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花火は、打ち上げ台からは見えない

作者: 灯野ましろ
掲載日:2026/10/03

「イネス、銀の光、少し強くした方がいいんじゃないかい」


石造りの作業台の向こうから、低いしゃがれ声が飛んできた。

イネス・カルヴァンは筆を止め、羊皮紙に描いていた燕の尾羽から顔を上げる。作業台の端には、青白い光を放つ火晶が木皿に並べられていた。


「強くしたら尾が伸びすぎるわ。燕じゃなくて箒星になる」

「箒星が七つでも、客は喜ぶと思うけどねえ」

「町の紋章は七羽の銀燕なの。広場の石碑を十回見てきなさいよ、ベアトリス」

「三回で十分だよ。あそこの燕、一羽だけ嘴が欠けてるしね」


ベアトリス・モローは肩をすくめ、手元の道具を木箱へ戻した。

四十六歳になるベアトリスは、この地方で二十年以上も魔法花火の打上げを担当してきた職人だ。二十八歳のイネスは、光の色や形、空に残る時間を設計する色火師。

二人が組んで仕事をするようになって、今年で七年になる。


数日後に迫った「春帰り祭」は、冬のあいだ雪で閉ざされていた北の峠道が開く日を祝う祭りだ。

その最後を飾るために町から依頼されたのが、紋章である「七羽の銀燕」を夜空へ描く大掛かりな魔法花火だった。


七羽の燕が次々に空へ現れ、最後には一つの群れとなって夜空を横切る。

それがイネスの描いた完成図だった。


「イネス。三羽目、もう少し低くするよ」

「なんで?」

「なんでって、安全のためだよ」

「あと少し高い方が翼が綺麗に見えるわ」

「上げない」

「まだ何も説明してない!」

「説明されても上げない。そこから上は風が変わりやすい。花火を綺麗にするために町へ火を落とすわけにはいかないだろ」

「ちゃんと消えるように作ってるわよ」

「空の風は、お前の図面を読んで吹いてくれるわけじゃないんだよ」


安全に関する話になると、ベアトリスは冗談を言わない。

七年組んでいるイネスも、それだけは知っていた。


「……頑固」

「生き残るための知恵だよ。ほら、そっちを仕上げな。今夜が最初の試し打ちだろ」


作業台には、七羽分の火晶が並んでいる。

空で術式が開けば、銀色の光が大きな翼を描き、その後を淡い青の残光が追う。


図面の上では、完璧だった。


*


日が完全に落ちたころ、二人は町外れの古い採石場へ移動した。

かつて石材を切り出していた場所で、周囲を高い石壁と土塁が囲んでいる。祭りの花火は、町から十分離れたこの場所で打ち上げることになっていた。


安全のため、二人が作業する場所は高い土塁の裏側にある。

空へ昇っていく光は見えても、町から見上げた時にどんな形になっているのかは分からない。


「風、問題なし」

ベアトリスが空を確かめる。

「見取り役も準備できてるね?」

「西門から合図が来てる。三人とも位置についたわ」


自分たちで完成形を確認できないため、町には三人の見取り役を頼んでいた。

中央広場の果物屋。

川沿いで働く荷運び。

西門近くに住む仕立屋の娘。


花火の専門家ではない。

祭りの日に町から空を見上げる、ごく普通の人たちだ。


「じゃあ、始めるよ」

「お願い」


最初の光が夜空へ駆け上がった。

続いて二つ目、三つ目。

土塁の内側が、銀と青の光に照らされては暗くなる。


七つ。


音は予定どおりだった。

光もすべて空まで昇っている。


「……どうかしら」

イネスが見上げても、土塁の向こうには散り際の光しか見えない。

「打上げは問題なし」

ベアトリスは道具を片づけながら答えた。

「問題は、町からどう見えたかだね」


しばらくして、三枚の報告が届いた。

イネスは一枚目を開く。


「中央広場。『三羽くらいにしか見えなかった。あとは光が重なっていた』」

「ほう」

「川沿い。『最初は鳥に見えたけど、最後の二羽が重なって分からなくなった』」

「西門は?」

「……『白い点が並んだだけで、鳥には見えなかった』」


イネスはもう一度、最初の紙へ戻った。


「……七羽上げたわよ?」

「七発とも上がってたね」

「なんで三羽なのよ。翼も尾も全部作ったのに」

「町からは、そう見えたってことさ」


*


