花火は、打ち上げ台からは見えない
「イネス、銀の光、少し強くした方がいいんじゃないかい」
石造りの作業台の向こうから、低いしゃがれ声が飛んできた。
イネス・カルヴァンは筆を止め、羊皮紙に描いていた燕の尾羽から顔を上げる。作業台の端には、青白い光を放つ火晶が木皿に並べられていた。
「強くしたら尾が伸びすぎるわ。燕じゃなくて箒星になる」
「箒星が七つでも、客は喜ぶと思うけどねえ」
「町の紋章は七羽の銀燕なの。広場の石碑を十回見てきなさいよ、ベアトリス」
「三回で十分だよ。あそこの燕、一羽だけ嘴が欠けてるしね」
ベアトリス・モローは肩をすくめ、手元の道具を木箱へ戻した。
四十六歳になるベアトリスは、この地方で二十年以上も魔法花火の打上げを担当してきた職人だ。二十八歳のイネスは、光の色や形、空に残る時間を設計する色火師。
二人が組んで仕事をするようになって、今年で七年になる。
数日後に迫った「春帰り祭」は、冬のあいだ雪で閉ざされていた北の峠道が開く日を祝う祭りだ。
その最後を飾るために町から依頼されたのが、紋章である「七羽の銀燕」を夜空へ描く大掛かりな魔法花火だった。
七羽の燕が次々に空へ現れ、最後には一つの群れとなって夜空を横切る。
それがイネスの描いた完成図だった。
「イネス。三羽目、もう少し低くするよ」
「なんで?」
「なんでって、安全のためだよ」
「あと少し高い方が翼が綺麗に見えるわ」
「上げない」
「まだ何も説明してない!」
「説明されても上げない。そこから上は風が変わりやすい。花火を綺麗にするために町へ火を落とすわけにはいかないだろ」
「ちゃんと消えるように作ってるわよ」
「空の風は、お前の図面を読んで吹いてくれるわけじゃないんだよ」
安全に関する話になると、ベアトリスは冗談を言わない。
七年組んでいるイネスも、それだけは知っていた。
「……頑固」
「生き残るための知恵だよ。ほら、そっちを仕上げな。今夜が最初の試し打ちだろ」
作業台には、七羽分の火晶が並んでいる。
空で術式が開けば、銀色の光が大きな翼を描き、その後を淡い青の残光が追う。
図面の上では、完璧だった。
*
日が完全に落ちたころ、二人は町外れの古い採石場へ移動した。
かつて石材を切り出していた場所で、周囲を高い石壁と土塁が囲んでいる。祭りの花火は、町から十分離れたこの場所で打ち上げることになっていた。
安全のため、二人が作業する場所は高い土塁の裏側にある。
空へ昇っていく光は見えても、町から見上げた時にどんな形になっているのかは分からない。
「風、問題なし」
ベアトリスが空を確かめる。
「見取り役も準備できてるね?」
「西門から合図が来てる。三人とも位置についたわ」
自分たちで完成形を確認できないため、町には三人の見取り役を頼んでいた。
中央広場の果物屋。
川沿いで働く荷運び。
西門近くに住む仕立屋の娘。
花火の専門家ではない。
祭りの日に町から空を見上げる、ごく普通の人たちだ。
「じゃあ、始めるよ」
「お願い」
最初の光が夜空へ駆け上がった。
続いて二つ目、三つ目。
土塁の内側が、銀と青の光に照らされては暗くなる。
七つ。
音は予定どおりだった。
光もすべて空まで昇っている。
「……どうかしら」
イネスが見上げても、土塁の向こうには散り際の光しか見えない。
「打上げは問題なし」
ベアトリスは道具を片づけながら答えた。
「問題は、町からどう見えたかだね」
しばらくして、三枚の報告が届いた。
イネスは一枚目を開く。
「中央広場。『三羽くらいにしか見えなかった。あとは光が重なっていた』」
「ほう」
「川沿い。『最初は鳥に見えたけど、最後の二羽が重なって分からなくなった』」
「西門は?」
「……『白い点が並んだだけで、鳥には見えなかった』」
イネスはもう一度、最初の紙へ戻った。
「……七羽上げたわよ?」
「七発とも上がってたね」
「なんで三羽なのよ。翼も尾も全部作ったのに」
「町からは、そう見えたってことさ」
*
