爪研ぎの音でかき消された悲鳴
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第一章:深夜二時のバリバリ音
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バリバリバリバリバリッ……!
深夜二時。静まり返ったボロアパートの102号室に、乾いた激しい音が響き渡っていた。
「う、ん……おい、クロ……夜中に勘弁してくれよ……」
住人の青年は、布団の中から重い体を起こして眩しそうに目を細めた。
部屋の隅、古い木製の柱に向かって、一匹の老いた黒猫——クロが夢中で前脚を動かしている。
バリバリッ、バリバリバリバリッ!
クロはこの路地裏を縄張りにする野良猫だ。
時々こうして青年の部屋に忍び込んでは、勝手に暖を取り、勝手に柱で爪を研いでいく。普段なら「こらこら」と苦笑いで済ませる青年だったが、今夜はそんな余裕すらなかった。
(ここ数日、ずっとおかしいんだ……)
青年は青ざめた顔で、自室の暗がりを見回した。
数日前から、部屋の中で「奇妙な音」がし始めていたのだ。
誰もいないはずの天井から聞こえる、重いものを引きずるようなズズズ……という音。
壁の奥から聞こえる、爪で木をカリカリと引っかくような音。
最初はネズミかとも思っていたが、今夜は明らかに異質だった。部屋の空気が、まるで氷水に浸かったように冷たく重い。
青年がクロを止めようと布団から脚を出した、その瞬間だった。
部屋の蛍光灯が、パチッと嫌な音を立てて消えた。
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第二章:爪研ぎの裏で鳴る音
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暗闇が部屋を支配する。
月光すら届かない濃厚な黒の中で、青年の耳元に、直接「それ」が届いた。
『……ネ……エ……オ イ……デ……』
湿り気を帯んだ、女の不気味な声。
同時に、青年の全身が金縛りに遭ったかのようにピキリと凍りついた。指先一つ動かせない。
視界の端、暗闇の壁から、ズルリと濡れた何かが這い出てくる気配がした。粘着質な液体が床に滴り落ちる**ポツリ、ポツリ**という音が、やけに鮮明に部屋へ響く。
(出た……ッ! 噂の、この部屋の事故物件の理由……ッ!)
恐怖で心臓が破裂しそうになる青年。
怪異の冷たい手が、青年の首元へ伸びかけた——まさにその時。
バリバリバリバリバリバリッ!!!!
クロの爪研ぎ音が、静寂を切り裂いて一段と激しくなった。
クロ視点では、柱の表面に突然「ヌメヌメした不快なイボイボ(怪異)」が大量に湧き出てきただけだ。爪を研ぐには最高の引っかかり具合である。クロは瞳孔をまん丸にし、背中を丸めて全力で爪を打ち込んだ。
バリバリッ! メリメリメリッ!
「……ッ!??!?」
青年は自分の耳を疑った。
クロが爪を研ぐ音に混ざって、怪異の側から「メリメリ」という肉や骨が削り取られる生々しい音が響き始めたのだ。
バリバリバリッ! グシャッ、ゴリッ!!
『ギャアアアアアアアアアアアッ!!!!』
部屋中に満ちたのは、かわいらしい猫の爪研ぎ音……ではなく、壁の奥で怪異が肉塊ごと破砕されていく、凄惨極まりない悲鳴と破壊音だった。
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第三章:削り取られる絶望
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バリバリバリッ! グチャッ!
「ギャアアア……ッ! ギ、ギギッ……!」
耳を塞ぎたくなるような凄絶な音が、暗闇の部屋に響き渡る。
クロにとっては、単に「爪のかかりが良い極上の砥石」で遊んでいるだけに過ぎない。
だが、青年の目と耳には、壁から這い出ようとした凶悪な怪異が、猫の爪によってズタズタに解体されていく惨劇として映っていた。
湿った肉が削ぎ落とされる音。
骨が砕ける重い音。
そして、怨霊の絞り出すような絶叫が、クロの激しい爪研ぎ音によってかき消されていく。
バリバリバリバリッ……!
やがて、壁の奥から聞こえていた苦悶の声は小さくなり、最後は「カサ……」という乾いた音を残して完全に途絶えた。
クロは満足そうに「フンッ」と鼻を鳴らすと、前脚を舐めて整え始めた。
同時に、部屋を包んでいた刺すような冷気が潮が引くように消え去り、ピチッと音を立てて部屋の蛍光灯が復旧した。
「はぁ……はぁ……はぁっ……!」
金縛りが解けた青年は、ガタガタと震えながら倒れ込んだ。
冷や汗で全身がぐっしょりと濡れている。
青年が恐る恐るクロのいた柱を見ると——そこには、ズタズタに引き裂かれた木肌と、拭いきれない黒い煤のような汚れだけが残されていた。あの悍ましい怪異の気配は、跡形もなく消え失せている。
「助かった……助かったんだ……」
青年はへたり込んだまま、深々と息を吐き出した。
クロの爪研ぎ音が、怪異を打ち砕いてくれたのだ。
青年は涙ぐみながら、顔を洗っている黒猫の頭をそっと撫でた。
「ありがとう、クロ……。お前のおかげだよ……」
クロは鬱陶しそうに耳をピクッと動かしただけで、特に気にした様子もなく欠伸をした。
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最終章:消えない音
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それから、静寂が戻った。
部屋の中に響くのは、外で静かに降り続く雨の音と、青年の荒い呼吸音だけ。
青年はすっかり安心し、強張っていた全身の力を抜いて布団へ倒れ込んだ。
(これで、今夜はゆっくり眠れる……)
目を閉じ、安堵の余韻に浸ろうとした——その時だった。
カチ。
暗闇の中に、小さな音が弾けた。
(……え?)
青年は目を開けた。
クロは部屋の真ん中で丸くなり、すでにすやすやと寝息を立てている。爪は研いでいない。
カチ……カチ……カチ……。
音が、近づいてくる。
それは、硬い金属と金属が擦れ合うような音。
例えるなら——**巨大なハサミを、ゆっくりと開閉させるような不気味な音**だった。
カチ……カチ……カチ……。
音は柱からではない。
青年の**耳元、わずか数センチの暗闇**から聞こえていた。
「ひ……っ……」
青年は恐怖で体が硬直した。
クロは丸くなったまま動かない。完全に眠りについている。
(クロ……起きてくれ……ッ! クロ……!!)
心の中で叫ぶ青年。だが、届かない。
耳元で鳴り響く金属音は、より速く、より鮮明に、青年の首元を切り刻む準備を始める。
カチカチカチカチカチカチカチカチ——……。
(おわり)
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