最後の指導
都市伝説風の奇譚となる短編小説、第16話目となる今作は、お母さんを亡くしたばかりの中学生の身に起こる、少し不思議なヒューマンドラマです。
中学卒業まで半年くらいの夏、夏期休暇に入る直前に、T君のお母さんは交通事故で亡くなった。あまりにも急なことで、訳が分からないうちに通夜と告別式が終わっていた。
(いったい、何が起こったんだろう……)
悲しむ気持ちが不思議と起こらなかったT君は、目の前のことを受け入れられないでいた。初七日が過ぎた今、白い祭壇に置かれた骨壺と遺影を見ながら、そのうち元気な顔で帰ってくるのではないかと本気で思っているくらいだ。
だけど、日が経つごとに普通ではいられなくなっていく。
この世界にはもう存在しないという事実を毎日のように突きつけられるうちに、母親とは二度としゃべることができない現実に耐えきれなくなった。自分自身が命を絶って肉体を離れたら会えるのだろうかと、本気で考えるほどに追い込まれていった。
だが―
(そんなことをしても、お母さんに怒られるだけだよな……)
母の性格を知り抜いているから容易に想像できた。
陸上選手として活躍した彼女は、性格も体育会系そのものだった。
(仕方ない。久しぶりに走るか……)
母の影響で中学から陸上部に入っているT君は、夏休みに入ってからの部活動については休暇をもらっていた。顧問である先生もT君のことを心配してくれて、落ち着くまで休んでいたら良いと言ってくれている。だけど、頭にわき起こる喪失感を和らげるには、何かに没頭した方が良いと思い始めたところだ。
久しぶりに、練習用のシューズをはいた。
自慢の厚底シューズは母親にねだったものだ。
ほんの数回しか使っていないが、
(この厚底シューズ、やっぱり良いな~)
軽いジョグで走っただけでも、その良さを感じ取れた。
厚底シューズ特有の衝撃吸収力はもちろんだが、反発力が驚くほどある。しかも、見た目が大きい割りには軽量だから、トランポリンで跳ねるようにアスファルトの上を走れる感覚があって、とても心地よかった。
久しぶりの運動は軽く済ませる予定だったが、T君はつい、ペースを上げてしまった。練習で身につけた持久力がかなり落ちていたけど、ゼイゼイと呼吸しながら体を追い込んでいると、頭にわき起こる喪失感も少し和らいでくれた。
それからというもの、T君は毎日のランニング習慣を再開した。体力もすぐに戻り、昼休みを利用して走っている大人の市民ランナー達を余裕で抜き去るくらいになってきた。それでも母の喪失感を完全に消すことはできなかったけど、走っている間だけは体を動かすことに集中できた。
(そろそろ部活動に戻ってもいいかな……)
そう思えるくらいに体調が上がってきた。
ただ、少し気になることがあった。走っているうちに右膝の皿が鈍く痛むようになり、スムーズに走り続けにくい症状に悩まされるようになったからだ。強く痛むというほどではなく、走り終えてからアイシングやマッサージをすればすぐに治まってしまうが、翌日になって走っているうちにまた同じ現象になるという状態を繰り返している。
父親は整体師として仕事をしているからみてもらえるのだけど、
「太ももの前が硬くなることが原因だな。マッサージやストレッチで症状を和らげることはできるが、根本的に対策するとなると、ランニングフォームを考え直さないといけないだろう。こういうとき、母さんがいればな……」
父親もスポーツ経験は豊富だが、柔道などの格闘技系を中心としてきたため、ランニングについては専門外であると自覚している。それでも、ランニング系の動画をチェックしながら、必要と思えるポイントをT君と一緒に考えてくれた。解決策は見つからなかったけど、そうしている時間は楽しいものだった。
翌日、T君はいつものコースを軽快に走っていた。途中で横断歩道があり、いったん止まってから左右を確認した。近づく車はないから、また走り始めようとしたとき―
「うわぁ!」
右足が何かにひっかかる感触があって、バランスを大きく崩した。
耐えきれず、派手に転んでしまう。
なんとか受け身は取れたけど、左の膝を道路に強く打ち付けてしまい、ビリビリするような痛みがすぐに走った。見てみると、皮膚がすりむけて血がにじみ始めている。なんとか立ち上がり、横断歩道を渡りきってから体の具合を確認した。骨や靱帯に損傷を受けるほどでは無さそうだから、T君はとりあえず安心した。
(なんだか最近、運が悪いかも……)
ついネガティブに捉えてしまう。
そうして家に帰り、転んだ原因を改めて考えてみた。
これまでT君は、走っている時に転んだことなど一度もない。だから何かにつまずいたのだと思ったけど、路上にはゴミもなかったし、出っ張りなども見えなかった。つまりは、T君自身に原因があるということだ。