作業場へ戻るなり、イネスは大判の図面を広げた。
炭筆で燕の輪郭を囲み、その外側へさらに大きな線を引く。
「小さいのよ。もっと大きくすれば、町からだって翼が見える」
「大きくするなら、今のままじゃ上げられないよ」
「じゃあ別の高さに」
「駄目」
「なんで!」
「安全に使える空から外れるからだよ」
「じゃあ色をもっと強くする」
「強くしすぎれば後ろの燕が見えなくなる」
イネスは炭筆を作業台へ置いた。
「じゃあ、どうするの」
「間を広げる」
ベアトリスは自分の手順書を開いた。
「最初の試し打ちは近すぎた。前の燕の光が残っているうちに次が出たから、重なって見えたんだ」
「広げすぎたら群れじゃなくなる」
「そこまでは広げないよ。今の残光なら、少し間を取っても前の燕は空に残るはずだ」
「本当に?」
「二十年以上、空へ上げてるんだ。そこは任せな」
イネスはまだ納得できなかった。
「でも、私の図柄そのものにも問題があるかもしれない」
「まず重なりを消す。話はそれからだよ」
「……群れに見えなかったら、言ったからね」
「見えるさ」
ベアトリスはそう言って、イネスの図面へ目を落とした。
「それよりさ」
「何?」
「誰がその紙を見るんだい」
「……何よ」
「祭りの客が見るのは紙じゃなくて空だろ」
イネスは口を閉じた。
「机の上で綺麗な七羽でも、広場から三羽にしか見えないなら、祭りの日には三羽なんだよ」
「でも――」
「客はお前の机の横に立って見るんじゃない。町から空を見るんだ」
ベアトリスは自分の手順書へ戻った。
「明日は、あたしの間隔で試すよ」
「……群れに見えなくても知らないから」
「大丈夫だって。残光は残る。七羽とも見えるさ」
*
翌晩、第二試射が行われた。
今度はベアトリスの判断で、一羽ごとの間を大きく取った。
一つ目の光が消えかけるころ、次の光が昇る。
イネスは腕を組み、土塁の向こうを睨んでいた。
七発が終わる。
しばらくして、再び町から報告が届いた。
中央広場。
『七つの光が上がったのは分かった』
川沿い。
『七つには見えた。でも燕には見えない。光が一つずつ出てきただけだった』
西門。
『間が空きすぎて、一つの群れには見えなかった』
「…………」
イネスは紙をベアトリスへ渡した。
「……間が空きすぎたね」
「言ったでしょ」
「言ったねえ」
「もうちょっと悔しがりなさいよ」
「悔しがったところで、空は直らないだろ」
ベアトリスは三枚の報告を床へ並べた。
「最初は重なった。今度は離れすぎた」
「しかも西門からは、どっちも鳥に見えてない」
イネスは一枚目の報告へ目を落とした。
『白い点にしか見えなかった』
自分の図面を引き寄せる。
燕の翼には、細い羽を何本も描き込んでいる。尾も二つに分かれ、先端へ向かうほど光が細くなる設計だ。
「……これか」
炭筆の反対側で、翼の細い線を一本こすった。
「何だい」
「この羽、たぶん見えてない」
もう一本消す。
「尾も」
さらに消す。
「全部、細かすぎるんだ」
町から見上げれば、夜空に浮かぶ燕は小さい。
イネスが机の上で何度も描き直した細い羽も、尾の先も、そこからでは一つの光に潰れてしまう。
「……私、一羽ずつ綺麗に作ることしか考えてなかった」
ベアトリスは別の報告を拾い上げた。
「あたしは七発ちゃんと上げることしか考えてなかったよ」
「じゃあ」
「うん?」
イネスは消しかけの図面を裏返し、新しい面を広げた。
「七羽に見えるように作ろう」
「最初からそうしな」
「今それ言う?」
「言うさ。年寄りの特権だよ」
イネスは笑って、炭筆を握り直した。
*
今度の燕は、ずっと単純だった。
細い羽を捨て、大きな二枚の翼だけを残す。
尾も短くし、遠くから見た時に「鳥」と分かる輪郭を優先する。
「前の方が綺麗だった」
イネスは図面を睨んだ。
「近くで見ればね」
ベアトリスが言う。
「でも祭りの客は近くで見ない」
「分かってるわよ」
イネスは最後の細線を消した。
一方、ベアトリスも手順を組み直す。
