「……」
「ラーイ?」
指を口に含んだ刹那、ラーイがどこか驚いたようにミリカには思えた。しかし彼は何も言わずに、指を唇から離す。
「終わったぞ」
「はいはいどうもね」
うっすらと滲んでいた血だけが綺麗に拭いとられた指先に息を吹きかけて乾かしながら、ミリカはやる気なさげに礼を言った。
「あたし、そろそろ下でご飯もらってくるわ」
「我は行かなくていいのか」
「たいした量じゃないし、一人で十分」
部屋から去るミリカの後姿が扉の外に消えたのを見送って、ラーイは小首を傾げながら一人ごちる。
「我はこれを……ミリカの血の味を知っている? 何故だ。初めて会ったというのに」
忘れっぽい魔物の独り言に応えてくれる声はなかった。