身勝手なタイムトラベラー
「空白の封筒」と同じく、以前書いて寝かせていた作品です!
「三年後の今日、君は僕をかばって死ぬ。だから絶対に、僕を好きにならないでくれ」
初対面のはずの男は、雨に濡れたダークブラウンのスーツを身に纏いながら、ひどく絶望した瞳で私にそう告げた。
川崎駅前の、少し照明を落とした静かなカフェ。
急な土砂降りに見舞われ、雨宿りがてら飛び込んだその店で、私——美桜の向かいの席に、彼は当然のような顔をして座っていた。
「……えっと、新手のナンパですか? それとも宗教の勧誘?」
「僕は未来から来た。君を、死なせないために」
冗談だと思って笑い飛ばそうとした私の頬は、彼のあまりにも真剣で、どこか泣き出しそうな表情を見て引きつった。
彼の名前は、理人というらしい。
狂人の戯言だと席を立とうとした私を引き止めたのは、彼が私のことを「何から何まで」知っていたからだ。
「君は川崎市内のメーカーで事務をしていて、水曜日は必ず定時で上がる。コーヒーにはお決まりのように砂糖を二つとミルクをたっぷりと入れるし、休日はカフェにこもって『三国志』の、それもかなりマニアックな武将の列伝を読みふけるのが好きだ」
彼はテーブルの上に置かれた私の文庫本に視線を落とし、すらすらと私のプライベートを並べ立てた。ストーカーを疑うには、彼の態度はあまりにも切羽詰まっており、そして何より、私を見る彼の瞳には「底知れぬ喪失感」と「深い愛情」が入り混じっていた。
「元の歴史で、僕たちはここで出会い、偶然趣味が合って恋に落ちた。……君は僕の全てだった」
理人の声が、微かに震える。
「でも、三年後。僕たちは事故に巻き込まれる。その時、君は僕をかばって……僕の目の前で息を引き取ったんだ」
だから彼は、途方もない代償を払って過去へと時間を遡り、「私との出会い」そのものを書き換えに来たのだという。
「君が僕を愛さなければ、君が僕をかばって死ぬ未来は来ない。今日から三年後のその日まで、僕はただの『監視役』として君の安全だけを守る。お願いだ、美桜。僕には一切、関わらないでほしい」
それは、あまりにも身勝手で、傲慢な要求だった。
愛していると言いながら、私から彼を愛する権利を奪い、自分だけが泥を被ろうとする。
窓ガラスを叩く激しい雨音の中、私はただ、そのダークブラウンのスーツを着た不器用なタイムトラベラーを、呆然と見つめ返すことしかできなかった。
宣言通り、理人は私を徹底的に遠ざけた。
「関わるな」と言いながらも、彼は常に私の視界の端——絶対に安全が確保できる距離に存在していた。
私が残業で終電を逃した夜。
雨が降る駅のロータリーで途方に暮れていると、必ずと言っていいほど、黒い大型のSUVが音もなく私の前に滑り込んでくる。
後部座席のドアが開き、私が乗り込んでも、運転席の彼は決して振り返らない。
「……残業、お疲れ様」
「ありがとう。でも、タクシーで帰れるのに」
「夜道は危険だ。それに、これは僕の自己満足だから気にしないでくれ」
車内での会話は、いつもそれだけで終わる。
けれど、車内の温度は雨に濡れた私が寒くないように少し高めに設定されており、カーステレオからは私の好きな静かなジャズが流れている。そして何より、車内に満ちている彼の微かなコロンの香りが、私をひどく安心させた。
バックミラー越しに目が合うと、彼はすぐに視線を逸らす。その横顔には、私に触れたいという衝動を必死に抑え込んでいるような、痛切な我慢が滲んでいた。
またある時は、私が酷い風邪を引いてアパートで寝込んでいた時のこと。
インターホンが鳴り、重い体を起こしてドアを開けると、そこには誰もいなかった。
代わりに、ドアノブには私の常備薬と、喉に優しい温かい中華粥が入った保温ジャーがかけられていた。
ふと窓の外を見下ろすと、冷たい雨が降る電柱の陰で、ダークブラウンのスーツを着た彼が、私の部屋の明かりを見上げながら立ち尽くしていた。
傘もささず、私が無事薬を受け取ったことを確認すると、足早に去っていく。
——好きにならないでくれ。
彼は何度もそう言った。
けれど、彼の行動の端々からは、私を世界で一番大切に想っているという「どうしようもない愛情」が、隠しきれないほどに溢れ出していた。
私が職場の男性と親しげに話しているのを見た日の夕方、彼の運転するSUVのハンドルを握る手が、白くなるほど強く握り締められていたのを、私は知っている。
触れてこないくせに、誰よりも強い独占欲で私を囲い込んでいる。
三年という月日は、私の中で彼への感情を「疑問」から「確信」へと変えるのに十分すぎる時間だった。
どんなに突き放されても、こんなにも過保護に、全身全霊で守られ続けて。
どうして、惹かれないでいられるだろうか。
私はいつしか、この身勝手で不器用な彼を、心の底から愛してしまっていた。
そして迎えた、「運命の日」。
三年前のあの日と同じ、空を厚い雲が覆う、激しい土砂降りの雨の夕暮れだった。
川崎市内の、交通量の多い大きな交差点。
理人は今日、普段の数倍の距離の近さで私に寄り添っていた。彼の顔には血の気がなく、周囲の車の動きを神経質なほどに鋭く監視している。
