壁と窓
その壁の厚さに気づいたのは、三十歳を過ぎた、ある雨の火曜日だった。
いつもと同じように、満員電車のドアに背中を押し付けられ、スマホの画面をスクロールする。流れていくのは、見知らぬ誰かの成功、どこかの国のニュース、そして同級生が始めたという新しいビジネスの報告。どれも僕の人生には一滴の影響も与えない、ただの記号だ。
「……何やってんだろ」
小さく呟いた言葉は、隣の男のヘッドホンから漏れる重低音にかき消された。
僕の仕事は、医療機器の営業だ。病院を回り、医師や事務長に頭を下げ、競合他社より少しでも安い見積もりを提示する。やりがいがないわけではない。僕が売った機器が、誰かの命を救うことだってあるかもしれない。
けれど、それは「僕」でなくてもいいのだ。僕が明日会社を辞めても、別の誰かが僕の名刺を持って同じように微笑み、同じように頭を下げれば、世界は何の滞りもなく回っていく。
目的のない人生。
それは、決して不幸ではない。むしろ、幸福の部類に入るのだろう。
大きな挫折を知らず、病気もせず、毎月決まった日に給料が振り込まれる。この平穏な壁は、僕を世間の荒波から守ってくれるシェルターだ。
だが、そのシェルターの中は、あまりにも息が詰まるものだった。
その日の夜、僕は接待帰りの足で、いつもは通り過ぎるだけのうらぶれた路地裏に迷い込んでいた。
アルコールで火照った体を冷ます、ぬるい夜風。ふと、古い雑居ビルの2階から、かすかにピアノの音が聞こえてきた。
ジャズではない。クラシックでもない。ただ、誰かが感情をそのまま鍵盤にぶつけているような、酷く不器用で、暴力的なまでに自由な旋律。
吸い寄せられるように階段を上り、重い鉄の扉を押す。
そこは、どこか懐かしさを感じる、薄暗いバーだった。客は誰もおらず、カウンターの奥で、白髪のマスターが古いアップライトピアノを叩いていた。僕の入店に気づいても、彼は手を止めない。
最後の和音が夜の空気に溶けていくのを待って、マスターは鍵盤から手を離し、僕を見た。
「いらっしゃい。ずいぶん、綺麗な格好をして、迷子かい?」
「……すみません。音が聞こえたので、つい」
僕は店内を見まわして、カウンターの端の席に腰掛けた。
マスターは何も言わず、琥珀色の液体が入ったグラスを僕の前に差し出した。頼んでもいないウイスキー。
「迷子の方へはサービスだ」
「迷子、ですか?」
「そう。道に迷ってる奴が、うちにはよく来るんだ」
僕はウィスキーのグラスに視線を落とした。氷がからん、と音を立てて沈む。
「迷子の話を聞くのが私の趣味でね」
マスターはそう言って、グラスを磨く手を止めた。
普通なら、初対面に弱音を吐いたりしない。だが、アルコールの熱と、先ほどまで耳に残っていたあの不器用なピアノの旋律が、僕の理性を少しずつ溶かしていく。
「……立派な社会人に見えますか、僕」
「ああ、仕立ての良いスーツだ。それに、間違ったことは何一つしていないような、綺麗な顔をしてる」
「それが、息苦しいんです」
気がつけば、誰にも言えなかった言葉が溢れていた。代わりのきく仕事、目的のない平穏、守られていると同時に閉じ込められている、この見えない壁のこと。僕はマスターに、親しい人にも話していないことをすっかり話してしまった。
「あんた、いい壁の中に住んでるね」
マスターは僕のスーツと、疲れ切った顔を見比べながら、不敵に笑った。
「いい壁、ですか」
「そうさ。傷つかないように、間違えないように、丁寧に作られた頑丈な壁だ。そこにいれば安全だ。だが、退屈だろう?」
心臓を直接指で突かれたような気がした。
僕はグラスを煽る。喉を焼く熱さが、自分が生きていることを微かに実感させた。
「どうすれば、壊せるんですかね。この壁」
僕の問いに、マスターはピアノの鍵盤を一つ、ぽんと叩いた。
乾いた高い音が響く。
「壊す必要なんてないさ。ただ、その壁に一つ、誰も知らない自分だけの『窓』を開ければいい。」
「窓、ですか」
「そう。外の空気を吸うための窓をね」
マスターは不敵に笑うと、カウンターにあったカードを取って、ペンで何かを描き足した。それを、スーツの胸ポケットに、すっと差し込む。
「……さあ、もう時間だ。迷子は帰りなさい」
促されるように店を出た。かなり話し込んだはずなのに、時刻はまだ終電前だった。
電車のシートに深く腰掛け、窓の外を眺める。いつもと同じ、真っ暗なビル群。いつもと同じ、退屈な街の景色。それなのに、今日は建物の高低が音符のように組み合わさり、一つのメロディのように流れていくように見えた。
アルコールの抜けていく頭の片隅で、あのピアノの旋律が、まだかすかに鳴り響いているような気がした。
家に帰り、泥のように眠った。
翌朝、僕の頭痛は酷かったが、心は奇妙に軽かった。
いつもと同じ満員電車。いつもと同じオフィス。いつもと同じ、営業スマイル。
けれど、僕の胸のポケットには、昨夜マスターからもらった、コースターが入っている。バーの名前とピアノの絵、それと、マスターが描いた窓。ピアノから出ている音符が、少し開いた窓の合わせから出ていくように繋げられている。どんな曲なのだろうと、僕は絵を見ながら想像する。
僕の人生に、まだ大層な目的は見つかっていない。平穏という壁の中に、相変わらず閉じ込められたままだ。
ただ、僕は今日から、その壁を少しずつ削り、小さな窓を作り始めようと思う。そこから見える景色がどんなに荒れ狂っていようとも、自分の意志で外の風を感じるために。




