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君に出会う15前の空

作者: 高橋秀明
掲載日:2026/05/20

プロローグ

午後四時四十五分。世界は、残酷なほど美しい二つの色に引き裂かれていた。

西の地平線に沈みゆく太陽が放つ、燃えるような茜色。そして、東の空から静かに

夜の帳を広げていく、冷たい群青色。その二つの色が混ざり合う境界線は、まるで誰

かがパレットの上で筆を止めてしまったかのように、曖昧で、そして切なかった。

高校二年生の秋、水瀬陽翔みなせ はるとは、学校の旧校舎の屋上で、ただぼん

やりとその空を眺めていた。

フェンスに背を預け、冷たい風に身を任せる。かつては、この空の色をどうやって

キャンバスに再現するか、そればかりを考えていた。しかし、今の彼の両手には、筆

もパレットもない。

「これ以上、何を描けばいいんだよ……」

半年前、全国コンクールで落選したあの日、陽翔は自分の才能の底を見てしまっ

た。どれだけ努力しても、本物の天才が描く一筆の輝きには届かない。そう悟った瞬

間、あれほど愛おしかった絵の具の匂いが、急に息苦しいものに変わった。

それ以来、彼は美術部へ顔を出すのをやめ、放課後はこの寂れた屋上で、ただ時間

を潰すだけの存在になっていた。

時計の針は、着実に進んでいく。

これが、彼にとっての――「君に出会うまでの、十五分前の空」だった。

第一章 屋上の邂逅

午後五時ちょうど。

静寂に包まれていた屋上に、場違いなほどの大きな音が響いた。

軋んだ音を立てて、重い鉄の扉が開く。陽翔が驚いて振り返ると、そこには一人の

少女が立っていた。

息を荒くし、少し乱れた髪を直すこともせず、彼女は屋上を見渡した。そして、陽

翔と視線が合うと、ぱっと顔を輝かせた。

「あ、先客がいたんだ。ごめんね、驚かせちゃって」

彼女の着ている制服は、この学校のものではなかった。どこか遠くの街の、上品な

ネイビーのセーラー服。陽翔は戸惑いながらも、声を絞り出した。

「君は……誰? ここは立ち入り禁止のはずだけど」

「私はあおい。今日からこの街の病院に療養に来たの。でね、どうしても見た

いものがあって、ちょっとだけこの学校に忍び込んじゃった」

葵と名乗った少女は、悪びれもせず微笑むと、トコトコと陽翔の隣まで歩いてき

て、同じようにフェンスに両手をかけた。

間近で見る彼女の瞳は、不思議な輝きを放っていた。それは、先ほどまで陽翔が眺

めていた、あの深い群青色の空をそのまま閉じ込めたかのように、澄んでいて、どこ

か吸い込まれそうな色だった。

3

「見たいものって?」

陽翔が尋ねると、葵は空を指差した。

「この空だよ。水瀬陽翔くんが描いた、『残光』の空」

心臓がどくり、と大きく跳ねた。

「どうして、僕の名前を……。あの絵を知っているの?」

『残光』。それは、陽翔が半年前のコンクールに出品し、そして落選した、彼にとっ

ての「挫折の証」である絵のタイトルだった。今では美術室の片隅で、埃を被ってい

るはずのシロモノだ。

葵は嬉しそうに目を細めた。

「知ってるよ。お父さんが美術の仕事をしていてね、その関係でコンクールの落選作

のデータベースを見せてもらったの。たくさんの絵の中で、君の描いた空だけが、私

の胸に刺さった。不完全で、迷っていて、でも、必死に光を探しているような、そん

な空。だから、本物のこの空が見たくて、わざわざこの街の病院を選んだんだから」

陽翔は言葉を失った。自分が無価値だと切り捨てたものが、遠く離れた誰かの心を

動かし、ここまで連れてきたという事実が、にわかには信じられなかった。

4

第二章 十五分間のグラデーション

その日から、陽翔の放課後は一変した。

葵は毎日、午後四時四十五分になると、病院の外出許可を得てこの屋上にやってき

た。陽翔もまた、吸い寄せられるようにその時間、屋上へと足を運んだ。

二人が並んで空を眺める時間は、いつも決まって十五分間。午後五時を過ぎると、

太陽は完全に沈み、夜が街を支配してしまうからだ。

「今日の空は、ちょっと寂しい色をしてるね」

葵がマフラーに顔を埋めながら言う。

「そうだね。雲が多いから、茜色が遮られてる。でも、あの雲の隙間から漏れる光

は、昨日より力強い気がする」

陽翔は無意識のうちに、空の色を言葉で分析していた。一度は捨てたつもりだった

「画家の目」が、葵の隣にいるときだけは、鮮烈に蘇ってくるのを感じていた。

「ねえ、陽翔くん。もう一度、絵は描かないの?」

ある日、葵が不意にそんな質問を投げかけてきた。

陽翔はフェンスを握る手に力を込めた。

「……描けないよ。僕には才能がないんだ。どんなに描いても、自己満足の域を出な