「……理人。そんなに怖い顔しないで。私は大丈夫だから」
私が横に並んで声をかけると、彼はビクッと肩を揺らし、泣き出しそうな顔で私を見た。
「君は何もわかっていない。あの時も、こんな雨の日だった。君は笑って僕に手を伸ばして……次の瞬間には、血まみれになっていたんだ」
彼の声は、過去のトラウマで震えていた。
タイムトラベルという奇跡を起こしてまで、彼は三年間、たった一人でこの恐怖と戦い続けてきたのだ。私に愛されることも許されず、ただ私が生きている今日という日を迎えるためだけに。
歩行者用の信号が、青に変わる。
私たちが横断歩道に足を踏み出した、その瞬間だった。
『——キキィィィィィィィィッ!!!』
凄まじいスキール音が、雨音を切り裂いて響き渡った。
雨でスリップした一台の黒いセダンが、赤信号を完全に無視し、コントロールを失って私たちの方へと猛スピードで突っ込んでくる。
(……これだ)
時間が、ひどくゆっくりと流れるように感じた。
元の歴史では、ここで私が彼を突き飛ばし、身代わりになったのだろう。
だが、今の歴史は違う。
「美桜ッ!!」
理人が叫び、私を突き飛ばすために、自らの体を車の軌道上へと投げ出そうとした。
彼が選んだのは「私との出会いをなかったことにする」ことではない。最終的に、もし運命が回避できないのなら、自分が私の身代わりになって死ぬという、最悪の自己犠牲だったのだ。
「ふざけないでッ!!」
私は、自分を突き飛ばそうと伸びてきた彼の腕を力一杯弾き返し、逆に彼のダークブラウンのネクタイを両手で強く、強く引き寄せた。
「え……っ?」
理人の間抜けな声が漏れる。
私は彼を強引に抱き寄せたまま、濡れたアスファルトの上へともつれ込むように転がり込んだ。
直後。
轟音と共に、暴走するセダンが私たちの数十センチ横をすさまじい風圧を伴ってすり抜け、そのまま交差点の先の街路樹に激突して、ひしゃげて停止した。
ガシャァァァンッ!!という破壊音が鳴り響き、周囲の人々の悲鳴が上がる。
冷たい雨が打ち付けるアスファルトの上。
私は理人の胸ぐら(ネクタイ)をしっかりと掴んだまま、荒い息を吐いていた。
彼の心臓の音が、私の胸に直接伝わってくる。生きている。二人とも、傷一つなく。
「……なんで、避けたんだ」
私の下敷きになった理人が、放心したように呟いた。
その瞳からは、雨水に混じって、大粒の涙が溢れ出していた。
「僕が死ねば、君の安全は確実だったのに。どうして僕を引っ張った!? 一歩間違えれば、君も巻き込まれていたんだぞッ!!」
彼は怒鳴り、それから子供のように私の肩に顔を埋めて嗚咽を漏らした。
失う恐怖。救えた安堵。さまざまな感情が爆発し、彼はもう、三年間被り続けてきた「冷徹な監視役」の仮面を維持することができなくなっていた。
「バカじゃないの」
私は、涙でぐしゃぐしゃになった彼の頭を、優しく、けれど強く抱きしめた。
「あなたが死んだ未来で、私が幸せに笑って生きていけるわけないでしょ。三年間もこんなに過保護に、溺愛しておいて……自分だけいなくなるなんて、絶対に許さない」
「美桜……でも、僕は、君に好きにならないでって……」
「無理よ。そんなの、最初から無理だったわ」
私は彼の胸ぐらをさらに強く引き寄せ、震える彼の唇に、自分の唇を強引に重ねた。
冷たい雨の中で、彼の唇だけがひどく熱かった。
最初は驚いて硬直していた彼の手が、やがて諦めたように、私の背中へと回り、壊れ物を扱うように優しく、強く抱きしめ返してくる。
三年間の空白を埋めるような、長くて、深くて、息が詰まるほどのキス。
運命も、タイムパラドックスも、もう関係ない。
私たちを縛り付けていた「死の時計」の秒針は、今、確実に未来へと向かって動き始めたのだ。
それから一年後。
川崎駅前の、あの日出会ったカフェ。
「美桜、コーヒー。砂糖二つと、ミルク多め」
「ありがとう、理人」
私の目の前には、ダークブラウンのスーツを上品に着こなした理人が、穏やかな笑顔で座っている。
あの「運命の日」を乗り越えてから、彼は別人のように私に甘くなった。
「ねえ、理人。また『三国志』の続き読んでるんだけど、この武将の最後、悲しすぎない?」
「ああ、そこか。でも彼は、愛する主君のために命を懸けたんだから、本望だったんじゃないかな。……まあ、今の僕なら、絶対に命は捨てずに、一緒に生き残る方法を探すけどね」
理人はそう言って、テーブル越しに私の髪にそっと触れ、愛おしそうに目を細めた。
「もう、自己犠牲はこりごりだよ。君を泣かせるくらいなら、どんな運命でも二人で叩き壊す」
「ふふっ。頼もしいタイムトラベラーさんだこと」
私は笑い、彼が淹れてくれた甘いコーヒーを口に運んだ。
外は、あの日と同じように雨が降っている。けれど、今の私にはこの雨音すらも、彼との穏やかな時間を彩る優しいBGMにしか聞こえない。
世界で一番不器用で、身勝手で、そして誰よりも私を愛してくれた人。
逆行していた私たちの秒針は、これからもずっと、二人で同じ時を刻み続けていく。
読んでいただき、ありがとうございました!
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