肩書き「小説家」
私は社会不適合者である!!!!!
冒頭から何を言っているのかと思ったみなさん、安心してくれ。かくいう私もたった今そう思ったところだ。というのも、話せば長くなるのだが、たらたらとなんでもないことを書くのがエッセイの本質だと思うので長い話をしよう。
というのも、私は従業員として働くことが絶望的に下手くそなのだ。まず、生まれ持ったADHD気質のせいで複数の業務を一度にやることができない。例えば、配膳をしながら喋ることができない。自分でも何をやっているのかよくわからなくなる。居酒屋でアルバイトをしていた時、シーザーサラダを出しながらレモンサワーですと言って大笑いされたのを今でも根に持っている。全て私が間抜けなせいなのだが。
そして、他人との付き合いが絶望的に下手だ。デリカシーがないためかとてもよく人に嫌われる。従業員として働くためには、上司はもちろん同僚、職種によってはお客様と会話をすることが必須だ。しかしながら、特異な性格だと思うのだが、綺麗に50%の人間には好かれ50%の人間には嫌われる。当然好いてくれる分には全く問題ない。私を可愛がってくれる先輩や上司、慕ってくれる後輩も少なくない。友達も周囲に比べればなんなら多い方ではないのかとさえ思う。そう、彼らとはうまくやっているのだ。だが問題はもう半分の皆々様だ。彼らは私を親の仇のように嫌うのだ。このような表記をするとまるで責任転嫁をしているように見えるだろうが、しかし、二十数年の人生を歩んだというのにも拘らず未だに私はどこを改善すればいいのかいまいちよくわかっていない。気がつくと嫌われている。幼少期から武道を習わさせられていたので、私は挨拶や返事を重んじるタイプの人間なのだが、大きな声で挨拶をすると彼らは決まって無視を決め込むのだ。質問を無視されることも日常茶飯事だ。これでは業務に支障が出る。自分でもどうすれば改善できるのかと悩みに悩みつくした。しかし、依然問題点は見つからないのだ。ほとほと困ったものだ。これは経験則から来る持論だが、人間は仕事のための関係性を築くのに約1ヶ月の期間を要すると思う。裏を返せば、初めの1ヶ月で関係性は決まってしまうのだ。ここで約半分の人間は私を猛烈に嫌うのだ。そうすると2ヶ月目の中頃から段々仕事に行くのが辛くなってくる。出勤すれば無視されるのがわかっているのに、るんるん気分でいられる人間がいるだろうか。3ヶ月目には限界が来る。そうして私は4ヶ月目の頭には退職を余儀なくされるのだ。
つまり、私は集団行動ができないのだ。周りの人間と関わり合いを持つことが絶望的に下手なのだ。一人で黙々と仕事に取り組む方が性に合っている。社会不適合者である。それならばと思い私は一時期工場の生産ラインで働いてみたことがある。しかし残念なことに、私の体は肉体労働に適していないようだとわかった。ここでは割愛するが様々な問題が噴出し、結局その職場は1ヶ月も経たずに辞めることになった。では、肉体労働でもなく集団行動も求められない仕事とは。ありがたいことに微弱ながら私には文章を書く才能があった。それじゃあやってみようということでライターを始めたのだ。ウェブライターを始めて数ヶ月した頃、私はとあることに気がついた。私は以前、小説を投稿していたじゃないか。そして今もなお趣味として小説を書き続けている。では、こちらも運用してみよう。そんなこんなで私は肩書き「小説家」としての道のりを歩み始めたのだ。これが約一週間前のことである。最初に自ら課した目標は毎日投稿。やってみてわかるがこれがかなりきつい。週刊連載の漫画家はどこか狂っているという話を聞くが、これに絵がつくと思えば確かにその通りだ。やってられないだろう。血反吐を吐きながら踏ん張っている作家達のためにぜひ今週だけでもジャンプを買っていただきたいと切に願う。
エッセイを書くのは随分久しぶりだ。最後に書いたエッセイは「庭の大穴」。読んでいただけただろうか。私のユーザーページに投稿してあるのでぜひご一読していただきたい。あれは私が対人障害を患っていた時に書いた作品だ。現役心療内科患者のエッセイを読む機会はなかなかないと思う。自分で読み直しても結構イカれてて面白い。作中に書いてあるが、私はとある文献を読んで庭に大きな穴を掘ることを決意したのだ。それは、「空井戸に入れば昼間でも星を見ることができる」というもの。元々天体観測は好きだったし、新しく知った事柄を試したくなる性分もあってすぐに決行した。結局星を見ることはできなかったのだが。それでも何かをやり遂げたという実感や体を動かすことは回復に一役買ったのではないかと思う。