い。本物のプロや、天才たちの足元にも及ばないんだよ」

吐き出すような言葉。それは、ずっと陽翔の心を縛り付けていた呪いだった。

5

しかし、葵は首を横に振った。

「天才の絵が正しいとは限らないよ。私は、完璧な絵が見たいんじゃない。陽翔くん

の目に映る世界が、どんな色をしているのかを知りたいの。陽翔くんにしか描けない

空が、絶対にあるから」

彼女の言葉は、冷え切った陽翔の心に、小さな、しかし消えない火を灯した。

6

第三章 消えゆく茜色

季節は巡り、冬が近づいていた。

屋上に吹き付ける風は日ごとに冷たさを増し、空が茜色に染まる時間も早くなって

いった。

それと同時に、葵の肌の白さは痛々しいほどになり、屋上の階段を上る足取りも遅

くなっていった。陽翔は薄々気づいていた。彼女の病気が、決して軽いものではない

ことに。

「ねえ、陽翔くん。私ね、もうすぐ遠くの病院に行かなきゃいけないの」

ある日の十五分間、葵がぽつりと言った。

「転院……するの?」

「うん。もっと大きな、設備の整った東京の病院。でもね、怖くはないよ。陽翔くん

の描く空を、心の中でいつでも見られるから」

彼女は微笑んでいたが、その声はどこか儚げだった。

そして、その翌日から、葵は屋上に姿を現さなくなった。

一日、二日……一週間が過ぎても、午後四時四十五分の屋上には、陽翔一人の影し

かなかった。胸を掻きむしられるような不安に駆られ、陽翔は葵が通っていると言っ

ていた街の中央病院へと走った。

受付で彼女の名前を告げると、看護師は悲しげな目を向けた。

7

「葵ちゃんね……。病状が急変して、明日の朝、緊急転院することが決まったの。今

は面会謝絶なんだけど……」

陽翔は崩れ落ちそうになるのを堪え、必死に頭を下げた。

「一目だけでいいんです! 彼女に、伝えなきゃいけないことがあるんです!」

その必死さが伝わったのか、看護師は一枚のメモを渡してくれた。そこには、弱々

しい筆跡で、葵からの伝言が残されていた。

『陽翔くんへ。最後にまた、あの屋上の空が見たかったな。でも、私は信じてるよ。

陽翔くんがまた、素敵な空を描いてくれるって。私の大好きな、あの十五分間の空

を。ずっと待ってるからね』

病院を飛び出した陽翔は、狂ったように学校へと走った。

美術室の扉を激しく開け放ち、奥の倉庫に飛び込む。埃を被ったキャンバスの山を

かき分け、自分の『残光』を見つけ出した。

それをイーゼルに立てかけ、パレットに絵の具を絞り出す。

手が震えていた。怖かった。また不完全な絵しか描けないかもしれない。

しかし、頭の中に浮かぶのは、あの群青色の瞳をした少女の言葉だった。

――陽翔くんにしか描けない空が、絶対にあるから。

陽翔は筆を執った。

涙で視界がにじむのを何度も袖で拭いながら、彼は一心不乱にキャンバスに色を乗

せていった。葵が見たがっていた空、葵が救ってくれた自分の世界。そのすべてを、

一筆一筆に魂を削るようにして込めていった。

8

夜が明け、東の空が白み始めるまで、彼の筆が止まることはなかった。

エピローグ 君と見上げる空

三年後の春。

都内の小さなギャラリーで、ある新進気鋭の画家の個展が開かれていた。

会場の最奥、最も広い壁に、その絵は飾られていた。

巨大なキャンバスに描かれていたのは、燃えるような茜色と、深い群青色が激し

く、そして美しく混ざり合う、あの日の屋上の空。

絵のタイトルは――『君に出会うまでの、15分前の空』。

多くの人々がその絵の前で立ち止まり、その圧倒的な光と切なさに目を奪われ、静

かに涙を流していた。

陽翔は会場の隅で、その様子を静かに見守っていた。彼はもう、誰かの才能と自分

を比べることはしなくなっていた。ただ、届けたい人のために描く。それが、彼の絵

のすべてだったからだ。

「やっぱり、最高の空だね」

不意に、聞き覚えのある、しかし少し大人びた声が陽翔の耳に届いた。

陽翔が弾かれたように振り返ると、そこには、あの頃よりも少し髪の伸びた、しか

し、あの日の空と全く同じ「群青の瞳」をした少女が立っていた。

彼女はかつての病弱さを感じさせないほど、自分の足でしっかりと立ち、陽翔を見

て悪戯っぽく微笑んでいた。

10

「遅くなってごめんね。約束通り、最高の空、見に来たよ」

陽翔の目から、温かいものが溢れ落ちた。彼は一歩を踏み出し、彼女の手を優しく

握りしめた。

「お帰り、葵。……待っていたよ」

ギャラリーの窓の外には、あの日と同じ、美しい夕暮れの空が広がろうとしてい

た。しかし、今の二人が見上げる空には、もう寂しさはなかった。これからは二人

で、どんな色にでも染めていけるのだから。

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