作業場へ戻るなり、イネスは大判の図面を広げた。

炭筆で燕の輪郭を囲み、その外側へさらに大きな線を引く。


「小さいのよ。もっと大きくすれば、町からだって翼が見える」

「大きくするなら、今のままじゃ上げられないよ」

「じゃあ別の高さに」

「駄目」

「なんで!」

「安全に使える空から外れるからだよ」

「じゃあ色をもっと強くする」

「強くしすぎれば後ろの燕が見えなくなる」


イネスは炭筆を作業台へ置いた。


「じゃあ、どうするの」

「間を広げる」


ベアトリスは自分の手順書を開いた。


「最初の試し打ちは近すぎた。前の燕の光が残っているうちに次が出たから、重なって見えたんだ」

「広げすぎたら群れじゃなくなる」

「そこまでは広げないよ。今の残光なら、少し間を取っても前の燕は空に残るはずだ」

「本当に?」

「二十年以上、空へ上げてるんだ。そこは任せな」


イネスはまだ納得できなかった。


「でも、私の図柄そのものにも問題があるかもしれない」

「まず重なりを消す。話はそれからだよ」

「……群れに見えなかったら、言ったからね」

「見えるさ」


ベアトリスはそう言って、イネスの図面へ目を落とした。


「それよりさ」

「何?」

「誰がその紙を見るんだい」

「……何よ」

「祭りの客が見るのは紙じゃなくて空だろ」


イネスは口を閉じた。


「机の上で綺麗な七羽でも、広場から三羽にしか見えないなら、祭りの日には三羽なんだよ」

「でも――」

「客はお前の机の横に立って見るんじゃない。町から空を見るんだ」


ベアトリスは自分の手順書へ戻った。


「明日は、あたしの間隔で試すよ」

「……群れに見えなくても知らないから」

「大丈夫だって。残光は残る。七羽とも見えるさ」


*


翌晩、第二試射が行われた。


今度はベアトリスの判断で、一羽ごとの間を大きく取った。

一つ目の光が消えかけるころ、次の光が昇る。


イネスは腕を組み、土塁の向こうを睨んでいた。


七発が終わる。

しばらくして、再び町から報告が届いた。


中央広場。


『七つの光が上がったのは分かった』


川沿い。


『七つには見えた。でも燕には見えない。光が一つずつ出てきただけだった』


西門。


『間が空きすぎて、一つの群れには見えなかった』


「…………」


イネスは紙をベアトリスへ渡した。


「……間が空きすぎたね」

「言ったでしょ」

「言ったねえ」

「もうちょっと悔しがりなさいよ」

「悔しがったところで、空は直らないだろ」


ベアトリスは三枚の報告を床へ並べた。


「最初は重なった。今度は離れすぎた」

「しかも西門からは、どっちも鳥に見えてない」


イネスは一枚目の報告へ目を落とした。


『白い点にしか見えなかった』


自分の図面を引き寄せる。

燕の翼には、細い羽を何本も描き込んでいる。尾も二つに分かれ、先端へ向かうほど光が細くなる設計だ。


「……これか」


炭筆の反対側で、翼の細い線を一本こすった。


「何だい」

「この羽、たぶん見えてない」


もう一本消す。


「尾も」

さらに消す。

「全部、細かすぎるんだ」


町から見上げれば、夜空に浮かぶ燕は小さい。

イネスが机の上で何度も描き直した細い羽も、尾の先も、そこからでは一つの光に潰れてしまう。


「……私、一羽ずつ綺麗に作ることしか考えてなかった」


ベアトリスは別の報告を拾い上げた。


「あたしは七発ちゃんと上げることしか考えてなかったよ」

「じゃあ」

「うん?」


イネスは消しかけの図面を裏返し、新しい面を広げた。


「七羽に見えるように作ろう」

「最初からそうしな」

「今それ言う?」

「言うさ。年寄りの特権だよ」


イネスは笑って、炭筆を握り直した。


*


今度の燕は、ずっと単純だった。


細い羽を捨て、大きな二枚の翼だけを残す。

尾も短くし、遠くから見た時に「鳥」と分かる輪郭を優先する。


「前の方が綺麗だった」

イネスは図面を睨んだ。

「近くで見ればね」

ベアトリスが言う。

「でも祭りの客は近くで見ない」

「分かってるわよ」


イネスは最後の細線を消した。


一方、ベアトリスも手順を組み直す。

今度は単純な等間隔をやめた。


「最初の数羽は少し近くする」