今度は単純な等間隔をやめた。
「最初の数羽は少し近くする」
「また重ならない?」
「同じ場所へ重ねなきゃいい。前の光が残っているうちに、次が少し先へ出るようにする」
「後ろは?」
「途中で少し呼吸を置く。最後は前へ追いつくようにする」
イネスはしばらく考えた。
「なら、最初の燕は残光を少し長くする」
「できるかい」
「誰に聞いてるのよ」
二人は図面と手順書を並べる。
イネスが輪郭を変えれば、ベアトリスが並びを考え直す。
ベアトリスが間を変えれば、イネスが光の残り方を調整する。
机の端には、三枚の報告が置かれたままだった。
『三羽にしか見えない』
『鳥に見えない』
『群れに見えない』
イネスが図面を修正するたび、そのどれかへ目をやった。
夜が深くなるころ、七羽の形が決まった。
*
春帰り祭の夜がやってきた。
採石場の向こう、遠くの町からかすかな楽隊の音が流れてくる。
土塁の底は祭りとは別世界のように暗く、冷えていた。
「町から合図。みんな空を見てるよ」
番人の声が降ってくる。
ベアトリスが道具を手に取り、イネスを見る。
「最終確認」
「大丈夫。いつでも」
イネスは手帳を閉じた。
ここから先は見えない。
「いくよ」
最初の光が昇った。
土塁の縁を越え、夜空へ消える。
少し遅れて、頭上で銀色の光が開いた。
二羽目。
三羽目。
土塁の内壁へ、銀と青の光が次々に映る。
イネスから見えるのは、空へ駆け上がっていく光の尾だけだった。
翼が鳥に見えているのか。
前の燕と次の燕が、一つの群れにつながっているのか。
分からない。
四羽目。
五羽目。
少し間が空く。
六羽目。
そして最後の七羽目が、夜空へ駆け上がった。
大きな光が土塁の内側を白く染めたあと、辺りは再び暗くなる。
二人は何も言わなかった。
町の方角から、遅れて人の声が届く。
歓声なのか、ただのざわめきなのか、採石場からは分からない。
「全部上がったね」
ベアトリスが道具を下ろした。
「ええ」
それだけは分かる。
七羽に見えたかどうかは、まだ分からない。
しばらくして、採石場の入り口から砂利を蹴る足音が近づいてきた。
走ってきたのは、仕立屋の娘の弟だった。
試射の時から、町と採石場の間を行き来する連絡役をしていた少年だ。
「待って、そんなに走ったら転ぶわよ」
イネスが声をかけるより先に、少年は坂を駆け下りてきた。
膝へ手をつき、何度か息を整えようとして、それでも我慢できなかったらしい。
「七羽!」
顔を上げる。
「七羽! ちゃんと七羽、飛んでました!」
イネスは動かなかった。
「広場からも?」
「はい!」
「川沿いは?」
「見えたって! 西門も!」
「鳥に?」
「燕です。ちゃんと燕でした。最後に全部つながって、群れになってました!」
少年は握っていた三枚の紙を差し出した。
イネスは一番上の紙を開く。
『七羽』
次も。
『燕に見えた』
三枚目。
『群れが空を渡った』
イネスはそれを一度読み直してから、ベアトリスを見る。
ベアトリスはすでに使った道具を木箱へ収め始めていた。
「なら片付けるよ。明日の朝も早い」
「感想それだけ?」
「成功したなら、次は撤収だ」
「もうちょっと何かないの?」
「あるよ」
「何?」
「早く片付けないと、広場の煮込みが売り切れる」
イネスはしばらく黙っていたが、やがて吹き出した。
「それ、今一番大事?」
「祭りの日の煮込みを甘く見るんじゃないよ」
少年も横で笑っている。
イネスは三枚の紙を重ねて四つ折りにし、作業着のポケットへ入れた。
「じゃあ急ぐわよ」
「最初からそうしな」
「今それも言う?」
ベアトリスは答えず、空になった木箱をイネスへ押しつけた。
土塁の向こうには、もう花火の光は残っていない。
暗い春の夜空の下で、二人はいつものように道具を片づけていった。
最後までお読みいただきありがとうございました。
面白かったと思っていただけましたら、評価していただけると今後の作品制作の参考になります。