自慢のシューズを改めて眺めた。
靴底の厚さを生み出すミッドソールをかかとあたりから眺めると、極端な台形であることに気づいた。この形だから安定感が増すのだけど、足幅よりも広がりを持つ構造だから、素人目にも引っかかりやすい形に見えた。
(これが原因だったのかな……)
立ち止まるときに左右の足をぴったりと閉じた状態で立ってしまい、そこから走り始めようとしたときに、シューズ同士が引っかかってバランスを崩したのだろうと推測した。原因が分かれば対処法はあるから、今度から気をつければ良いだけだが―
(厚底シューズ、やっぱりやめようかな……)
ふと、そんな考えがよぎった。
母親にシューズをねだったときのことを思い出す。
―そんな靴で足を甘やかしたら、ダメになるよ
苦笑しながら言っていた。
その理由を詳しくは理解できなかったT君だけど、足を痛めてからいろいろと調べるうちに、厚底シューズのメリットとデメリットを知るようになった。簡単に言うなら、性能の良いアイテムというものが便利であればあるほど、人間が本来持っている機能を退化させる危険があるということだ。
「薄底のシューズって、あったかな……」
以前に使っていたシューズは履きつぶしている。
新しいシューズを買うお金も、ねだる気にはなれない。
ふと母の遺影を眺めたT君は、
「そうだ……」
遺品として残していた、母のシューズを思い出した。
さっそく袋から出してみる。
青春時代に使っていたと思われるシューズは驚くほどの薄底タイプであり、ロードレース用に特化しているのか、アウトソールと言われる靴底もフラットな作りだ。かなり使い込んでいるけど、二十年近く経ったはずの今でもずいぶん状態が良さそうである。
「まだ使えるかも……」
そう思ったT君が足を入れると、不思議なことにサイズがピッタリだった。
「え、マジで?」
驚いたT君だが、シューズが使って欲しいと言っているように思えたので、遺品として整理する前に使ってみることにした。
それから三週間が経った。
T君は母の遺品である薄底シューズで、日々のランニングを続けていた。使い始めた当初は地面からの反発が強すぎてかかとや膝が痛んだけど、その都度、自分の走り方を微調整していくことで対応している。今では、自分の筋肉を効率よく使って走る感覚が身についてきた。土踏まずと言われる足裏にも張りが出てきて、足先をバネのように使えている感覚が心地よかった。
(お母さん、このことを言ってたんだな……)
言葉では伝わりにくい感覚を、ようやく理解した。
遺品であるシューズに大事なことを教えてもらったから、このシューズはもう、遺影のそばに戻そうと考えた。そうしてT君は、父親と一緒にスポーツ店へと向かった。母のシューズと同じタイプのものはすでに生産されていなかったが、意図を理解した店員は、他のメーカーで近いタイプのシューズを勧めてくれた。
「おお、これはなかなか良いな~」
試し履きで気に入ったT君は、迷わず購入を決めた。
そうして、意気揚々と家へ戻った。
すぐに新しいシューズを履きたかったけど、先にやることがある。
母のシューズを返さねばならない。
下駄箱からあのシューズを取り出そうとすると―
「うわ……!」
ボロボロと何かが崩れて落ちた。
見ると、ミッドソールと言われるクッション部分がボロボロだった。
となりで見ていた父親が、
「加水分解ってやつだな。白いクッション部分ってのはポリウレタンを使っているはずだけど、こいつは水に弱いんだ。一年や二年は大丈夫でも、数年も経てば、ボロボロになってしまう。さすがにもう限界だったんだろうな」
「でも……」
昨日まで、そんな雰囲気はまるでなかった。
T君の足にフィットして、正しいフォームに導いてくれた。
これではまるで、一日で急に時間が進んだみたいな状態だ。
「……あれ、何か変だな?」
シューズが縮んだように見えたT君は、もう一度はいてみることにした。
だけど―
「うそ! めちゃくちゃ小さいよ!」
まるで別のシューズだった。
考えてみれば、小柄な母のシューズがフィットするわけがなかった。
「不思議なことがあるものだな……」
父親が、微笑みながら言う。
目に少しだけ涙を浮かべている。
「そうだね……」
T君も微笑み、ボロボロになった薄底シューズを袋に入れた。
そうして、母の遺影の前に置いた。
このシューズで走った三週間。
それは、母による最後の指導だったのかもしれない。
明日は、四十九日の法要が行われる。
最後までお読みいただきありがとうございます。既報のとおり、第1~15話については公開を停止しました。再編集した上で電子書籍での販売をしております。興味ある読者さまは、活動報告をご覧下さい。短編の投稿はこれからも続けますが、週に一回くらいのペースになりそうです。