「また重ならない?」

「同じ場所へ重ねなきゃいい。前の光が残っているうちに、次が少し先へ出るようにする」

「後ろは?」

「途中で少し呼吸を置く。最後は前へ追いつくようにする」


イネスはしばらく考えた。


「なら、最初の燕は残光を少し長くする」

「できるかい」

「誰に聞いてるのよ」


二人は図面と手順書を並べる。

イネスが輪郭を変えれば、ベアトリスが並びを考え直す。

ベアトリスが間を変えれば、イネスが光の残り方を調整する。


机の端には、三枚の報告が置かれたままだった。


『三羽にしか見えない』

『鳥に見えない』

『群れに見えない』


イネスが図面を修正するたび、そのどれかへ目をやった。


夜が深くなるころ、七羽の形が決まった。


*


春帰り祭の夜がやってきた。


採石場の向こう、遠くの町からかすかな楽隊の音が流れてくる。

土塁の底は祭りとは別世界のように暗く、冷えていた。


「町から合図。みんな空を見てるよ」


番人の声が降ってくる。


ベアトリスが道具を手に取り、イネスを見る。


「最終確認」

「大丈夫。いつでも」


イネスは手帳を閉じた。


ここから先は見えない。


「いくよ」


最初の光が昇った。


土塁の縁を越え、夜空へ消える。

少し遅れて、頭上で銀色の光が開いた。


二羽目。


三羽目。


土塁の内壁へ、銀と青の光が次々に映る。

イネスから見えるのは、空へ駆け上がっていく光の尾だけだった。


翼が鳥に見えているのか。

前の燕と次の燕が、一つの群れにつながっているのか。


分からない。


四羽目。

五羽目。


少し間が空く。


六羽目。


そして最後の七羽目が、夜空へ駆け上がった。


大きな光が土塁の内側を白く染めたあと、辺りは再び暗くなる。


二人は何も言わなかった。


町の方角から、遅れて人の声が届く。

歓声なのか、ただのざわめきなのか、採石場からは分からない。


「全部上がったね」

ベアトリスが道具を下ろした。

「ええ」


それだけは分かる。


七羽に見えたかどうかは、まだ分からない。


しばらくして、採石場の入り口から砂利を蹴る足音が近づいてきた。


走ってきたのは、仕立屋の娘の弟だった。

試射の時から、町と採石場の間を行き来する連絡役をしていた少年だ。


「待って、そんなに走ったら転ぶわよ」


イネスが声をかけるより先に、少年は坂を駆け下りてきた。

膝へ手をつき、何度か息を整えようとして、それでも我慢できなかったらしい。


「七羽!」


顔を上げる。


「七羽! ちゃんと七羽、飛んでました!」


イネスは動かなかった。


「広場からも?」

「はい!」

「川沿いは?」

「見えたって! 西門も!」

「鳥に?」

「燕です。ちゃんと燕でした。最後に全部つながって、群れになってました!」


少年は握っていた三枚の紙を差し出した。


イネスは一番上の紙を開く。


『七羽』


次も。


『燕に見えた』


三枚目。


『群れが空を渡った』


イネスはそれを一度読み直してから、ベアトリスを見る。


ベアトリスはすでに使った道具を木箱へ収め始めていた。


「なら片付けるよ。明日の朝も早い」

「感想それだけ?」

「成功したなら、次は撤収だ」

「もうちょっと何かないの?」

「あるよ」

「何?」

「早く片付けないと、広場の煮込みが売り切れる」


イネスはしばらく黙っていたが、やがて吹き出した。


「それ、今一番大事?」

「祭りの日の煮込みを甘く見るんじゃないよ」


少年も横で笑っている。


イネスは三枚の紙を重ねて四つ折りにし、作業着のポケットへ入れた。


「じゃあ急ぐわよ」

「最初からそうしな」

「今それも言う?」


ベアトリスは答えず、空になった木箱をイネスへ押しつけた。


土塁の向こうには、もう花火の光は残っていない。

暗い春の夜空の下で、二人はいつものように道具を片づけていった。

最後までお読みいただきありがとうございました。

面白かったと思っていただけましたら、評価していただけると今後の作品制作の参考になります。

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