そもそも私の処女作はエッセイだった。「忘れ物」という題のものだ。今になって振り返ってみると、私はこの頃から全く成長していない。家の鍵は閉め忘れるし、バイクに乗るのにヘルメットを部屋に置いてくるし。しかしSさんとの親交は未だ続いているし、以前よりも深まったように思える。彼女も私が社会復帰するために必要なキーパーソンだった。様々な面で支えてもらったと思う。今年の年始に年賀状をいただいた。今手元にないので厳密に正しい文章ではないのだが、回復を祝ってもらえた。本当に嬉しかった。涙が出た。文章にして公開することはできても直接伝えるのは小恥ずかしくてできないという何とも難儀な性格をしているので、この場を持って感謝を伝えたい。ありがとう。いつか恩返しさせてください。ちなみに年賀状は返していない。ごめん。
小説家、エッセイも含めて考えれば正しくは文筆家。そのような肩書きを持ってみて痛感するのはやはり文章の面白さだ。アイデアという依代を使って、心のうちにある感情や思想を組み立てていく。同じアイデアでも書く人間によって構成や結末は大きく変わっていくだろうし、同じ思想を書くにしてもアイデアによって雰囲気が全く変わってしまう。だから、私だけの持つアイデアと私の思想。それを掛け合わせることで作品を作り出す。この快感は何にも勝る。
聡明な読者の皆様ならある程度お察しかと思うが、私の作品には「愛」か「痛み」を享受するキャラクターが必ず存在する。それを目指して書いているわけではないのだが、必ず彼らは私の作品の中に顔を出すのだ。あれはきっと私自身なのだろうと思っている。私の哲学の根幹は「愛」と「痛み」だ。
まず「愛」だが、全ての生物は愛を持ってこの世に生まれてくると思っている。そして保護者、多くの場合母親を愛そうとするのだ。しかし子供の愛に対して完璧に応えることのできる母親は存在しない。なぜなら母親にはすでに完成した人格があり、愛の対象は複数だからだ。しかし子から母への愛は全身全霊だ。これでは釣り合いが取れない。すると子供は自分の愛は成立しないと気がつき、絶望する。これこそ自立への第一歩だ。これはアダムとイヴの失楽園とまるで同じ構図になっている。人間とはえてしてこういうものなのだろう。そうして絶望した子供たちは、いつか自分自身を愛してくれる対象を探し求める。これを埋めるものは様々だが、多くの場合うまくいかない。人間は完全な愛を持ち合わせていないからだ。その葛藤が私の哲学にはある。
そして「痛み」について。これは「愛」と大いに関係している。「痛み」とはつまり、失楽園の絶望なのだ。この痛みがあるからこそ人間は愛を追い求めることができる。希望を探そうとすることができる。これが人類の持つ希望なのだ。誕生し、絶望し、回復する。キリスト教的「悔い改め」だ。私たちは回復のその日を待ち侘びている。いつかその日が来ることを信じている。
格好つけておもしろくないことを書いてしまった。申し訳ない。ただ、私の根源はこのようなものだということを知っておいていただけると、おそらく私の作品の見え方が変わってくると思う。
それにしても、ここまで考える脳みそがあるのならなぜその1%でも人間社会に馴染めるような力にできなかったのだろう。カタカタとキーボードを叩き続けることが私に与えられた使命であるような気がしてならない。全く、社会不適合ここに極まれり、だ。とは言っても私自身、この仕事が好きだ。新しいトピックについて触れるためには新しい知識が必要だ。毎日勉強になる。それに、様々な立場の人間について考える機会が与えられていると思う。これまでに登場した主人公は男女どころか動物までいる始末だ。自分の人生だけでは体験することのない立場に自分を置くことができる。これは他人と関わる上でかなりのアドバンテージになるんじゃないか。ということは、こうやって引きこもることこそ社会復帰への第一歩なのか?社会復帰。いや、そもそも私は社会でうまくやっていたことなど一度たりともないので「社会登場」とでも言おうか。おかしな話だ。もしこんな言葉があったとしても新成人か新生児にしか使えるはずのない言葉だろう。そしてきっと私が「社会登場」することはないだろう。第一歩などと嘯いてみたものの、そんなイメージは全く湧かない。きっと私は死ぬまでこんな風に拗れた生き方をする他ないのだ。
でも、それでいい。できることをひとつずつやっていくことこそが人生の最短経路だ。できないことはできるようになったらやればいい。きっと数年前の私にはこうは思えなかっただろう。向いてもいないことに精一杯になって、当たり前にすっ転んで大怪我をした。私の生き方はそうじゃない、この生き方こそきっと私なのだ。これがわかっただけでもある程度の成長と言えるな。やればできるじゃないか。
ここらで今回は終わりにしようと思う。久しぶりのエッセイ、どうだっただろうか。決してネタ切れでエッセイにしたわけじゃあないよ、多分。そんなこんなで頑張って生きております。段々PV数も増えてきて、とても嬉しい。毎日新作投稿してるから見てね。よければ感想も書いてくれるととても力になります。ここまで読んでくれてありがとう。それじゃ、また明日。