習作1
振り返った先――空中には小さな樹神が浮遊していた。
老木に宿り、普段は青白い怪火として姿を見せ、時に人に化ける妖・樹神。
薄暗い森の中で、樹神の周りだけがはっきりと明るい。青い輝きは奥の方まで見受けられ、その数はただの迷子である灯矢を絶望させるには十分だった。
笑い声があたりに満ちるが、決して親愛の響きを伴わない。灯矢はその不思議な反響に耳を傾ける暇も余裕もなく、即座に後ろを見せた。
悲鳴を上げていたかも知れないが、自覚はない。
木々に跳ね返って何重にも増幅したいたぶる笑い声が背後から追いかけてくる。
遮二無二走っていれば足元が疎かになり、木の根に蹴躓き藪に頭から突っ込んでしたたかに腹を打った。その拍子に草履も脱げどこかにすっ飛ぶ。痛みに打ちひしがれ動けずにいるその間も、けたたましい笑い声は距離を詰めてくる。
なんとか足袋でも逃げおおせようとあがくも、足を捻ったらしい。立つこともままならない灯矢を無数の樹神が取り囲む。
円に並ぶ樹神は怪異としての本性を現さんと、その炎をゆらりと大きく揺らめかせ人の顔ほどに巨大化した。
「目を閉じて!」
恐怖で顔を引き攣らせていれば、少女の鋭い声が矢のように飛んできた。思わず反射的にその命に従う。
「罪という罪はあらじ、科戸之風!」
更に凛々しい声が響めいたかと思うと、頭上で風切り音が轟いた。それに交じり、意図的な暗闇の中凶暴な悲鳴が上がる。
わけも分からず寝転んだまま怯え頭を抱える灯矢の前に、小さな足音が近付く。
「もう大丈夫、目を開けて下さい」
先程とは違う少年の声に薄目を開ける。ちゃんと人の形だったことに安心して身を起こし辺りを見回せば、全ての樹神が灯矢から距離を取っていた。
「うおおおおりゃあああ!!」
少年が差し伸べる手に自分の手を重ね立ち上がれば、野太い叫びが疾風のように横切った。かと思えば樹神の悲鳴がもう一度。
「行きましょう」
第三者の唐突な雄叫びに気取られる灯矢に反し、意に介さない少年はそのまま手を引いて走り出す。
灯矢は未だ震える足をなんとか叱咤して導かれるままに走った。人の手まで借りて、痛みは動けない言い訳にならなかった。
手を引く少年が、行く先に向かって叫ぶ。
「文月、今だ!」
「承知!」
通り過ぎる木々の隙間から、矢を番える少女が合図に短く応じた。
「科戸之風!」
白い光を纏った矢が謎の文言とともに発射される。鏃は目にも留まらぬ速さで複数の樹神を一度に射貫く。聞き覚えのある風を切る音に、先程頭上を過ったのは矢だと判る。
「竹彦、任せた!」
「応ッ!!」
あの野太い声が咆哮のような返事を少女にする。安全地帯から遠目に見ても大きな剣を青年は自在に操り、浮遊して上下左右に逃げ惑う樹神に斬りかかりその数を着実に減らしていく。
休みなく繰り出される剣戟を免れた樹神が、彼の手の届かない上空へ移ろうとした。
「八十禍津日神よ鎮なえに去ね 喼喼如律令」
まるでその際を狙ったかのように、大きさも早さも先のとは桁違いの矢が空に飛ぶ。樹神はその眩い白光に巻き込まれ、光が収まった時には消滅していた。別世界のような木下闇と静けさが眼前に広がる。
「暁、怪我は」
呆然と立ち尽くす灯矢を置いて、打って変わって冷静な声で竹彦と呼ばれた青年が安否を問う。
「平気。この人はこけてたみたいだけど……」
「アンタ、どこか痛むか」
「え、あ、おれは……」
眉をぴくりとも動かさない竹彦が気に掛けるが、さっきの今で状況が呑み込めない灯矢はどもってしまう。
「だめよ竹彦、そんな怖い顔しちゃ。私は文月。大丈夫ですか?」
「あっはいっ大丈夫です……えっと、おれは灯矢で、あの、あ、ありがとうございました」
合流した文月にしどろもどろながら何とか伝えたいこと全てを言い切る。
「どういたしまして。灯矢さんが無事でよかった」
「あの、あなた達は?」
人ならざる樹神に対抗した三人組。こういった力を有する者は、自ずと正体が限られてくる。陰陽師か阿闍梨か巫か、はたまた敵と同じく人ではない某か。
「私たちはすぐ近くの村に住む者です」
「いや、そういうことではなく」
「なんで初対面のお前に一から説明してやる必要がある」
竹彦が厳しい面持ちで追及を制すので、灯矢はすっかり萎縮してしまった。
「灯矢さん、よければ村でお休みになりませんか。けがの確認も兼ねて」
灯矢の心情を察した暁が気を遣う。
かくして灯矢は、文月たちが住まう三門村に邪魔することになった。